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ケセラセラ

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大講義室の中国文学の講義に潜り込んだ涼は、周りの学生の誰よりも熱心にノートを取っていた。
隣では海野が「真面目だなあ」と感心して涼の手元を見つめている。

そんな暇があったら、しっかり講義を受ければいいのに――
涼は思うが、口には出さない。
とっかかりが何にせよ、海野は涼と喋りたいのだ。
後ろに陣取ったバカップルのように。

大学生には信じられないバカ連中が含まれている。(勿論海野もその一人だ。)
この1週間、都立図書館の大漢和の前に籠もって、夢にまで見て悩み続けた解釈の問題が、すらすらと解かれていく。
中国文学のこの興味深さを、どうして誰も教えてくれなかったのだろう。
4年前に知っていたなら、決して高校中退なんかしなかった。

涼のリハビリに付き添って、海野は自分の前期試験のことをコロッと忘れていた。
夏休み中のレポート未提出2科目、未受験1科目、目を覆わんばかりの結果2科目。
しかも、それに気が付いたのは本人ではなく、涼の姉と同じ研究室にいる院生だった。
海野は涼の姉とその院生とに連行され、久しぶりに大学に行った。
そこで追試の日程とレポート課題を言い渡された。

1年次に修得した単位は必要最小限だった。
従って、1科目でも落とせば留年確定である。
海野としては、仕方がないから留年するつもりだった。
しかし、海野の両親ばかりでなく、佐山家で騒ぎ、磯崎家の喫茶店でも騒ぎになった。
彼らに責められて、海野は「レポートを出す、追試に受かってみせる」と言わざるを得なくなった。

しかし、地獄に仏?
「俺にも手伝えることがあれば良かったんだが、大学のことでは何もできないな」
涼は安心しきって心にもないことを言ったのだった。
が、涼の油断を見逃す手塚ではない。
「中国文学のレポート! 手伝い、夜露死苦!」
「大学の勉強なんか分かるかッ !? 」
「おまえ、漢字に凝ってたじゃないか」

海野の必死さが伝わってしまったのか、
教養の文系科目を「西洋美術史」でクリアした磯崎佑哉と
「地理学」(しかも系統地理学)でクリアした佐山美佳子が
「そうだねえ、手伝ってやったら…」
なんぞと海野の味方をした。

大学の図書館には入れないので、空いている講義室に入り込んでレポートを仕上げることにした。
「俺もここで追試の準備しようかな」
海野が隣に座ろうとするのを、涼が制止した。
「4コマ目は出席がヤバいんじゃなかったのか?」
「1回くらい平気」
「海野…」
「……わかった。おまえに心配掛けてすまなかった」
「誰が心配してるって?」
「いいんだよ。おまえの気持ちはよく分かったから。……じゃ、行ってくるよ」
海野は嬉しそうにスキップでもしかねない足取りで行ってしまった。

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中国文学のレポートは海野が追試に行く直前にできあがった。
海野がレポートを提出して、追試を受けている間、涼は姉の研究室で待つことにした。
今回は大急ぎで読んだのだが、あの本をゆっくりと読みたいと思った。
重いし、高価な本だから、大学の図書館から姉に借りてもらうつもりもあった。

理学部棟4階、エレベーターを降りると
「やったっ、取れたー!」「おー! さすが佐山さん!」
姉の声と男子学生の声が聞こえた。
大講義室にいた無気力な学生はバカだと思うが、みかねえの気合いの入り方も恥ずかしいな……
涼は勝手なことを考えながら、学生の共同研究室へ向かった。

姉は見知らぬ男子学生の手を取って、上下にブンブン振っていた。
「佐山さん、こっちもだ!」
磯崎の兄がやってきて、拳を握って見せた。
「やったねー!」
姉が磯崎の方にも手をさしのべた。

「みかねえっ!」

涼は大声を出した。
そこにいた学生全員が出入り口の方に注目した。
「あれ? どうしたの、涼?」
「レポート…。本見ただけじゃ分からなかったから、講義を受けに来た」
「そっか……」
もぐり聴講生をやってきたのか、血は争えんなあ――
美佳子は微かに苦笑した。

美佳子の後ろでは、他の学生と同じように美佳子と握手するつもりで手を出していた佑哉が困っていた。
涼は姉の後ろの男子学生達を見やった。
――くそまじめだけが取り柄の暗そうなヤツばかりだ。いずれ丙丁つけがたい――

「涼、海野クンは?」
「今追試を受けてる。みかねえは?」
「んー。片付けたら帰る。……1時間くらいかな。みんな一緒だよ」
案の定、「佐山さんはお先にどうぞ」とは言われない――
こいつらは本当にオトコなのか、と涼は溜息を吐いた。


結局、理学部棟を出たところで、「心配して」探しに来た海野と合流し、磯崎家の喫茶店に寄って帰ることで話が纏まっていた。
もとはといえば、海野が真面目に勉強しないのがいけないのだから、海野が奢るべきだと思う。
「ああ。佐山の分は俺が持つ」
「……やっぱり割り勘にしよう」

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紗耶香の方が先に帰っていたので、店番に入っていた。
兄が美佳子さんを連れてきたのは感心だと思う。
だが、いつもお邪魔虫まで引っ張ってくるのも困りものだ。
2人きりだったのは、不肖弟の快気祝いに行ったときの行き帰りと海野留年疑惑の時くらいだから、
兄の方から誘って2人きりになったことは1度もないのである。
「海野クン、追試は終わったの?」
早く帰って勉強しろという思いを込めて聞いてみた。
「終わった。涼の内助の功のお陰だ」

……内助の功?

不肖弟の方を窺うと唇をわななかせているものの、声も出せない。
兄と美佳子さんは――海野の爆弾発言に気付いた様子もなかった。
紗耶香がツッコミを入れる義理もない。
だから「内助の功」はそのまま承認されてしまった。

最初の勘違いはあながち間違いではなかったかも知れない……
紗耶香は「涼ちゃん」の方をもう1度窺った。

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「このままではダメだっ!」
ついに中納がキレた。

学祭まであと1ヶ月だというのに、物理展のテーマすら決まっていない。
確かに地味ではあったが、今まで途切れることなく出展してきた。
その伝統が崩れようとしているのに、肝心の学部学生共は「話し合い」を毎回飲み会にしてしまっていた。
後輩達のだらしなさに苛立ちながらも、博士課程の院生は自分の研究に手一杯で、
面倒を見るくらいなら今年の物理展は取りやめでいいじゃないかという腹づもりだ。
同窓生の修士課程の院生は中納と磯崎だけだ。
ところが、この磯崎も2年間もアメリカで過ごしたせいか、今一つ愛校精神に欠けるのだ。

「先輩、僕…神保先生にもう一度頼んでみます。
こんなに困ってるんだし、本気でお願いすれば、神保先生も考え直してくれる、かも」

そういって高崎が交渉に行ってから、もう1時間経つ。
「神保先生、ソフトに見えて頑固なのかな。じゃ、今晩もみんなでいきますかぁ?」
他の者が返事をしようとしたところを、中納が遮った。
「今晩はアルコール抜きだ。磯崎のところでやる!」

紅茶一杯でいつ終わるとも知れない話し合いをやる――
男子学生達ばかりでなく、喫茶店側も大いに不満だった。
そこで(人形は移動してあるので)佑哉の部屋を使わせることにした。

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2時間半遅れて、高崎が合流した。
「ヒントを4つもらった。
Aは5年前に候補になったけど止めたもの。
Bは10年前に1度やって結論が出なかったものだけど、あれから他の大学で結果を出したから、追試じゃつまらないだろうって。
Cは別の大学で見た面白いモノなんだって。
Dは昔物理展で失敗したけど、今なら設備が良くなったから簡単にできる…」
「D !! 」
「決まった。飲みに行こう」
「でも…さっき神保先生が差し入れ代わりに夕食を出してやってくれって、お店の人に頼んでたから…今行ったら失礼、かも」
「よし、高崎、よく言った。
…みんな、座れ。計画と班分けと各班責任者を決める」

夜中にはならず、シチューのパイ包みを食べ終わったところで、男子学生共が出ていった。
ファーストフード慣れしている彼ららしく、自分で食器を下げてきた。
「またどうぞ〜」
彼らが現れたときとはうってかわって、機嫌が良くなった店主である。

その時、中納は佑哉の部屋の真ん中でふて寝していた。


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