目を覚ますと、航一が覗き込んでいた。
航一の部屋で寝ている。何故だろう? と涼には一瞬分からなかった。
「おはよう、涼。ちょうど良い時間だよ。スキヤキ、喰うだろ?」
「朝からスキヤキか?」
「……7時だ。夜の」
そこで、涼はようやく思いだした。
ひどく具合が悪くなって、航一を頼ってしまったのだ――と。
姉が「すみません」といい、説明しようとした時には、自分は当然のように航一の腕に縋っていた。
そして、航一は何も言わず、自室に連れてきて、服を着たままの涼をベッドに寝かせた。
「……みかねえ…無事だった」
「よかったな。でも、おまえが心配することなんか無いんだよ」
「あいつはっ!…みかねえのことを…何も知らないのをいいことに……許せない」
「あいつがおねえさんをレイプするって?」
航一は聞きたくない言葉をサラッと言った。
涼が何も言えないので、航一が続けた。
「バカだなあ。あいつにそんなことができるわけないじゃないか。おねえさんの方が強いんだから。
いざとなったら、おねえさんがあいつをぶっとばすさ」
「………」
航一は涼がそこで「それもそうだな」と笑ってくれるものと思っていた。
だが、涼は大きく目を見開いたまま、じっと航一を見つめている。
涼に衝撃的なことを言ったとは考えられない。
何も知らない女の「最初の男」になりたがる男なんぞいくらでもいるではないか。
若ければ若いほど良いという、女子中学生や小学生にすら性的関心を寄せる男だっている。
しかし、たいていの場合、男のそうした嗜好は世間体と折り合いを付けるものなのだ。
あの男が処女をレイプしたいと夢想していたからといって、即刻恋人を犯すという行動には出ないだろう。
恋人に嫌われてまでやるものか。
最初は無理をしないで、マンネリセックスになった頃に、レイプごっこをやってみたいと提案するのだろう。
せいぜいそんなところだ。
まして、美佳子の方が強いのだ。
涼は軽く溜息を吐いた。
「そんな、単純なものじゃない」
それから涼はゆっくり立ち上がった。
そのまま階下へ移動してしまったけれど、航一が何を言ってみても、涼は2度とそのことに触れようとしなかった。
ヴァレンタインデー当日、美佳子は4時前に目が覚めてしまった。
まだベッドに入ってから3時間しか経っていない。
――やっぱり動揺してるなあ…。動揺したって…今からではどうしようもないのに。
もうあのカードは見ちゃっただろうな、と美佳子は思う。
「みかんちゃんったら間違いなく勝てる賭しかしてないのに、心配性だね。
女の方から誘われて、逃げる男なんかいないって。
だいたいみかんちゃん達なんか鬱陶しいほどラブラブじゃない」
ユッコちゃんは自信たっぷりに言ってくれる。
「そ、そうかな。…だったらいいんだけど…」
「もっとも、あの彼氏鈍いから、通じなかったりしてねー。あははは。
明日あたり、覚悟って何? とか聞いてくるかもよ」
「それは困る。そんなの、答えられないよお」
ゆったりとお茶を飲み、いつもの時刻に家を出ることにした。
特に佑哉と約束をしているわけではない。
毎朝同じ車輌で顔を合わせる。
付き合う前から同じ車輌にいたはずなのに、なぜ彼に気が付かなかったのだろう。
美佳子が家を出る時に、ちょうど涼が航一に送られて帰ってきた。
航一にお礼を言い、行きかけた美佳子は思いついて、涼に手を出させた。
弟の掌に義理チョコの余りを乗せてやった。
涼は姉を見送った後、掌に乗ったチロルチョコに気が付いた。
「おまえにやる」
思いがけない涼の行動に、航一が破顔した。
「涼からのバレンタインチョコ」
「アホか。みかねえの義理チョコの余りだ」
「嬉しいなあ。涼のチョコのお返しは念入りにしなくちゃなー」
航一の表情はゆるみっぱなしだ。
今さら涼が悪態を吐いたところで、めげる海野航一ではない。
知り合って5年の歳月が経過していた。
(深く知り合って3ヶ月になる。)
バレンタインデー当日はさんざん中納達に冷やかされたが、特にどうと言うこともなく1日が過ぎた。
美佳子としてはなけなしの勇気を出したつもりだった。
ところが、佑哉はいつもと態度が変わらない。
まったく何事もなかったかのようである。
――彼が私に触れたがっているように思えた。私も彼になら抱かれたいと望んだ――
勇み足だったのか、と思う。
あるいは、彼は律儀にすべての返事はホワイトデーに纏める気なのかも知れない。
それならば、とりあえず待とう…と、美佳子は考えた。
急かす必要はない。
美佳子自身「揺るぎない決意」とは言えないからだ。
待つ間に本当の決意を固めればいい。
金曜の夕方、3人だったこともあり、佑哉達はレンタルショップにAVを返却に行った。
佑哉は今度は目を付けておいた純愛映画を借りることにした。
中納は大笑いした。
高崎は「基本が大事、かも」と頷いていた。
高崎に納得されるのも、何となく嫌だ。
この日にカウンターに入っていたのは2人。海野と、もう一人は女性だった。
3人とも海野の方に並んだ。
海野も何も言わず、中納、高崎と会計を済ませた。
佑哉の順番が来ると、海野はニコニコして(ニヤニヤ、ではなかった)
「明日はバレンタイン後の初めてのデートですね」
と言いながら、手が何かを探っている。
「これ、良かったら使ってください」
海野は封筒をさしだした。
「俺からの餞別です。頑張ってください」
不思議に思いつつも封筒を受け取って、店を出た。
中を覗いてみた。
「!!!」
これは…見間違いでなければ…。
「何だ? 見せてみろ」
固まった佑哉を不審に思ったのか、中納が封筒を取り上げた。
中を覗いた中納ものけぞった。
「うをっ! あのヤロー、高級品を使ってやがる!」
男性が使用する避妊具を渡されたのだ。
「初心者にはちょっとつけにくい、かも」
高崎がまったく驚かずに言った。
その時佑哉の携帯が震えた。
天鳥では、女主人と姪がパニックを起こしていた。
冷凍庫の食品が1度融けた後があるのだ。
犯人は分かっている。
ひっきりなしに冷凍庫を開けて、チョコレートを確認していた佑哉である。「調理するしかないわねー」
「辰也君! 私、辰也君を呼ぶよ! 辰也君なら4人前や5人前はいけるから」
その後、兄が3人で揃ってレンタルビデオショップへ行ったことを思いだした。
一緒にいるのが若い男性だから、たくさん食べてくれるだろう。
天鳥は臨時休業になっていた。
「おかわりっ!」
「いいわねえ、さすが男の子、いい食べっぷり」
紗耶香のBFが呼びつけられて、すでに食べ始めていた。
「中納さん、お兄ちゃん、こっちへどうぞ。高崎さんは?」
「磯崎に渡したい物があるとかで、一旦下宿に帰った。すぐ来るよ」
食材が少々傷みかかってても、お腹いっぱいの夕食にありつけるので、中納は上機嫌だった。
「お兄ちゃん…美佳子さんは呼ばない方が良いと思うの。万一お腹を壊したら、お兄ちゃんが嫌われるかも知れないし。
その代わり、海野君とふしょ…涼クンを呼ぼうか?」
佑哉が何か答える前に、紗耶香はレンタルショップに電話していた。
「入れ替わりの後で不肖弟も連れて来るって」
予告通り、高崎はすぐにやってきた。
「これ、練習用に使うといいよ」
そう言いながら渡してきたものは、箱が剥き出しのスキンだった。
妹と伯母の質問は受け付けず、佑哉はすぐに自室に持っていった。
なぜか6箱とも使いかけである。
おおむね半分くらい使ってあるが、ほとんど入ってないものもあった。
1階に戻り、なぜ6箱もあるのか訊いてみた。
「あ、僕、相手が替わる時に全部替える主義」
海野と涼がやってきた時、男達は黙々と食べていた。
女主人と紗耶香はとっくにギブアップして「お給仕をやるからとにかく食べろ」と若者達を励ましていた。
「さやちゃん、このエビ、旨いね!」
「ははは。辰也君、エスニック大好きだから、辛い味付けにしてみたの。
海野君とふ…涼クンもどうぞ」
差し出されたエビに涼は躊躇った。
「俺、いただきます。涼は辛い物が苦手だから甘いのにしてやって」
「へぇー、涼クンって甘党だったんだ? 意外ー」
紗耶香が大きな目を更に大きくした。
甘党ではない。
辛いものが食べられないだけだ。
若い男性6名にかかり、天鳥の冷凍庫にはチョコレート以外の物が無くなった。
「明日は買い出しに行ってくるから、お兄ちゃんが店番するんだよ」
「あ…明日…」
「店でデートしなよ、そもそもこうなった原因は――」
「わーーーーーっ! 分かった、分かった!」
店でデート、というのが気に入ったのか、辰也も手伝いを申し出てくれた。
食い過ぎたのである。
トイレとお友達になってしまった佑哉に店番を任せられず、辰也が現れるまで店は閉められていた。
高崎が「もう1箱あった」と訪ねてきた時は、だいぶ楽になっていたが、外出は無理だった。
泣く泣く美佳子に連絡を入れた。
どうして紗耶香のBFは平気なんだ?
俺の3倍は喰ってるというのに。
やはり紗耶香の言ったことは本当だったのだ。
フルコースを食べた後で「あー担々麺喰いたい」と叫んだというのは。
そして、高崎も自分と同じくらい食べたはずだ。(佑哉よりも少量だったのは涼だけだった。)
高崎の胃腸はどうなってるんだろう?
「胃がもたれてさー。紗耶香さんの彼氏って食欲大魔神だね、すごいよ」
昼近くになって、海野もやってきていた。
辰也のすごさは認める。
だが、佑哉からすれば、海野だって十分だ。
「ヤセの大食い」は本当なんだと思った。
傷みがだいぶ減ったせいかうとうとした。
「お兄ちゃん、美佳子さんだよー」
という紗耶香の声で目が覚めた。
「こっちです。もう、お兄ちゃんったらしょーもなくて。
抱き枕抱いて泣いてたから、もうお腹の方はだいぶ良いと思うんですけど」
紗耶香がとんでもない説明をしていた。
抱き枕では泣かない。
これは抱いて転がるものである。
美佳子がベッドの傍らにくるのをぼんやりと見ていた。
「お腹……」
「だいぶ良くなった。……心配かけて、ゴメン」
腕を引いて抱き寄せ、軽くキスをする。
「デート、やり直ししよう?」
「うん……」
美佳子が少しだけ俯いた。
「私、もう帰るね。お大事に」
と、突然美佳子が立ち上がった。
「また研究室でね。口頭試問までには治るよね」
「え? あの……美佳子…さん?」
止める間もなく、本当に帰ってしまった。
なんなんだ?
佑哉は何の気もなしにベッドの下を見た。
そこにはいかがわしげな雑誌と「練習用」のスキンが散乱していた。