新年の思惑


12月27日

ドサッ!
「イテテテテ!」

何度となく繰り返される、キモい騒音。
数えているわけではないが、年が明けるまでにはマジで108回いくのではないか――
と、紗耶香は思った。

もうほとんど目立たぬほどになったが、クリスマスデート翌朝の兄の顔を見て、紗耶香は息を呑んだ。

兄の恋人は、空手でならす猛者だが、それでも女の子である。
男の顔を腫れあがらせるほどに殴ったということは、
彼女が必死の抵抗をする必要があったということではないか。

「お兄ちゃん、何をやったの !? 」
「……殴られた」
「その前よ!」

兄は目を白黒させつつ、大月で食事をした後の説明を繰り返した。
「遅くなったから」と送ろうとした恋人を、女の子がこんなに酷く殴りつけるはずがない。

伯母と紗耶香との追求は、美佳子がお見舞いの花束を持って現れるまで続いた。
そこで、はじめて、3人とも「誰に殴られたのか」を話していないことに気が付いた。
平謝りの美佳子に兄の看病を頼んだ。
幸い打撲だけなので、放っておいても治るはずだ。

しかし、兄の苦悩はそこから始まった。
「恋人に心配させたくない」「不肖弟のやったことを気に病んでいたら可哀相だ」
でも「恋人が毎日通ってきて面倒を見てくれるのは嬉しい」――
という複雑な事態になってしまったのだ。

抱き枕を抱きしめて転がるのは、いつものことだ。
だが、苦悩が深い分、勢いがある。
兄は必ずベッドから落ちるところまで転がるのだった。

ドサッ!
「イテテテテ!」

紗耶香は頭を抱えた。
こんなものを108回も聞いていては、煩悩倍増もいいところだ。


「さやー! 買い物行ってくるから、店番頼んだわよーッ!」
階下の声に答えて、紗耶香は店の方へ移動した。
客は海野だけだ。

海野にも涼の不可思議な凶行について聞いてみたのだが、
「おねえさんを取られたようで気にくわないんだろう。いずれ落ち着くさ」
とのんびりしたものである。

何が「とられた」というのだ?
おまえは連れ子か?
しかも、今は「結婚する」と言っているわけではない。
今どき中学生でも笑ってしまうような清い交際をしているのだ。
(兄の妄想の内容までは分からないが、実行に移したわけではない。)

「ところで、海野君は大掃除終わったの?」
「息抜き中」
「ダメだなあ。日のあるうちにやりなさいよ」
「今日はこれから大学」
「えー?」
「ロシア語の演習問題出しに行く。今日が本当の最終期限なんだ」
「…ロシア語?…へぇー」
コミュニケーション文化だっけ? さすがだね、と紗耶香が言う前に
「それが…ロシア語を選択する学生は少ないから、ロシア語をとったという時点で不可は出さないって聞いたんだけど……」
海野が溜息を吐いた。
「本当に0点じゃダメで、せめて2桁得点取れっていうんだ。
…まったく…無責任な噂だよな」

――2階にキモヲタ。1階に真性バカ。

「それじゃ……早く出しに行きなよ」
「平気。〆切3時だから」
いいから、さっさと行きなさいッッッッッ!
お客ではあるが、紗耶香は海野を怒鳴りつけた。


ライン

――血の気が引いた。
涼は追いつめられてしまった。

いつものように、「超うす型」を失敬しようとしてハッとした。
――5枚しか残ってない――
ここで1枚貰わないわけにはいかないのだが、姉が帰ってくる前に補充しなければならない。
さもなければ、絶対ばれる!
涼はとりあえずナプキンを替えて、師走の街に飛び出した。

ユッコちゃんがいるドラッグストアでは絶対に買えない。
目指すはスーパーの衛生品売り場。

目的の愛用品はすぐに見つかった。
どうせならお徳用を買いたい――と近付こうとしたが、女子高生が2人こちらに向かってくるのに気が付いた。

高校生はドラッグストアへ行け。
スーパーは主婦とかみかねえが来るところだ。
涼は内心舌打ちをして、反対側の洗濯洗剤の方を向いた。
と、すぐ脇に手が伸びて、液体洗剤(詰め替え)の袋が掴まれた。
反射的に振り向くと、買い物カートに座らされている女の子と目が合った。
「おにーたん、ばいばーい」
幼女に合わせてつい手を振ってしまった……。
祖母らしい女性が会釈して通り過ぎていった。

こうしてタイミングを逃したまま1時間経ってしまった。

姉は幼なじみのユッコちゃんと自分たちの買い物をして、夕食材料も買って帰ると言っていたそうだ。
もっと早く起きれば良かった。
正午近くまで寝ていた我が身が呪わしい。

ポン! と背中を叩かれた時、涼は「ヒッ!」息を呑み、飛び上がった。
400m走の後のようにバクバクいう心臓を押さえつつ、振り返る。
「やっぱり、ふしょ…涼ちゃんだったわね」
喫茶店「天鳥」の主人がニコニコしていた。

「あ、あの……」
涼は追いつめられていた。
姉はあと1〜2時間で帰ってくるはずだ。
自分と姉の愛用ナプキンなら何でも良いから手に入れて、とにかく1枚元に戻したい!
あれ…買ってきてください
「やあねえ、あっちは男の子には用がないでしょ」
☆★社の超うす型…お願いします
「あらまっ。ちょっとぉ、弟にそういう買い物をたの…」
姉のナプキンだが、姉のあずかり知らぬことである。
ちがいますっ!
あの男の伯母さんが姉に悪い印象を持っては困る。
あくまでも姉が振ってあいつと別れるのでなければ意味がない。
「知り合いの子が急に…その…だから…」
「ああ、そう? 涼ちゃんにもそういう子がいたの?」
「知り合いです」
「ふーん?」
どうでもいい。早くして欲しい。時間がない。
姉が帰ってきてしまうではないか。
「急ぐんです。お願いします」
「◎◎社の方が安いけど?」
「☆★社の超うす型」
「随分拘るわね」
「同じのでなきゃ困るんです」
「………」
「お願いします」
母ではないおばさんの知り合いなど滅多にいるものではない。
涼の必死さが伝わったのか、オーナーは“おためし”をカゴの中に突っ込んだ。
「105円よ」


ライン

12月31日

姉のナプキンは補充できた。
手元に残ったナプキンは残り2枚。
最悪の危機は回避できたが、相変わらず危機は続いている。
スーパーで知り合いのおばさんに遭遇するという幸運には、結局あの時しかありつけなかった。
あの時「お徳用が欲しい」と食い下がれば良かった―と何度も悔やんだ。

ナプキンを使用するようになってから乗れなくなったバイクを丁寧に磨いていたら
「乗ってないのに、勿体ないわねえ」
と母が声を掛けてきた。
「乗ってるよ」
「乗ってないじゃない」
「今は道路が混んでるから乗らないだけだ」
「ふーん?」
何か言いたげな母の目を逃れるように、涼は外へ出た。

行くアテはやはり1ヶ所しかない。
ベッドにうつぶせになれるのは、海野の部屋だけだ。

―あいつは薬とナプキンを持っている。
行って奪い取ってこよう―
涼は自分に言い聞かせた。


クリスマスイヴに、一晩中海野航一に求められ、受け入れさせられた。
航一はズルいのだ。
なぜか「受け入れてもいい」と思わせる何かの手段を知っていて、自分を翻弄しているのだと思う。
俺は断じてホモではない。
男に抱かれたいと思ったことなど無い。
変態野郎は航一だけだ。

しかし、あれ以来海野が触れてこない。
手当てしてもらう時は無防備な姿になるというのに、それでも手当以外のことはしない。
涼を諦めたというのではないだろう。
2人きりになった時には、必ず抱きしめてキスしてくるから。
焦らしているつもりなのだろうか?
バカなヤツ。
男同士の行為など不自然だ。
涼を女の子の代わりにしている航一の方には特に支障がないのだろうが、涼は苦しいし、後々まで痛い。
苦痛を自ら求めたりするものか。
航一が焦らすつもりで手当だけにとどめているなら好都合というものだ。
……できれば医者には行きたくない。

海野はいつものように丁寧に手当をした。
「今日で1週間。だいぶ楽になったんじゃないか?」
「ああ」
「涼と一緒に新年を迎えるのか。……嬉しいなあ」
つくづくバカなヤツだと思った。
「バカか。俺は家に帰る。
みかねえがミーハーな約束をしてなきゃいいが」
航一は大袈裟に肩をすくめた。

「おまえ、どんな男なら義弟になってもいいんだ?」
「え?」
「いずれはおねえさんだって結婚するじゃないか。
おねえさん、いくつだっけ?」
「俺が20だから…23」
航一は嫌なことを言う。
涼の知っている女の子達は10代のうちに出産して、何人かは結婚もしている。
姉も、年齢だけなら、子どもが2人くらいいてもおかしくはない。
しかし……姉が男に抱かれ、その男との子を産むなどということがありえるのだろうか?
「ユッコさん、だっけ?…まさか、彼女がお嫁に来てくれるとか、考えてないだろうな」
姉とユッコちゃんが仲良く家で暮らす――
その方がまだ自然なことのように思える。
「やっぱり……そうか…」
航一がひとりで納得した。
「いったい何だ?」
「おまえがおねえさんを男だと思ってるってことさ」
「何だと?」

何も知らないくせに!

あれは3歳の夏。
庭のビニールプールで水遊びするために、子ども達は水着に着替えた。
小さかった涼の着替えを姉が手伝い、涼が着替え終わって姉も着替えはじめた。
涼は手持ちぶさたになったから、姉の着替えを見ていたのだ。
一緒にお風呂にも入っていたが、まじまじと姉の裸を見たのは初めてだったと思う。
だから、その時初めて気が付いた。
あーーーーーーーーっ !! おねえちゃん、ちんちんがないーーーーー!
涼は単に驚きを表現したに過ぎない。
それなのに、次の瞬間、鼻に衝撃を感じた。
アツイッ!
と思ったが、「イタイ!」だった。
それが、姉に殴られた最初だ。
姉が女の子であるという事実は、人生のごく初期に、大きな衝撃を以て認識した。
姉の性別を間違えるなど考えられない。
「ふーん。それじゃ、おまえが妹なんだ?」

バキッ!

男の子である自分を女の子のように抱く航一に言われたくない。


ライン

新年の支度の仕上げである。
ついに美佳子の振り袖が陽の目を見る。

思えば、娘の成人式にと用意した振り袖だった。
準備万端整えたところに、涼が交通事故を起こしたという連絡が入った。
成人式どころではなかった。
そして、一昨年も昨年も美佳子は大学の方にいたので、結局一度も袖を通すことがなかった。
「派手だねー」
とは言ったが、美佳子も嫌だとは言わない。
「振り袖なんだから、……地味なくらいよ」
「似合う…かな?」
母は美佳子が娘らしくなっていくのを良い傾向だと見ていた。
娘の恋人が、抱いていたイメージと大幅に違ったことは確かだが、娘は知的レベルの方を優先したのだと思う。
「ねえ、美佳子」
「うん?」
「あんた、今度は絶対行きなさいよ」
「はい…え?…何が?…」
「涼が何やらかしても初詣に行きなさいってこと」
「………」
「お父さんは昔の家の人だから、涼に何かあったら美佳子が面倒見るって言うんだけど
私はそうは思わないからね。
そんな時だけ男女同権だって言うのはズルいわね」
「涼は……」
「あんたをお父さんの従妹の佳枝ちゃんみたいにしたくないのよ。
やっぱり男と女は違うわよ。
男は結婚して女房に両親をみさせるけど、女は独身でいるしかなくなるからね。
そりゃあ…結婚するだけがノウじゃないけど、しないとできないじゃ大違いよ」
「それはそうね…」
「弟妹の面倒見て、結婚させて……本人が40過ぎてから骨粗鬆症のお母さんが嫁にいけったって『はいそうですか』ってできるわけないじゃないの。
お父さんは佳枝ちゃんが不運だったって言うけど、私は佳枝ちゃんがしっかりしすぎていたからだと思うわ。
結局みんなで佳枝ちゃんをアテにしちゃったのよね……」
「私は佳枝おばさんみたいにはとてもできないよ」
「しなくていいわよー。涼は涼、あんたはあんただからね」
「うん。でも、私、涼も大丈夫だと思うけどな。大人になるのに、他の人よりちょっと多めに時間が必要なだけ」
「だといいけど。そうだといいわね。…美佳子がそう言うんだから大丈夫かな」


ライン

天鳥では大晦日だけ深夜まで営業する。
2年参りに出かける常連客のためである。
佑哉も紗耶香もそこで出かけられないので、2日に初デートを兼ねて初詣に行く約束をしてあった。

会えないのは3日間。
妹の紗耶香がきちんと店番しているのだから、兄の自分もしっかりしなければと思う。
だが、チラチラと充電器に差しっぱなしの携帯の方を窺ってしまう。
携帯が鈍い音を立てた。
「お兄ちゃん、携帯震えてるよ」
「お、そうか」
メールが1件ある。
佑哉は向こうを向いてメールを見ていた。

兄は分かりやすい。
「メール、美佳子さんからじゃなかったんだ」
ガックリと肩を落としていた。
「中納さん?」
「……リカ」
「ああ。出会い系」
「うん」
「美佳子さんだって忙しいんでしょ」
「分かってる」

妹にぶっきらぼうに答えてから、佑哉は自己嫌悪に陥った。
出会い系なんかだいっ嫌いだ…。
「間に合ってますってこたえてやるわけにはいかないの?」
伯母が答えた。
どうやら口に出していたらしい。
「他からも山ほど来るようになりますよ。放っとくしかない」

午後は割合に暇なので、昼食兼夕食を食べてしまう。
その間にも佑哉の携帯は震え続けた。

「お兄ちゃん、出会い系に釣られたことあるの?」
紗耶香が軽蔑の目で見つめた。
ないっ!
「にしては多いねえ」
ありませんっ!
佑哉は携帯を取り上げた。
「ユミ、サチエ、カナコ、キミノ、ナツミ、ミワコ、ミカコ、ヒロエ……
いい加減にしてくれっ!……全件削除」
「えええっ?」
妹と伯母が悲鳴を上げた。
「お兄ちゃん、今『ミカコ』って言わなかった?」
「へ?」
「言ったよー。確かに『ミカコ』が入ってた」
「……うそ…」
「何やってんのよー!」
「………」
「よく確かめないから」
うわぁぁぁぁーーーーっぁっっぁっっぁっっ!!!!!!
佑哉は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「それどころじゃないでしょ、お兄ちゃん! 電話するのよ!
今、メール打ってたんだから、早く!」
「お、おうっ!」

呼び出し音の間真っ青だった兄の表情が途端にゆるむ。
「ごめん…間違えて……だめだ、よくないよ!…
え? あ、もちろん……。じゃ、俺の方が迎えに行くよ。
だって、振り袖でここまで来るんじゃ大変じゃないか」

兄の電話内容を聞いた紗耶香は友人(美容師)に電話した。
「そうそう。振り袖になったからよろしくね。30分早め? うん、分かったー。じゃ、明後日ね。よろしくー」

兄がもじもじしながら、紗耶香の部屋に飾ってある人形達に晴れ着を着せたいと言いだした。
単純である。
恋人が振り袖で来ると聞いて、振り袖を見たくなったのだろう。
「いいわよ、あんたは人形のことになったら、やらなきゃ気が済まないんでしょ」
伯母はあきらめ顔で許可した。

紗耶香が様子を覗きに言った時、兄は「至福」といった顔をしていた。
「ね、お兄ちゃん」
「何だ?」
「美佳子さんにも着せ替えしたい?」
「人間と人形は違う」
「ふーん。即答だね」
「………」
「脱がせたいんだ?」
佑哉は驚いて顔を上げた。
「ど…どうして、それを……?
そ、そうか、俺はまた口に出してしまったのか!」
分かりやすい兄は、分かりやすく墓穴を掘り、分かりやすく悩む。
煩悩にまみれた年の瀬である。



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