「磯崎家のヒミツ」



子どもの頃の磯崎紗耶香にとって、佑哉は自慢の兄だった。
両親も親戚も近所の人々も「佑哉ちゃんは優しい子だね」と誉め、
紗耶香にも「良いお兄ちゃんがいて良かったね」と言っていた。

兄とはよく一緒に遊んだ。
リカちゃんで遊んでも、兄が「女の子の遊びなんか」と乱暴をすることは一切なかった。
人形の扱いは、むしろ妹よりも丁寧であった。
兄は小学校に上がると、リトルリーグに入ってすぐにやめた。
ミニバスも何ヶ月も続かなかった。
その後に入った陸上少年団は性にあったらしく、小学校卒業まで続けていた。
勉強ができて、スポーツもそこそこの少年は、よく大人しそうな女の子を家に連れてきた。
専ら紗耶香も含めて、ゲームや人形を出して3人で遊んだものである。

紗耶香が小学校に上がった頃から、兄は女の子を連れてこなくなった。
両親はよく「連れてくればいいのに」とか「18歳になるまでは交際はオープンであるべきだ」とか言っていた。
そう言いつつも父が「恥ずかしがる年頃なのだから、仕方ない」とそっと呟いていたのを、紗耶香は知っている。
――6年生くらいになると、異性の友だちを家に連れてくるのが恥ずかしくなる――
そんなものか、と思った。


紗耶香は仲間とガヤガヤしているのが好きだ。
決してレギュラーにはなれないことを知っていたが、紗耶香は女子バレー部に所属した。
兄は一人で黙々と何かをやるのが好きなのだろう。
彼は、中学・高校と美術部を選んだ。
自分の作品を描きながら、兄は時々リカちゃんのドレスを作ってくれた。
兄妹でセーラームーンに嵌っていたせいか、セーラー服が多かった。
兄はセーラーマーキュリー(後にサターン)、紗耶香はセーラームーンが贔屓だった。

優しい兄が女の子を連れてこなくなった理由が、紗耶香にも分かりはじめたのはこの頃だ。
兄は少女の人形がとても好きで、器用に人形のセーラー服や体育着を作る。
本人の純然たる楽しみでやっていることであり、誰に迷惑をかけるわけではない。
妹にも、他の女の子にも、昔と変わらず親切だ。
しかし、よく知らない女の子の目には
「さやちゃんには悪いけど、さやちゃんのお兄ちゃんってなんかキモイ」
と映るのだ。
優しい性格だし、別に暗いわけじゃない、と説明しても理解されなかった。

小学校を卒業した日、紗耶香は手持ちのリカちゃんなどをすべて兄に譲った。
あんなに好きだったのに……、兄は不思議そうに呟きながら、自室に綺麗に並べた。
兄の部屋に入ってみると、いつでもリカちゃん達はその季節の装いをしていた。


大学に進学すると、佑哉は姉妹校のアメリカの大学に留学することになった。
「知世ちゃん(カードキャプターさくら)に会えない」ことが気懸かりだった兄に、
録画ビデオを送ると保証してやった。
この頃は両親の離婚の協議も進んでいて、道楽で喫茶店を経営している伯母が事実上の保護者だった。
伯母の心配は「知世ちゃん」ではなく、日本よりもずっと男にマッチョを求めるアメリカの気風だった。
佑哉のような、優しく、大人しく、引っ込み思案な青年が、アメリカの若者達に受け入れられるのだろうか。


アメリカに渡った佑哉は、シャイな男子学生との交友はうまくいっている様子だった。
女性を誘うことができなかったので、パーティには出られない、と言ってくることもあった。
一人に断られると、そこで諦めてしまうらしい。
それから、ビスクドールの美しさについて、延々と書きつづってきた。
アンティークショップでみかけた人形がとても美しく忘れられないのだという。
2年間というもの、2回に1回はそのビスクドールのことが書かれていた。
しかし、帰国する直前、ついにビスクドールが誰かの手に渡ったらしい。


紗耶香が高校2年の夏、兄は帰国した。
もともとほっそりとした人だったのに、更に痩せて、骨と皮ばかりになっていた。
真面目で思いこみが強い彼のことだから、必死に勉強し、ジュモーを手に入れようと必死にアルバイトをして、
それ以外のことはほとんど何もしなかったのだろう。
聞いてみると、あっさり「よく分かったな」と驚いた。

「もうっ! お兄ちゃんたら、いい加減人形から離れなよ!
女の子より人形に詳しくて、女の子よりウェストが細いから、嫌われるんだよ!」

イライラした。
ご近所や親戚が何と言っているか知っているのか?
「優しいと思ったけど、ただのヲタクなんだね」と、
「薄気味の悪い変わり者だね」と、掌返したような批評をされているというのに、
兄は一向気にする様子もない。
アメリカに行って、もっと人付き合いが上手になるかと思ったのに、
兄の内面にはアメリカの経験はなんら影響を与えていないようだった。

翌日からも、紗耶香にはイライラすることが増えた。
休日には2人とも喫茶店を手伝うことになっていた。
しかし、男子大学生と女子高生なのだから、デートの時は大目に見る「はなせる」伯母でもあった。
紗耶香の方はたまにはデートもあったし、女の子の友だちと遊ぶ時も大目に見てもらった。
佑哉の方は1度も手伝いをさぼったことがなかった。

紗耶香よりも回数をこなしているくせに、兄は使い物にならない。
お客さんが来ても、彼には笑顔一つ作ることができないのだ。
無理に笑ったことがあったのだが、却って怖かった。
だから専らキッチンにいる。(お陰で紅茶を煎れる腕は相当に上がった。)
そのくせ、紗耶香の友だちが来ると、フロアーに出てくるのだ。
――引っ込んでてよ!
「さやちゃんのお兄ちゃんって脚が長くて、ハンサムね〜」
とは言ってくれるものの、付き合うか、と振ってみれば本音が飛び出す。
「なんか暗そう……ごめんね」
「ヲタっぽい人は、ちょっと」
だから、ハッキリ言って、「兄です」と紹介したくないのだ。

「まあまあ、紗耶香、人には持って生まれた性質ってモノがあるのよ」
「だからッ! その持って生まれたヲタを少しでも治して欲しいの」


妹と伯母の心配をよそに、
ご近所や親戚の噂もよそに、
佑哉は大学院を受験して進学を決めた。

「あんたの学部じゃ、ますます女の子と縁遠いねえ」
「そうでもない、今日ヤワラちゃんに会った」
「はァ?」
よくよく聞いてみると、筋肉質な体つきの女子大生が見学に来ていたそうだ。
出会い頭に彼女に跳ね飛ばされた佑哉は、彼女に起こしてもらい、そのまま案内をしたのだという。
「跳ね飛ばされた? 女の子に?」
「……情けないねえ、男のくせに」
妹と伯母は目を丸くした。
「だから、きっとヤワラちゃんだ」
「ヤワラちゃんがそんなところにいるはずないでしょ!」
「格闘技をやっていると言っていた」
「ヤワラちゃんはお兄ちゃんより年上で、もう大学生じゃないのよ!」
「……そうなのか」
それは佑哉には初耳である。
というより、よく知らないが、強くて可愛い女性と言えば「ヤワラちゃん」しかいないと思い込んでいたのだ。
「でもさあ、紗耶香、女子大生が見学に来て、佑哉に案内を頼んだんでしょ。脈があるかも知れないじゃないのさ」
「……大袈裟だよ、伯母さん……」
「佑哉、あんた、その女子大生と何分くらい話したの?」
「トータル5分」
「やったわねー、すごいじゃないの! 10年ぶり?」
「……そう……かな?」
「12年ぶりよ」
「そうそう。起こしてもらったってことは手を握ったのよね?」
「……うん」
「握られたんだよ」
「で、どうなの? その人とまた会えそう?」
「受験する、と言ってた」
「会えるとしたら8月なのね」
「どこの人?」
「N良女」
「……遠い」
「紗耶香、いちいち水を注すんじゃないの。考えても御覧よ。
この佑哉が、女の子の学校を聞いたんだよ?」
「……いや、……受付の名簿を見た」
「そんなことだろうとは思った」
「名簿見たんなら、名前も分かったのよね? 大したものじゃない」
「名前は……忘れた」
「それじゃ、次に会っても分かんないじゃん!」
「だからさあ、ヤワラちゃん似の女の子を捜せばいいんじゃないの」
「俺は……別に……」
「伯母さん! そんなに盛り上げようとするのは残酷だよ!
その人、女の子に跳ね飛ばされるようなお兄ちゃんのことなんか忘れてるよ」
「ヤダねえ、この子は。まだ高校生のくせに、ユメがないったら」
「相手はN良女の4年生でしょ。いろんな人と付き合ってるよ、きっと。
柔道やってる男の人をたくさん見てるだろうしさ……」
「それも……そうかねえ」
女同士で、まだ見ぬ「ヤワラちゃん」の噂話に突入してしまった。

春。3月。
この日に会った女子大生は、たまたまそこにいたから佑哉に案内を頼んだ、といった雰囲気だった。
他の意図があろうとは思えない。
ただ、あんまり「女の子」「女の子」と言われるので、話題に出してみただけなのだ。



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