クリスマスソング


修士論文のメインになる実験がうまくいかない――
修士課程2年の2人が申し出てきたので、神保教授は実験室の使用を許可し、自らも自分の研究室に出てきていた。
まとまった仕事をする気にはならず、某雑誌から依頼されているエッセイを書くつもりだった。
いつもは電子メールで送っているのだが、先方にもついでの仕事があるとかで、大学まで取りに来て挨拶をしたいと言ってきていた。
学生の実験室を覗いてみると、4人が殺気立っていた。
修士課程1年の佐山美佳子と学部4年の高崎悟がまきこまれているのだった。
この時教授は中納と高崎を自宅のクリスマスパーティに呼ぼうと思った。
12月24日。
世間では恋人同士が盛り上がっているのだから。

予定時刻を過ぎても、担当者が現れない。
案の定渋滞に巻き込まれたのだ。
教授はいつものように電子メールで送ると連絡したが、担当者と連絡が付かないのだという。
早くしないと、中納君と高崎君が全く無意識に邪魔をする。
雑誌社に連絡を依頼して原稿を送った。
それから大急ぎで学生の研究室に向かったのだが、佐山美佳子が鍵を掛けているところに出くわした。

「佐山君……、中納君と高崎君は?」
「男子3人で打ち上げに行きました」
一足遅かったのである。
「佐山君はどうしていかなかったんですか?」
「弟がいじけるので帰ります。あの子、最近ヘンなので」

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涼としては海野が送ってきているのを振り切りたい。
彼氏気取りの男とイヴを過ごすなど御免被りたい。
しかし、今の涼では海野を置いてきぼりにするようなスピードで歩けるはずもなかった。
仕方なく極力無視することに決めた。

ドラッグストアに入れない涼が医者に行けるはずもなく、結局海野に手当てされている。
海野は薬もナプキンも堂々と買えるらしい。
海野と2人きりで、しかも恥ずかしい姿をさらしているのに、なぜかいつも睡魔に襲われる。
目覚めると前よりも患部が酷くなっていて、ズキズキするのだ。
海野は手当をやり直しながら、ぽわーんとしただらしない表情をしている。
いつまでたっても治らないのは、海野の手当に原因があるのではないかとも思う。
しかし、他に相談するところもない。

繋ごうとする海野の手を何度も払いのけ、たたき落として、地下鉄の駅を降りていった。
突然、前を歩いていた涼が立ち止まった。
「……みかねえ…」

おねえさんと鉢合わせたなら好都合、と海野は思った。
恋人同士として過ごす初めてのクリスマスイヴだ、熱々だろう。
そんな姉の様子を見てしまえば、涼も2人の仲を認めざるを得なくなり、俺がさやちゃんに誉められる。
さらに、落ち込んだ涼が俺の腕に飛び込んでくるから、一石二鳥。

海野も涼の視線の先を追った。
線路を見つめている美佳子の傍らに、ひょろりとした男の姿はない。
女性としては大柄でも小柄でもない美佳子は、いつもは実際よりずっと大きく見えるのに、
今はハッとするほど小さく見えた。
言われてみなければ気が付かない、まるきり別人なのである。
まだ日が暮れたばかりなのに、彼女が一人で帰る途中なのは明らかだ。

別れてしまったのか。マズいな……。
海野は愛しい恋人の方を窺った。
姉にくっついていた邪魔な男がいなくなって、ほくそ笑んでいるだろうか。

かたまっていた涼はくるりと後ろを向くと、人混みを掻き分けてエスカレーターの方へ向かった。
「あのヤロー。殺してやる」
「ばかっ、おまえ…」
「みかねえを泣かせた」
「泣いてなかったじゃないか」
「同じことだ」

涼は人を押し退け、大股で進んでいく。
――またナプキンが血まみれだな――
海野は不埒な想像をしながら後を追った。

磯崎佑哉を殴るつもりでも彼の家「天鳥」しか思いつかない。
店内はデート中のカップルでいっぱいであり、冬休み中アルバイトの女子大生が忙しく働いていた。
涼は殺気立っていてまともではない。
海野は涼よりも早く佑哉の不在を確認した。
「まだ帰ってこないわよ。今頃デートでしょ」
オーナーがのんびりと答えた。
それを聞くと、涼はその場にへたり込んでしまった。
「……他に女がいたのか…」
今度はオーナー目を丸くした。
「えー? みかこさんは帰ったのォ?」
みかねえを名前で呼ぶな――と思ったが、この際どうでも良かった。
「美佳子さん以外につきあえる人なんかいないわよ、ぜんっぜん、アテがないんだから。
もうっ、佑哉ったら何やってんの、あのばか!」
涼の殺気が消えたのと入れ替わるように、彼の伯母が怒りはじめた。
海野は涼を立たせ、紙袋を渡した。
「すみません、トイレ貸してください」

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佐山家の両親共に、家族で過ごすクリスマスは3人だろうと予想していた。
今年は去年までとは違い、両親と最近大人しくなった涼の3人であり、娘は恋人と食事をしてくるのだろう――と考えていたのだ。
が、涼は海野の家に行ったまま帰ってこない。
海野は涼の唯一の不良でない友人だから、悪さをすることはないだろう。
暴走行為も今年は余所の子の仕業である。
恋人の実験を手伝うために大学へ行った美佳子は、まだ宵の口に帰宅した。
帰ってくるとすぐにお風呂に入ってしまい、そのまま部屋着に着替えてしまった。
肌着を手洗いしていた様子だが、別に変わったことでもないので、何も訊かなかった。
恋人がいるのに、両親とクリスマスイヴを過ごすつもりの娘に、何か訊けるはずもない。

その時、娘の携帯が震えた。

「ハイハーイ! あ、中納クン?」
娘の声は急に明るくなった。
「周りはカップルだらけだって? それはそうでしょうよ。
…ん?…私? バカな弟がいじけるからね…。あー、もう、今さら出かけないよ!
せいぜい周りのカップルに当てられて、男3人で楽しみなさい。
……はははっ! そんなに謝らなくてもいいって。……じゃ!」

娘の電話から、佑哉君は中納君達と遊んでいて、彼女は誘われなかったのだと分かった。
「なんだぁ。せっかく美佳子が帰ってきてるのに、涼のヤツは」
父は急に機嫌が良くなった。
自慢の娘が男といちゃつくクリスマスイヴは面白くないが、男が娘に辛く当たったり浮気をしているのなら尚更許せない。
彼氏と一緒にいるのは男友達であって、女の子ではない――
娘も安心して家族と過ごせるだろう……父は「良いクリスマスだ」と思った。
母は父の機嫌を見て肩をすくめた。
――娘がガッカリしてるの、わからないのかなあ。

美佳子はパーティセットを片付け、自室に引っ込んだ。
買ったばかりの、いつもより赤味の強い口紅をポーチから取りだし、ほとんどリップクリームのような愛用品を替わりに入れた。

クリスマスデートなど低俗だと思う。
自分も佑哉もクリスチャンではない。
関係ない。
商業主義に踊らされた恥ずかしい1週間は、その場にいたユッコちゃん以外には内緒。

「もっと綺麗な色。みかんちゃん単品だと美人なんだから。弟を近寄らせなきゃいいんだよ。
デートに弟が付いてくるわけじゃないでしょ」
「それはまあ、そうなんだけど」
「ほらほら、これ。似合うよー」
「……たまにはいいよね」

「勝負下着って持ってる?」
「ナニ、ソレ」
「知ってるじゃん。彼氏、絶対、クリスマス狙いだよ。みかんちゃん、スポーツブラでしょ?」
「!……どうしてそれを…」
「類友だもーん。私も一昨年までそうだったってこと。セクシーに行く? 可愛く迫る?」
「うーーーーーんっ、どっちもパス!」
「……だよねえ」
「せめてこっちのコットンレースにしとく」
「ま、いいか。あの彼氏なら十分鼻血噴いてくれそう」

「みかんちゃん、基礎体温は付けてるよねえ?」
「えー? 付けてないよ」
「だめじゃーん! 彼氏ができたらそんなの常識。妊娠するのは女の方なんだからね」
「……まだ、全然、そんなのは…」
「その時になったら急展開なんだよ」
「そういうものなの?」
「そういうものなの!……ああ、みかんちゃんに私が何か教えるのって初めてー」
「そうだっけ?」
ばかみたいだ。
でも、心がくすぐったくて、……。
握りしめた拳の上にポタポタと涙が落ちた。
「呆れる……本当に、私…ばかだ…」

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男3人の集団は周囲の甘い雰囲気から浮きまくっていたのだが、誰も気が付かなかった。
日付が変わってからの帰宅となったのに、伯母も妹も腕組みして待っていた。
「佑哉、そこに座りなさい!」
伯母が指し示したのは床である。
いつもは妹の方がギャーギャーと文句を言い、伯母はのらくらして、最後には妹の味方になる。
そこで佑哉は這々の体で逃げ出すのだが……妹はこめかみを押さえて大きな溜息を吐いている。
仕方なく冷え切った床に正座した。

伯母と妹は交互に「よりによってクリスマスイヴに恋人を誘わず男デートをしてくるとは何事か」と責め立てた。
「いや…でも、美佳子さんは弟がいじけるからって……」
「おばかの涼ちゃんならあんたをぶっ殺すって怒鳴り込んできたわよ!」
「とりあえず奥に通して、とっておきのシャンパンを出したんだって。私達の分はもうないよ」
「もうわんわん大声で泣いちゃって、最後には足が立たなくてさ。海野クンが抱えるようにして帰ったわ。
不肖弟があんなに怒り狂うとはね……あんた、美佳子さんを相当に傷つけたね」

真夜中だったが、美佳子に電話を入れた。
メールにすべきだったか…と思ったが、美佳子はすぐに出た。
「あ…あの……きょうはごめんっ!」
―ん? いいよ。佑哉君も中納君もやっと成功したんだもん。良かったなあって私も思うよ―
「…うん……」
―これから大忙しだね。そっちは手伝えないけど、頑張って。じゃ、おやす…―
「待って! 明日! いや、今日だ、今日! 今日、空いてない?」
―私なら空けてあるよ―
「空いてる! 良かった……今日、会わない?」
―……うん―

兄がどうにか約束を取り付けられた様子だと見た紗耶香は、ぶつぶつ呟きながら、自室に引き上げた。
「信じられない……バカ、サイッテェー!…」
「兄をバカと言うな」と文句を言いかけた佑哉は、伯母に睨まれて黙った。
伯母も同じようにぶつぶつ言いながら引き上げた。

伯母も妹もヒステリックに怒るものだ、と佑哉は肩をすくめた。
不肖弟が姉の恋人を快く思っていないのは、今にはじまったことではない。
美佳子だって弟を心配して帰ったことに違いはないし、それがもしすれ違ったからといってメソメソ泣くようなバカな女ではないのだ。
それに、実験の後の中納や高崎と一緒のデートより、改めて会うんだから却って良かったと思う。

snowwing

伯母と妹には、約束よりも相当早い時刻に起こされた。
紗耶香は待たせるような失礼があってはいけないと考えた。
兄が9時にセットした目覚ましを8時に直しておいた。
伯母もまた、待たせるような失礼があってはいけないと考えた。
甥が8時にセットしてあった目覚ましの針を1時間早めておいた。
もっとも、プレゼントを用意していなかったことに気が付き、2人に散々絞られ、
紗耶香同伴で「午前中はプレゼントを買いに行く」ことに決定した。

開店時間に合わせて3人で女性用の小物のコーナーへ行った。
紗耶香のBF藤本辰也はもうすっかり諦めていた。
クリスマス用のラッピングは「これ!」といったものが残っておらず、普通の包装にしてもらい、文房具店で小さなカードを調達した。
「可愛いのはあるけど、お兄ちゃんらしくちょっとださくしとかないとね。あー、難しい」

待ち合わせ場所に着いたのは5分前だったが、彼女は既に待っていた。
髪が短い。
いつ切ったのだろう? 昨日はどうだったのか、兄しか知らない。
確かめようと思ったが、兄はもう「待たせてごめん」といいながら、嬉しそうに行ってしまった。

お兄ちゃん、誉めなよ!
常識だよ!
実際ショートの方がよく似合って可愛いし。
何せ私の横にいる鈍い男ですら「可愛くなるもんだねー」なんて言ってるくらいなんだから!
「随分早かったね」
「うん。午前中美容院に行ってたの。早く終わったから、早く着いたんだよ」
「あ、そういえば、首が寒そうだ」
「はははは」
「ばか……」
「プレゼント、マフラーにして良かったね」
辰也はあくまでも前向きだ。よく言えば。
辰也の方は「昨日デートできたんだから今日は尾行だろう」と覚悟をしてきたので、余裕があるのだった。
「雨、降りそうだね」
美佳子が曇天を見上げた。
兄が目を細めた。
可愛いと思ったか、
思ったら、すかさず口に出せ!
「雨だよなあ」
ビルの陰で紗耶香と辰也がずっこけているのを、佑哉は知らない。
「雪にはならないね」
「年内は仕方ないよな」
「だよね。でも、低気圧が八丈島のところに来てたから、ちょっと期待したんだ。
……雪、見たかったな」
「……見に行こう」
「え?」
「大月くらいならどうだろう? 雪、積もってるんじゃないかな。
時間、ある?」
「あるよ!」

紗耶香がガッツポーズを取った。
辰也ですら「よしっ!」と口に出していた。
尾行開始である。


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