「妹同士」


3月に1度だけ話した「ヤワラちゃん」を、妹も伯母もしつこく覚えていた。
佑哉本人はすっかり忘れていたのだ。
数日前から2人で奇妙なことを話し合っていたから、その段階で気が付くべきだったのかも知れない。
「柔道家だから、食には拘るよね」
「48kgをこえちゃいけないんだから、やっぱりローカロリーかねえ?」

8月。院試の日に大学に行かなかった佑哉を2人で責め立てた。
「顔だけでも見せなさいよ、信じらんないッ!」
「本格的に忘れられるんだよ」
佑哉は2人の迫力にタジタジになりながら「何が……?」と聞いてみた。
火に油を注ぐ結果だった。
熟考の末にキャロットケーキを作ったのに〜、と紗耶香が肩を落とした。


しかし、神は紗耶香のキャロットケーキを見捨てなかった。

夕方になって、男女のお客が入ってきた。
女の方を見て、佑哉が呟いた。
「ヤワラちゃんだ……」
彼女を見て紗耶香が呟いた。
「……似てない」
伯母も呟いた。
「あれは52kg級か……ひょっとして57kg級かも知れない」
紗耶香がトレーを兄に押しつけた。
「いらっしゃいませ、お久しぶりですね。今日の調子は良かったですか?――
はいっ、いってらっしゃい」
「誰が言うんだ? それに相手がいるじゃないか」
ひょろっとした若者の方を一瞥すると、佑哉はキッチンへ逃亡した。
伯母の声が追いかける。
「敵前逃亡は銃殺刑だよ」
「そんな人材の無駄遣いをするから日本は負けたんですっ!」

アメリカで何人か女の子達が言っていた。
「ごめんね、ユーヤ。別の男の子と約束したの」
「いい、私が行く。やっぱりお兄ちゃんが行くと却って悪いかも知れない」
紗耶香がトレーを持ち直した。

さりげなく「特別サービス」のキャロットケーキも出せた。
ヤワラちゃんの相手の男は細い。
見れば見るほど、兄よりも細い。
自分よりもウェストの細い男を許せる女性なら良いのだが。
男が口を開いたので、水をチェックする風を装って近付いた。

「おねえさんなら絶対ですよー」
(え? もう結婚してるの? 指輪は……ない、良かった。でも、どういうこと?)
「こちらに帰ってこられるんですよね?」
「うん。受かればねー」
(あ…、実家はこっちなんだ?)
「それならもう決まったも同然ですね。佐山のヤツも喜ぶんじゃないですか」
「涼が? どうだかねえ」
戻ってきた紗耶香は伯母に小さくVサインを出した。
「彼氏じゃないんだね?」
伯母が小声で聞く。
「あの男の本命はヤワラちゃんの妹。今必死でお姉さんの機嫌を取り結んでるとこ。
まだまだっぽいのに“おねえさん”なんて呼んじゃってるの。
でも、大収穫。苗字だけなんだけど、本名も分かったし、実家がこっちだってことも分かったよ」

夏グミ

高校は1年で中退した。
その年の後期、よく涼を家まで迎えに来たのが、目の前で一緒に夕食を食べている男――海野航一である。
(美佳子が帰ってきて、滅多に家で食事をしない涼がいて、海野が座ったままだったので、その日の佐山家の夕食は出前の寿司だった。)
海野は涼が中退した後もよく遊びに来た。
「涼の唯一の友だち」として、両親も姉も海野を歓迎した。
友だちになった覚えはない。

「海野君、ありがとねー」
姉が感謝しているのは、今日の姉の院試に海野がついていったからだ。(海野はその大学に入学したのだ。)
といっても姉は既に下見をしてあって、何も心配はなかった。
海野がやったことといえば、大学の近くの「ちょっとしゃれた喫茶店」に姉を案内したことくらいだ。
「いえ。今日は良かったですね。まさか“今日の50人目”にあたって、ケーキが付いてくるとは思いませんでしたよ」
「それで今日1日、1銭も使わなかったというわけだ」
大学までは定期があるし、紅茶は姉のおごりだった。
「佐山、なんでもカネの問題じゃないだろう? 大事な院試の日に痴漢にでも遭って、気分悪いスタートになったら困るじゃないか」

プッ!
みかねえは関西インカレ4位。痴漢の顔面に拳を叩き込んで鉄道警察に引き渡した女だぞ。
どう考えてもおまえよりは強い。

みかねえを守れる強い男でなければ。


翌日も海野がやってきた。
2日も必要ない、と涼が怒った。
「今日はいよいよ専門科目と面接だぞ、今日が重要じゃないか。ね、おねえさん?」
「ん? 来たいなら来てもいいよ。あの喫茶店に行きたいんでしょ?」
美佳子が許可を出した。
弟とその自称友人が後ろを付いていった。

夏グミ

院試2日目。
兄には過剰な期待をさせないようにしながら、
12年ぶりの女性との会話を、13年ぶりの女の子の友だちへと発展させたい。
兄の性格からいって、この先も人類の女性がわざわざ付き合ってくれるとも思えない。
まだ23歳などとはいえないのだ。
しかし、焦ってはいけない。
だんだん盛り上げて、断るに断れない体勢に持って行かなくてはダメだ。
「佑哉だって、背は高いし、頭は良いし、顔だっていい線行ってるじゃない。
これでいいところに就職できれば、そんなに将来を悲観しなくてもいいんじゃない?」
伯母さん、それは甘い。
三高が揃っていればモテたのは昔の話だ。
今の女性は、他の条件がどんなに良くても、ヲタは問題外なのだ。
それでなくてもヲタなのに、兄には自覚がない。
昨晩なんて伯母と妹がデータを元に作戦会議を開いている横で、せっせとリカちゃんの浴衣を縫っていたのだ。

ターゲット名:佐山ヤワラ(仮)
学校:N良女子大学理学部物理科学科4年
実家:東京都内
家族構成:父・母・妹(推定19歳)
「あの言い寄ってる男の子、うまくいくといいね」
さすがに年の功。
「妹に相手ができれば、自分も幸せになりたいって気になるかも知れないじゃない」
「そっか。……でも、お兄ちゃん、全然その気にならないよ」
「そりゃあ、佑哉だもん」
「そ…そうよね。それに、妹としても、お姉ちゃんにも彼氏ができた方が心強いよね。
伯母さんに言う時なんかは2人いっぺんの方が言いやすいかなって思うし」

今日も寄ってくれるかも知れない。

店を開けて、紗耶香は飛び上がりそうになった。
昨日のひょろっとした男の子が、ドアに張り付くようにして待っていた。
「やあ、……おはようございます」
彼は照れくさそうに笑顔を見せた。
「…おはようございます…」

(ちょっとー。
こんなところに来ている暇があったら、涼ちゃんとやらをデートに誘いなさいよ!)

「な? いい感じだろう?」
彼が連れの方を振り返った。
その連れというのも、何となく不良っぽい、何となくプータロー臭い男の子だった。
不良っぽいのはいいけど、プーはパス!

彼らはカウンターに座ってじっと紗耶香の様子を見ている。
浴衣作りに精を出しすぎて少々寝坊した兄が階下に降りてきた時は「助かった」と思った。
若い男の子2人(片方は昨日ヤワラちゃんと一緒だった子だ)に穴の開くほど見つめられている――
妹の窮状は一目で分かったらしく、兄が替わろうと言った。
客達が明らかに不満そうな顔をした。

奥に引っ込むと、ガッカリしたのだと紗耶香が訴えた。
「男の子なんかじゃなくて、涼ちゃんを誘いなよ。鈍くさい子だなあ。
もしかして妹同士で話が進むかも知れないのに」
「まあまあ、さや。焦りは禁物よ」

この日も暑かった。



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