磯崎紗耶香の下には半年間で正確な情報が入ってきた。
情報源は、月末以外はほぼ毎日通い詰めている海野航一(文学部文化学科2年)である。
ターゲットの実名は、佐山美佳子。趣味は空手(けっこう猛者v)。
海野の本命佐山涼は、ターゲットの弟だった。
落胆してばかりもいられないので、気を取り直して情報収集に励むことにした。
こうして4月を迎えたのである。
何も佐山美佳子さんに限定しなくても良いのではないかと思うこともある。
しかし、兄の第一印象の暗さは(日々接していると気が付かないが)相当なものらしい。
親切心からの行いも、しばしば「キモイ」と言われるのだ。
普通に友だちになってしまえば、決して悪い人間ではないと思う。
その証拠に、幼稚園時代の友だちとも未だに音信が続いている。
……どうでもいいが、コミケで買った便箋を使うのはヤメロ。
「大丈夫だ、保存用も買ってある」
そーゆー問題じゃないっっっっっっっっっ!
そして、勝負の4月である。
紗耶香の入学した女子大学でも新入生歓迎パーティがある。
兄のところにもあるに違いない。
学科も同じ。
専攻も同じ。
家は喫茶店。
「二次会」と称して連れてくればいいのだ。
兄のコンパの日には、オールナイト営業(ただし貸し切り)にしてもかまわない。
やたらと盛り上がっている伯母と妹であるが、当の佑哉はマイペースだ。
「お兄ちゃん、出かけるの?……服! そうか、服を買いに行くのね!
せめて気温に合わせた服装をしてもらいたいものだわ。
ああ、……私が付いてく。女の子の目から見たアドバイスしてあげるから」
「いや、服と言っても、手芸店に行く。春らしいドレスを作りたい」
「ダメー! リカちゃんより自分でしょ!」
最初のコンパの夜、連れてきたのは近眼らしい男の子2人だった。
「コーヒー、ないっすか?」
「うちは紅茶専門店だから……」
コーヒーゼリーやモカケーキを出すのだから、一応あるのだが、それは使えない。
家族のための豆もある。しかも、この日に紗耶香がわざわざ出かけて、いつもよりはりこんで買ってきたものだ。
それを出すお客は彼らではない。
男の子達が帰ったところで、佑哉は伯母と妹に代わる代わる問いつめられた。
「お話しくらいはしたんでしょうね?」
「いや……。うちの研究室に8年ぶりの女子が入ったというので、とても近付けなかった」
「パンダじゃあるまいし、押し退けていけばいいのよ」
しかし、「俺の好きなこと(専攻である、趣味の方は絶対内緒だ)を理解してくれる女性が現れた」という条件はみな同じなのだ。
受験では何とも思わない兄なのに、こと女性に関しては競争率が100%を超えると、諦めが先に立つのかも知れない。
「それにしても8年ぶりって……よくよく不人気な専攻なんだね」
「はあ。なんでも今年の3月に辞められた江島教授が一部筋ではセクハラで有名なんだそうです。
今まで入った女子学生はみんな逃げ出したって聞いてます」
「今はッ?」
「今の神保先生なら愛妻家だから大丈夫じゃないか? 博士課程の人が喜んでた」
期待していた日に一番マシなニュースがそれだった。
GWに入る前に、院生と学生だけでコンパをやることになった。
紗耶香もその日はデートを予定していたが、夜8時には家に戻ることにした。
デートの相手も手伝おうと申し出て、準備万端で待ち受けた。
申し訳なさそうに帰ってきた兄の後ろに誰が続いているのか、見なくても分かったのだろう。
伯母は奥に引っ込んでしまった。
「何か話くらいはした?」
「うん」
「……何?」
「屋久島の魚は旨いそうだ」
「それから?」
「それだけ」
紗耶香はへなへなとその場に座り込んだ。
結局、客のお茶を煎れたのは、ボランティア精神旺盛な紗耶香の彼氏であった。
梅雨明け。このまま夏休みに突入してはマズい。
紗耶香は某大理学部物理学科と某女子大テニス同好会の合コンを持ちかけた。
――男どもの中に美佳子さん一人だから兄が近付けないのである。
女子大生を目眩ましの餌にしておけば、兄にもチャンスができる。――
と推理したのだ。
伯母も「よし。今度こそ貸し切りオールナイト!」と気合い十分であった。
やってきた学生は、みごとに紗耶香の作戦にかかった。
しかし、肝心な美佳子がいない。
「美佳子さんは? 遅れてくるの?」
「……今日は来ない。不肖の弟のハタチの誕生日だから、家族でお祝いするそうだ」
「え……?」
なぜ、それを早く言わない?
何のためにこの日程を組んだと思っているのだ?
この場合、一番悪いのは海野である。
小遣いとアルバイト代が尽きるまで、ほぼ毎日喫茶店に通ってきているではないか。
しかも、時々その不肖弟が付いてくる。
とにかく、次に(おそらくは明日)海野がきたら締めてやろうと思った。
しかし、悪いことばかりでもない。
兄はもうひとつ大事なことを言った。
「お兄ちゃんが美佳子さんの予定を聞いたの?」
「うん」
もしかしたら、すごい進歩かも知れないと思った。
その時たまたま背後の男子学生がその美佳子の噂をしていた。
「女の子が入ったと言っても、佐山さんじゃ変わりがなかったなあ」
「あの人、男だよ」
「俺達より強いしな」
そうなの? と兄に目顔で聞いた。
「ああ。あんなに気安い人は初めてだ」
……色気が…全く、ない。
大道寺知世ちゃんや土萌ほたるちゃんのような女の子が兄のGFになってくれるはずがない、
そもそも、あんなヲタク男の願望を集大成したような女の子が現実にいるわけがない――
それはさすがに兄も分かっているようだ。
しかし、だからといって、現実の女性に対して男同士感覚はないだろう。
涼はハタチの誕生日を友だちや仲間と祝うつもりでいた。
しかし、朝出がけに姉がいうことには、
「あんたの誕生日を家族で祝うからね。どこにもでかけるんじゃないよ」
姉には頭が上がらないのだ。
一言二言反抗をしてみることもあるのだが、効力があったためしはない。
幼少時に、圧倒的に強く利発な姉に、絶対服従を擦りこまれてしまったのかも知れない。
それは、姉より頭一つ大きくなり、筋力も強くなった今でも、同じだ。
ハタチの誕生祝いには、案の定海野も参加した。
その上、佐山家に泊まると言っていた。
姉がいる以上、涼の部屋に泊まるのだ。
海野用の枕・パジャマ・下着・くつした・歯磨きセットは常備されている。
「ハタチを家族で祝うなんて、うちくらいだろう」
涼が溜息を吐くと、
「うちはやってる。だから、来いと言ったじゃないか」
海野がすかさず答えた。(彼も先週ハタチになった。)
海野が泊まる以上は早く起きなければならない。
海野は高2の頃から佐山家に泊まるようになった。
当時、姉は大学の寮にいたので、姉の部屋が空いていたのだ。
海野は、低血圧の涼を起こしに来る。
優しく肩を揺すり、
「涼ちゃん…朝だよ、……起・き・な・さ・い」
と耳元で囁くのだ。
「可愛い寝顔だ……」
指で唇をなぞられた時は悲鳴を上げてしまった。
ひとりっこの彼は、姉妹というものに幻想を抱いていたらしい。
彼のイメージでは、姉が涼を優しく起こすというのだ。
それはない。
世間一般の姉はよくわからないが、みかねえに関してはありえない。
姉が起こしてくれたのは中3までだった。
「あらよっ!」
のかけ声とともに、掛け布団を剥がされ、気が付いた時は床に転がっていた。
泊まるようになった頃、涼は海野の姉妹幻想をうち砕くべく、姉の恐ろしさを語って聞かせてやった。
それ以来、海野の起こし方が少々変わった。
優しく肩を揺すり、耳元で囁くのだ。
「早く起きないと、おねえさんをけしかけるぞ〜〜〜」
海野は佐山家で朝食を取り、そのままアルバイトに出かけていった。
今日も喫茶店に寄って帰るのだろう、と思った。
集中講義や実験がない海野はアルバイトに精を出しているのだろうと思った。
涼のハタチの誕生日に泊まって以来、あの海野航一がやってこないのだ。
1週間に5日は顔を出し、涼がいる時は夕食まで帰らなかったり、時には泊まっていった、あの海野航一が、1週間経っても、2週間経っても、音沙汰無かった。
「まさか、海野君まで不良になっちゃったんじゃないでしょうね」
それはないだろう、と涼は思う。
家族には内緒だが、暴走族時代、涼は何となく仲間からバカにされていた。
理由は分からない。
可愛い顔だと言われるのがいやで、ひたすら喧嘩をした。
もともと運動神経が良かったためか、すぐコツを覚え、強くなった。
何とか男に言い寄られなくなり、喧嘩に関しては頼りにされた。
だが、それでも、「佐山はイイコチャンだからな」と言われ続けた。
自分のどこがイイコチャンに見えるのかよく分からない。
飲み終わったコーヒーの缶を持ち帰ろうとしたことなら何回かある。
「こうするんだよ」仲間がそれを近くの家の生け垣に投げ込んだ。
仲間の前では態度を変えなかったはずだ。
こっそり片付けに行ったのは、姉に蹴りを入れられる夢を見た後、つまり朝だったのだから、仲間は知らないはずなのだ。
しかし、これだけはいえる。
自分よりも海野の方がイイコチャンだ。(それにハタチにもなって暴走族に入るとも思えない。)
女の子が好きな海野だ(と思う)が、それも不良になったところでメリットはない。
実のところ、涼も経験が少なく、しかも同じ相手は2度と寝てくれなかった。
きっと、数をこなしている彼女達には相当高度なテクニックが必要なのだと思う。
涼はラブホでも無意識に、自分や相手の服をハンガーに掛け、肌着などをきちんと畳んで枕元においたのだ。
あの正座したお母さんスタイルに幻滅した、とレディースの間に知れ渡っていたことを、涼は知らない。
ついに3週間が過ぎた。
母が海野家に電話して、そのまま2時間喋っていた。
楽しそうだ。
涼は冷蔵庫を物色に来て、チョイチョイと手招きされた。
何だろうと目を上げると、
「涼、あんた、航一君のカノジョを盗ったんだって?」
まさに青天の霹靂、涼はかたまったまま動けなかった。
「ちょっと、涼、冷蔵庫を閉めなさいよ」
ここは一旦逃げよう。とりあえず逃げてから、海野の誤解?が収まるのを待とう、と涼は決めた。
海野が喫茶店に顔を出すのは3週間半ぶり。
少々キツく言いすぎたかと反省していた紗耶香だから、お得意さんでもある海野の姿は素直に嬉しかった。
「海野君、いらっしゃーい」
紗耶香の笑顔を見て、海野も嬉しかった。
涼の誕生日を教えなかったと言ってひどく怒られた時の衝撃は並大抵ではなかった。
海野は紗耶香が好きだ。そして涼が好きだ。
どちらが自分の恋人になっても嬉しい。
自分抜きで紗耶香と涼が仲良くなることなど、考えもしなかった。
「これからお見舞いに行くんだ……。その前にちょっと、と思って…」
「お見舞い? どなたか病気ですか?」
「いや、交通事故。……佐山が」
紗耶香は伯母の方を振り返った。
考えていることは同じだ。
「ありがとう、海野君! よく知らせてくれて」
紗耶香は両手で彼の手を握りしめ、ブンブンと上下に振った。
事故にあった不肖弟には気の毒だが、チャンスである。
ここで一気に点数を稼ぎ、研究室のその他大勢とは違う存在になるのだ。
「私、早速、お見舞いのお花を……」
「ちょっと、紗耶香。気が早い。ねえ、海野君、家族の人がお見舞いに来る日って決まっているの?」
どうせなら美佳子さんと鉢合わせた方が良い。さすがに年の功。
家族?
……もう、そんな話が進んでいるのか?
しかも、紗耶香ではなく、伯母さんの方から家族の話題が出るとは――
海野は床に視線を落とした。
「水曜日と土曜日はおねえさんが家庭教師に行く前に寄っていくんだ。他の日はお母さんが午後に来ることが多いよ」
「そう…。まあ、こんなところで立ってないで座って座って。今日はサービスにしとくからね、何でも頼んでちょうだい」
「アイスティだけでいいです……」
水曜日、佑哉は紗耶香に持たされた花束を抱えて、佐山涼の見舞いにきた。
花束を取りに戻る時間分だけ、佑哉の方が遅くなるだろう。
姉弟が顔を合わせて少々後に佑哉が登場する。
バカな子ほど可愛いと言うから、弟もバカな方が可愛いに違いない。
不肖弟と佑哉は2回くらいしか顔を合わせたことがないから、今までよりずっと佑哉を身近に感じるだろう。――
紗耶香は何でもうまく行く方に考えるが、佑哉としては戸惑っている。
姉と同じ研究室にいるという話をしたことはないし(そもそもあのぶっきらぼうな子とは会話が成り立たなかった)、美佳子の方も大学での磯崎佑哉しか知らない。
病室を聞いた。
廊下を歩きながら、とにかく花束だけ渡して帰ろうと考えた。
ところが、同室の骨折患者がいるだけだった。
「ああ。佐山君なら屋上で煙草でも吸ってるんじゃないの? 昔の仲間とかいうのが来てたからね」
美佳子も帰ってしまったのではなく、まだ着いていないようだ。
仕方なくそこに座って待つことにした。
廊下で「おう、またな」などという大声が聞こえた。
「みかねえ、早かったな! 買ってきてくれた?……?」
松葉杖の佐山涼が入ってきた。
「こ……こんにちは」
「……誰?……喫茶店の従業員?」
それも間違いではないので、そうだと答えた。
「そこ、どいてくれ」
「は?」
「邪魔だ」
ベッドと涼を結ぶ直線上にいたことに気が付き、1歩下がった。
こいつはなんなんだ?――涼はベッドに戻り、佑哉を睨みつけた。
お得意さまの海野と間違えたのだろうか?
どうせならあの目のくりくりした女の子の方が来ればいいのに。
この男とは滅多に顔を合わせないが、無愛想で、およそ接客業には向かない男だ。
「………」
「………」
「………」
「………」
「………」
「………」
ああ、花がしおれる。
「あれ……お客さん、て……磯崎君?」
1時間近く男同士で見つめ合ってしまった後、ようやく美佳子がやってきた。
「はい、涼、頼まれたバイク雑誌。もう、発売日から1週間も過ぎて言わないでよ。
……でも、磯崎君、よく知ってたねえ、ウチの弟が怪我したの」
「みかねえ、こいつ、誰?」
「ウチの研究室の人。修士の2年、私より1つ上だよ」
「喫茶店の従業員じゃなかった?」
美佳子は不思議そうに、佑哉と弟を見つめた。
「喫茶店ってあの大学の近くの?」
2人が頷く。
「あー、わかった、わかった。お母さんが言ってた子だよね?」
は……?
涼はなんだか嫌な予感がしてきた。
「涼が盗っちゃった海野君の元カノって、磯崎君の妹さんだったんだ?」