何が哀しくて、海野と不肖弟を弄ばねばならんのだっ!?――
紗耶香の個人的怒りはこの際引っ込めておくことにする。
海野の勘違いのお陰で、兄に13年ぶりの女友達ができそうだからだ。
名目は不肖弟の快気祝いだが、彼女の家に行って、しかも紅茶を煎れてきたらしい。
人形は見あたらなかったという。(この兄はいちいちチェックしている。)
趣味の話が出なかったのなら、人形ヲタはばれなかったはずだ。
さらに、美佳子さんが女友達と一緒にお店にくるようになった。
たまにはひとりで現れることもある。
「あがってもらったらどうかなあ。お店に来てもらっても、あくまでもお客さんだし」
紗耶香がそんなことを言いだした。
「ああ、いいねえ。佑哉じゃデートに誘えっこないしね。うちに来てもらうのが一番かも知れない」
伯母が即座に反応した。
「でしょう? お兄ちゃんが墓穴を掘りそうになっても、未然に防げるしね」
「よしんば墓穴を掘っても、フォローできるわねえ」
「ねー? いいアイディア!」
「でもさあ、問題はアレだよ」
「……アレよ」
2人は佑哉の方を見つめた。
「まかり間違って『佑哉君のお部屋見せてー』ってことになったらマズいよ」
誤魔化しようのないドールハウスを何とかせよ、と迫ったのだ。
その晩、初めて兄妹喧嘩をした。
ある程度年齢が離れていたため、今までは佑哉が本気で妹に対して怒りを表明したことはなかった。
男の部屋におびただしい人形。しかも大半は妹の「おふる」だ。
「いい機会だよ、お兄ちゃん。もう色あせた人形は捨てなよ」
佑哉は驚き、怒る。
人の形あるもの。それも、かつては愛し、一緒に遊んで育ったものを、どうして捨てようという気になるのだろう?
日に灼けて古びてはいるが、大切に保管していつでも綺麗に飾ってきたのに。
捨てられるわけがない。
「そうまでしなければならん女友達などいらん」
それを聞くと、紗耶香は言葉を失った。
翌朝、紗耶香は兄を完全に無視した。
「行ってきます」
「あれ? 紗耶香、今日はゆっくり出られる日じゃなかったの?」
「図書館でドイツ語の予習するから」
伯母とだけ会話を交わして、さっさと出てしまった。
紗耶香も早めに出て、特に立ち寄る場所もなく、学生協の前のベンチに座ってぼんやりとしていた。
さて、と立ち上がりかけたところ、
「物理学科の佐山ですけど。頼んでた本が来たって連絡を頂きました…」
美佳子が間近の図書コーナーにいることが分かった。
美佳子に罪がないことは分かっている。
だが、今は顔を合わせたくない。
佑哉は逃げ出した。
階段を上っているところで、背中に衝撃を感じ、転びそうになった。
「おはよっ、磯崎クン!」
人の気も知らない美佳子が無邪気な笑顔を見せていた。
「……ああ…」
「血中糖度が低そうな顔しちゃって。……ほらっ、…手、出して」
言われた通りにすると、掌にキャンディが一つ置かれた。
「……ありがと…」
どうしてこの人に会いたくないと思ってしまったのだろう。
……恥ずかしい…。
「バカな弟が低血圧でね」
「え?」
「ほっとけばいつまでも寝てるし、朝御飯抜きたがるし……どーしょもないの」
分かるが、そう言っては失礼なので、曖昧な相槌を打った。
「私が高校生で、あの子が中学生までは、起こしてやってたのね。
あれって…布団剥がしてから蹴り落とすまでの、タイミングっていうか、リズムがあるのよねえ…」
「うん……」
「私、大学は向こうへ行ったから……涼が朝起きられなくて……
あの高校のことも、もしかして朝起きられたら、少しは違ったのかな…って、気がするんだ」
「ああ…それでこっちに戻ったんだ…」
「それだけでもないよ……
でもさー、生活習慣って大事だよ」
「そうだなあ。…生活習慣とか、リズムとか…慣れ親しんだものは大事だよな」
「うんうん……って、シマッタ! 磯崎クン、ここ、5階だよ!」
「ウオッ! いつの間に?」
学生の共同研究室では4年生の高崎がテーブルの上に寝ていた。
「何だぁ?」
「…磯崎さん、佐山さん、叫ばないで。頭痛い」
「アレだよ…学祭」
院生(修士2年)の中納が奥に座っていた。
11月の学祭に出展するものが、まだ影も形もないのだという。
そこで、昨夜、急遽学部学生だけで集まった。
が、男子学生が集まってアルコールが持ち込まれぬはずもなく、
学祭の話はいつの間にか後回しになり、気が付けばただの飲み会になっていた。
「江島先生の時はこれをやれっていうのがあったんだけど、
神保先生は学生の自主性を重んじるって仰るんだ」
中納が手を出し、美佳子がキャンディを袋ごと渡した。
「……オレンジください」
テーブルの下で寝ていた学生が手を伸ばした。
「中納クンは相談に乗っていたのか?」
「いや。昨日は学部学生だけ。
でも、磯崎クンも相談に乗ってやれよ。一応同窓生なんだから」
中納は美佳子からもらったキャンディを2つまとめて口に入れた。
「チェリー…チェリーはない、かな?」
高崎がノロノロと起きあがった。
「食っちまったよ」
紗耶香とは全然違う女の子――なのは、彼女が「おねえさん」だからだ。
佑哉は、「アルデヒド臭ーい」と騒ぎながら窓を開ける美佳子をぼんやり眺めた。
この研究室にいる誰かを特別に気に掛けている様子もない。
誰に対しても同じ態度だ。そうしたことが分からない頭の悪い男が、
彼女のような気さくな女から与えられた親切に、勝手な性的な意味を付与して、
要は誤解をしてストーカーになってしまうに違いない。
紗耶香は友人と食事してくるのだそうだ。
それなら俺も、と出ようとする佑哉を伯母が引き留めた。
「あんたはそこに座りなさい」
「…はい」
「佑哉はどうあっても人形がいいんだね…」
…その話か。佑哉は肩を落とした。
大切に綺麗に飾っておきたいだけだと、彼は繰り返した。
「仕方ないね…、あんたがそういう気なんだから」
伯母もまた肩を落とした。
「あんたがヤワラちゃんの話を出したときは嬉しかったんだよ、……私も、さやも。
あんたが『大人しそう』って以外の理由で、人形以上に人間に関心を持ったのは初めてだったからさ」
そうだったのか……
佑哉は胸を突かれた。
自分としてはそういうつもりはなかった。
数人ではあっても友人はいる。
今でも、男も女も、大人しい人が好きだ。
美佳子は今までの友だちには無かったタイプには違いない。
相手が女の人だということを忘れていられる貴重な友人。だが…
「俺にとってああいう友だちは初めてですけど、彼女は特に誰かを気にする人ではないんです」
「そーお? そんな冷たい人には見えないんだけどねえ」
冷たい? 恋愛の情熱がないという意味で、か?
恋愛の情熱はなくても、
「いや…そーゆーことじゃなくてっ!」
彼女が冷たい人間だなんて誰が思うものか。
「誰にでも同じように親切で」
「八方美人?」
「違います!…ああ、そうかも知れない。
だから、特別扱いをしない人だってことを忘れて誤解したら、彼女に迷惑をかけるから……」
「あんた、ホントにバカだね、佑哉?
何も、今日そうだからといって、明日も同じだとは限らないじゃないか。
そんなことだから、明日を変えようという気概のある男には敵わないんだよ」
「一歩間違えればストーカーじゃないですか」
「……おまえがこのままがいいっていうんだから、仕方ないことなんだね…」
伯母の言いたいことは終わったようなので、佑哉は自室に引き上げた。
もう何かを食べたいとも思わなかった。
翌日も兄妹は少々ぎくしゃくしていた。
ぎくしゃくしたまま出かけたら、早く着きすぎてしまった。
佑哉は、自分には関係のないことは分かっていたが、教養部の掲示板を見て歩いた。
―以下の学生は至急○○研究室へ―前期試験の結果が悲惨だった学生達の名前が連なっている。
…海野航一…他にもよく見てみると、彼は6人もの教官から呼び出しを喰らっているのだ。
紗耶香が帰ってくると、伯母は「手伝いはいいからダイニングへ行きなさい」という。
不審に思いながら奥へ行くと、そこには美佳子と兄がいた。
やったね、おにいちゃん!
伯母さんがダイニングを提供してくれて良かったね…
信じられない…
いろいろな思いが交錯して、会釈するのがやっとだった。
兄がたまたま海野の惨状を知ったということで、2人で海野を大学に復帰させる相談をしていたのだった。
「海野クンならほんっっとーによく来るけど、単位が危ういなんて気が付かなかった」
「涼のリハビリに夢中で、自分の方は気が付いていないかも知れない」
「6人中1人は指導教官として、5科目は多すぎないか?」
紗耶香はメモを取り上げた。
「この英語学って木曜4コマ目? うちに来てるよ、ふしょ…涼クン連れて。
私が午後の講義いれてないじゃない? 夕方からテニスだから、戻ってちょっとだけお店番してるの。
海野クン、必ず来てるんだよ。私、海野クンも木曜の午後は空けてあるのかと思ってた」
「さぼってるのが相当あるってことだね?
磯崎クン、さやちゃん、本当にありがとね。
海野クンまで中退にさせるわけにはいかないから、明日私が引っ張っていくよ」
「あの…佐山さん……
俺で良ければ何でも手伝うから!」
お兄ちゃん、エライ! よく言った。……紗耶香は内心ガッツポーズをした。
が…
「そんな…悪いよ…」
「そ、そう?」
後が良くない。「悪いよ」と言われたくらいで、どうして引っ込むのか?
「ううんっ! こんなお兄ちゃんだけど、使ってやって!」
そこで、紗耶香がねじ込みに行くことにした。
「海野クンの頸に縄を掛けて引っ張ってくるんでしょ?
絶対2人でやった方がいいです!」
海野クン、バカでいてくれてありがとう。
不肖弟のリハビリに付き添いながら、自分の前期試験のことをコロッと忘れていて、
しかも落としたことに気が付いていないなんて、本当にいい人だ。
その夜、兄妹喧嘩は完全に収束した。
紗耶香が人形を預かることを提案し、兄がそれを了承したのだった。