12月1日

「みんなの真似をすることが君の個性なの?」

大好きなNHK教育の海外ドラマ、「フルハウス」の中の台詞です。
昨今の「はにわルック」の賛否両論を聞いていて、頭の中に出てくる台詞はこればっかりなんです。

「寒いから埴輪にしているのに、生徒の言い分も聞かないで、先生が悪い」という親御さんがいます。
「防寒手段としての埴輪」に関しては、まあそうかもね、と思います。
ただその後に「全員を校則で縛り付けようと言うのは戦前に繋がる発想」「単なる教師の主観で、生徒の個性を否定している」には驚いてしまいます。
「生徒の言い分を聞いて」「埴輪禁止の理由を明確にして」「意見調整」という過程はどこへいくのでしょうか?

「寒けりゃ正規の長さのスカートに直してストッキングをはけばいいじゃないか。みっともない服装をしたいが為のとってつけた屁理屈は止めろ」という教師がいます。
その部分は賛成ですが、その後の論理展開は「ホップ・ステップ・ダイブ!」なのかしら? と疑うような意見も見かけます。
そのまま論理展開していけば、
「規則の中で、その日の体調や気象、個性に合わせて服装を調節する力は欲しい。また、それができるゆとりのある規則にしたい」
にいきつくはずです。
それが、世にも不思議なことに「だから、何も考えずに従え」になってたりするのです。
「だから」になってないです。

思考停止状態になったら、人間は終わりです。
無理なく論理展開しながら、論争できたら素敵だと思います。

ただ、その際にやはり「個性」というものへの言及は欲しいんです。
「それぞれが個性を持つ個から成る社会集団を形成する」我々霊長類(真猿)3000万年の伝統をないがしろにしたくないじゃありませんか。

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12月10日

「伝統文化」

アフリカ文化には敬意を表しています。
特に、成長する者を強制力を以て「子ども」の枠に押し込めておこうとする側面がないことは、大変見事だと思います。
でも、東西アフリカに生まれなくて良かったと思っています。
FGM(女性器切除。それも「痛みを与えるために」わざと切れ味の鈍い利器を使用。毎年、多くの少女が絶命しています。)があるからです。
自分の能力を発見し、研鑽し、個性との折り合いを付けて、自己実現を図っていく。「ヒト」と生まれた者の極上の楽しみです。
もし生まれた場所がパレスティナの難民テントの中だったり、東西アフリカのどこかで女に生まれていたら、そんなことは夢のまた夢です。
いや、夢見ることさえできないかも知れません。
そもそもそのような楽しみが存在することが、想像の外なのではないかと思います。
ただ、彼女達は人見絹江さん(ご存知、日本女子初のオリンピックメダリスト。男性ばかりでなく、女性からさえ白眼視されました。)よりは有利かも知れません。
自己実現を図る女が、絶対数においても、割合においても、圧倒的に増大しているからです。
少なくとも女性が「スポーツに励む」故を以て非難される機会は随分減りました。

翻って、日本文化は新しい伝統文化(変な言い方)が存在するところが興深いと思います。

100年以上前の話です。
明治維新を経て、憲法の起草論議が盛んだった頃、静岡県五箇村で行われた選挙。選挙権は各戸に与えられました。
ですから、女世帯ではおばあさんが投票に行ったわけです。
一般的に、参政権は「資産家の男性」から「成人男性一般」そして「成人一般」への推移だと教えられますが、
日本人が「選挙」と出会った頃は必ずしもそうではなかったのですね。
当時は、個人の性別よりも「家」が優先しましたから、各戸に選挙権というのは自然な発想であったでしょう。

「家」文化の頃は完全夫婦別姓でした。
ルーツを表す苗字と個人を表す名前。養子縁組のようにルーツを放棄するならともかく、「祖先」は死ぬまで変わりません。
だから、苗字は変わりません。
対して個人名の方は成長に合わせて、あるいは勲功によって変化していきました。
(武士はそうですね。家康の寵姫なども知られています。一般庶民がどうだったのか、ちょっと分かりません。
彼らはルーツを認証する苗字を持たなかったので、個人名を変えなかったかも知れませんね。)

その後、明治民法の成立によって、弱い方の性に属する人々が苗字を変更するようになりました。
その頃に「四民平等」という政策もありました。
家系と職業が緊密に結びついた制度=身分制は、自給自足農村を安定的に維持するために大変有効なシステムです。
それが否定されてしまいましたので、「家」文化は相対的に弱くなりました。
代わって個人の性別が優先されるようになりました。ちょうど「男言葉」「女言葉」が生まれた頃です。
個人の性別優先観念が喧伝され、一方民衆の間には長い間に培われていた家文化が弱体化しつつも存在しました。
この乖離現象の間にスポッと「戦後民主主義」が嵌った、というのは私見です。
民主主義は公式見解ですから、どんどん日本社会に入り込みました。
従って、現在は、家文化の人と明治100年の人と民主主義の人が併存しています。
同時に個人の中にも3者が併存しています。実は私自身も、主人が「改姓しても良い」といってくれた時にいや〜な気がして、結局私が改姓する方を選びました。
理屈でも、感情でもなく、感覚です。

日本文化のように3者が混在した状況というのは、どの程度にあるのでしょう?

家文化から民主主義へ移ることができたなら、話は早かったかも知れません。
ただ、私のような普通の人には、想像力の及ぶ範囲は限られています。
「家」から「性別」そして「人間」さらには「地球の生物」と、
私達を括る枠が拡がってきたのだから、歴史の必然というものかも知れません。
一歩一歩進んでいくしかないのです。
そんなにゆったりした歩みでも激しい痛みを伴うのですから、話は早くない方がよろしいような気がします。

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12月17日

「権利」を勝ち取る(日本編)

ある日の朝食時です。
「権利には必ず義務が伴う、という考え方の人っているよねえ」
いるよねえ。
「リヴァイアサンを、人は権利を得るためには義務を果たさなければならない、と読んでいる人を見かけた」
ほえ?

念のため、愛用の『広辞苑』をひいてみました。
「権利」も「義務」も3つほどの説明が出ていて、いずれも3番目に対概念として表記してあります。
位置付けとしては、私の感覚の中でも3つの意味の3番目くらいが妥当であろうと思っていましたので、安心しました。

権利と義務が結びつくのは、公権力が調停役として機能する場合ですね。
よく、腕力の強い子どもが弱い子どもに暴力を振るう際に、そうする「自由」があるなどと生意気を言うことがあります。
『開化のはなし』(明治5年・新宮得一)でも自由と書いて、基本的人権に当たるところは「じゆう」、
強者の傍若無人な振る舞いを「きまま」と読ませています。
先の子どもは「じゆう」と「きまま」の区別が付かなくなってしまったのです。
この「きまま」を放置しておきますと、「万人の万人に対する闘争」(『リヴァイアサン』ホッブズ)となってしまいますから、公権力が必要になってくるのです。
では、日本の場合、3者はどのように関係してきたのでしょうか。

日本の古代でよく知られた「権利」や「義務」と言ったら、律令でしょうか。
「権利」と言ったところで、民衆の権利ではありません。貴族階級(五位以上)の特権を固定化するための方策でした。
民衆、特に地方の民衆達には重税が課せられていました。租調庸、労役、軍団や防人、あるいは調庸を京まで運搬すること。
これらの重税に見合う権利はちょっと見あたりません。
「口分田」が有るではないかという反論もありそうですが、実際のところは疑問だと思っています。
当時、稲の品種の多くは熱帯ジャポニカですし、人工肥料の技術(というよりは発想)がありません。
現在は熱帯地方の山奥で見られる「焼畑」に近い農業が、当時の日本には相応しかったでしょう。
当然、「浮浪」「逃亡」が増加の一途を辿ります。
当時は天災まで天皇の責任だったからでしょうか、「浮浪」「逃亡」も「律令制の乱れ」として説明する人もいらっしゃいます。
しかし、農業技術から考えて、「班田収授」をやろうという方に無理があったのではないでしょうか。

さて、「浮浪」「逃亡」人口は、荘園に吸収されていきます。
荘園は移動耕作に即した土地制度ですから、班田収授とちがって長く続いていくことになります。
その土地の土豪である荘官が荘園を管理します。
荘園の農業労働者を獲得するのも彼の仕事です。農業労働者達が生活する家は、荘官が建てておきます。
彼らは年貢を納めます。そして、年月を経ると別の荘園へと移動していきます。

移動耕作の時代、公権力にとって民衆は単なる税源であったと言っていいでしょう。
彼らは「租調庸」という形にしろ、「年貢」という形にしろ、納税の義務だけは負い、権利の保護は為されていませんでした。

鎌倉時代頃から、地力の低下を遅らせるための肥料の発想が出てきます。
こうした農業技術の進歩は、農村を劇的に変えました。
この頃から、移動耕作から定住耕作への変化が起こります。
室町時代の中頃から、ごく普通の農民までもが、道祖神が護り、鎮守の神を共同で祀る村に定着するようになります。
荘園の頃は「年貢が高い」ならば、別の荘園へ行けば良かったのです。
ところが、室町時代の人が別の村に行けば、またまた「よそ者」生活からスタートしなければなりません。
自分自身も、子孫も、その村に骨を埋める覚悟をしたなら、悪い労働条件は改めさせようということになります。
こうして、農民達(地侍なども含めて)は「生き延びるための権利」(「生存権」というと別物です)を求めて、闘い始めました。
愁訴、逃散、それでもダメなら一揆。
荘園制の崩壊も、「遠くの親戚より近くの他人」の発想も、ほぼ同時進行と見ていいでしょうか。
生命を守ってくれるものは、同じ村で生きる仲間達になりました。
彼らは村の掟を作り出していきました。
時には「神様」の権威を借り、積み重なった時間そのものが権威となりました。
この掟に従うことによって、彼らは村のメンバーとして生きていったのです。
ここで、権利が誕生し、「掟」という調停役(公権力)が誕生しました。

「義務」は強力な政治権力の発生と共に生まれたと見て良さそうですから、
民衆に「権利」を求める動きと、搾取するだけではない公権力が誕生するまで随分時間があります。

その差、ざっと1000年。

ところで、公権力はどのくらい調停してくれたでしょう?
鎌倉時代なら、鎌倉の辻に他殺された人が倒れていても、一族の者が届け出ないとそのまま放って置かれました。
公権力の在り方としては、まだまだ「義務を課すだけ」に近いものがあります。
江戸時代くらいになりますと、「切り捨て御免」にはやはりそれ相当の理由が必要になりました。
また、飢饉の時の年貢率はグッと下げるのが当然でした。
江戸時代というと、最高度の身分制が現出した時代なのですが、民衆を本当に「虫けら」扱いするわけにはいかなかったのですね。

こうして、民衆にとって、政府は「義務を課すだけのもの」から、「義務を果たす対象であると同時に、権利の保障を求める対象」になりました。

では、逆の言い方、「権利の保障を求めるために、義務を果たさねばならない」は正しいのでしょうか?
逆は必ずしも真ならず、です。
保証の代償として、義務を求めてはいけない権利のことを「天賦人権」と言います。
人は生まれながらにして権利を持っている、というものですね。
「自由権」の相当部分がこれにあたります。
たとえば、自分の生命が自分のものであること。
たとえば、幸せになりたいと願うこと。(くれぐれも、「他人を犠牲にして幸せになりたい」という”きまま”と混同しないでくださいね。)

「天賦人権」または自由権に対してまで「義務」をもちだす社会には、断固 No です。
それって、独裁天国じゃありませんか。


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