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9月  身体の個性   愚痴の効能   原理主義者の争い[元版] 原理主義者の争い[改訂版]
10月  避難訓練の思い出   「巨人ファンだから、仕方ない」


10月23日

専業主婦は太古の香り

グラマー好み、スリム好み……女性が男性の体型についてとやかく言いだしたのは近年のことだが、男性はかなり以前からうるさい。
不思議とどんな体型好みであっても、女性のヒップに対するウェストの値は0.7が好まれるのだそうだ。
ただし、これは西欧や日本人男性の好み。
西欧文明と接触を持たなかった男性に聞いてみると、もっと大きなウェストを好んだそうである。(イラストを見せて好みを選んでもらった。)
彼らはウェストの値が0.7で描かれた女性について「彼女は下痢をしているのか?」と聞いたのだそうだ。

さて、話は現代日本の専業主婦。

私の娘は就学前、年少までは保育園に通っていた。
集会はいつでも時間通りに始まり、時間通りに終わった。
年中からは園を移ったのだが、私以外は完全な主婦専業だった。
集会はいつでも30分以上遅れて始まり、終わりはまちまちだった。
園の側は、集合の悪さへの対策として、集合時間をどんどん早くしていった。
つまり、遅刻者対策のために真面目に集合する方を締め上げたのだ。
結果、待ち時間は長くなるばかりだった。
保護者会の日、最初は昼食の時間が取れることもあったが、待ち時間に浸食されて、それは全く不可能になった。

就学後、上級生の母親達にはパートタイマーが多く、同級生の場合は主婦専業が多かった。
子ども達をスクールバスに乗せると、立ち話ができるのは主婦専業に限る。
私もしばしば引き留められた。
彼女達には「5分引き留められてもいいが、6分は困る。でも、6分引き留められてしまったら、30分引き留められても同じ」という状況が分からない。
彼女達の移動手段は自家用車しかないからだ。
ただ、公共交通機関を使っていても、こちらも専業主婦だから、次に乗ればいいのである。

専業主婦の時間感覚こそが、人間本来のものなのだと思う。
夫が出勤し、子ども達が登校していったら、もう「特別な時刻」は存在しない。
公共交通機関を使っていなければ、もう「分」だの「秒」だのは不要である。
「午前中」「お昼頃」「夕方」……それだけでいい。

その彼女達と私の悩みと言えば、ウェストであった。
若い頃はゴールデンプロポーションだったはずなのだが、今は見る影もない。
経産婦だから。それはある。
だが、私の場合、産後1ヶ月半でもとの体重に戻ったし、育児休暇あけにサイズの違うスカートを買った覚えもない。
今はあきらかにウェストだけが以前と違うのだ。

こうしてのんびりと日を送っていたのだが、この程臨時で就業することになった。
無理矢理昔のスーツを着て、履歴書を持参した。
帰宅中、ウェストが苦しくないことに気が付いた。
2日間で私のウェストは2cm細くなっていた。

本来なら時間は連続的で、だらだらと待機時間が過ぎるものなのに、文明人には「出社時刻」だの「バスの通過予定時刻」だのが存在する。
この文明人の時間感覚と、文明人好みの細い女のウェストとは、何か関係があるのかも知れない。

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10月13日

避難訓練の思い出

火災や地震などを想定した避難訓練。
企業でも学校でも、災害の起こった日にちなんで行われている。

火災訓練では消火器の取り扱いなどを訓練するのだが、学校では人数が多いので代表の子だけが体験することになるだろう。
社会人になって初めて消火器を扱う体験をした人もかなりいるに違いない。

私が最初に勤めたところでは、全員が訓練に参加した。
引火性の強い有機化合物に囲まれた職場だったから、全員に消火の知識や体験が必要だったのだ。

ところが、2度目の職場では様相が違っていた。
正従業員だけで避難訓練を行った後、男性だけが集まって消火器の訓練をするのである。
おかしいと思ったが、1年目は黙っていた。
2年目は定年間近の女性と一緒に見学だけした。
同期の男性から私が「すごい」と言われたことを後で聞いた。
6年目、酒の席の帰り、同方向に帰る上役に訴えた。

実はここの職場は男女同一賃金なので、女性にもそれなりに責任があり、休日出勤していたのが女性ばかりだったということも十分あり得る。
もし、そうした日に火災が起きたらどうなるのか。
女性だから「あ〜れ〜」と悲鳴を上げてればそれで許される――はずがなかろう。

男性と女性の平均を比べれば、男性の方が断然素早く消火器を扱えるに違いない。
しかし、ここで必要な比較はそれではない。
訓練であっても体験をしたことのある女性と、そうしたものを見てもいない女性との比較である。

彼は納得してくれ、臨時の従業員も含めて訓練が必要だと提案することを約束した。

翌年から、避難訓練は地震を想定したものだけになった。

現在はどうなったか知らない。
ただ、ここの職場に限らず、「臨時」「パートタイム」「派遣」といった形態で働く労働者は多い。
安全ということにもっと目を向けてほしいと、切に願う。

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10月8日

「巨人ファンだから、仕方ない」

現在の巨人ファンはさすがに違うと思うが、昔の巨人ファンは不思議な言動をとっていた。
特に無神経な人だけの行動ではない。
話題がプロ野球に及ぶと、こちらがどのチームを贔屓しているのか全く聞かずに、巨人ファンの話題に入っていく。
巨人ファンでない人の場合、贔屓の悪口を言われない限り、巨人讃歌を黙って聞くしかない。
「巨人ファンだから仕方ない」と諦めるしかないのである。
彼(彼女)が「相手は巨人以外のチームを贔屓しているかも知れない」と考えるのは、相手が贔屓チーム(選手)をクサされて、嫌そうな顔をしてからであった。
彼らの場合、巨人を讃える話でなければ、プロ野球の話は成立しないものなので、別の話題に移っていく。
現在の私自身は特に贔屓もない。中日がリーグ優勝を果たしたお陰でバーゲンがあった、嬉しい…といった程度だ。
だから、今なら昔流の巨人ファンと話をしても喧嘩にはならない。
違和感は胸の中だけにとどめておける。

「数学が好きな女子中高生」に至っては、さらに扱いが酷くなる。
数学嫌いが結束すると恐ろしい。
好き嫌いは単なる個性であり、その価値を云々するなら、できないと言う側が恥じて欲しい。
どうもその頃からマジョリティに不信感を持つようになってしまったものらしい。

仲間が多いということは、人間の気を大きくするものだ。
労働組合というシステムがあるのもそのためだ。
権力に圧倒的な差があっても、雇用者を交渉のテーブルにつかせるほどの力を持つ。
そのような力を個人対個人、しかも本来なら争う必要のない場面でまで使われることもあるのだ。
マジョリティ、ご用心。

勿論、マイノリティが徒党を組み、マジョリティを黙らせることだってある。
非力なマイノリティではなく、単独でも権力を持っていたり、腕力に自信があったり、対人的な配慮に欠けたマイノリティだ。
無邪気な昔流の巨人ファンよりタチが悪いことは確かである。
国際政治から芸能分野やどこかのなかよしクラブまで、私達はそこここで暴力的なマイノリティの所行を見聞する。
彼らについてはまたの機会に。

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9月27日

原理主義者の争い

[改訂版]

今年「特定外来生物法」という法律ができた。
その動植物がありえないほど遠くに来てしまい、日本の固有種に絶滅の危機・激減といった深刻な被害を与えている場合は、それら外来生物を繁殖させない・持ち込ませない・あるいは駆除しようという内容である。
外来生物には、昔正式に持ち込まれたこともあるし、密輸入されたものもあるし、クロゴキブリのように輸入したのではなく船に紛れて移入してしまったものもある。
ある動物が、この法律の「特定外来生物」に指定されないことを熱烈に願う人々がいる。
大型の甲虫やは虫類などをペットとして愛している人々と、バスフィッシングなどを愛する釣り人達である。

両生類やは虫類、あるいは昆虫などのペット愛好家達は、それら珍しい動物が入手困難になること、国内で自由に繁殖させられなくなること、事故または故意により逃がした場合には責任(罰則をともなう)を問われそうなことに怒っている。
そして、釣り人達は、日本国内の広範囲に渡って楽しむことができた外来魚の棲息範囲が急速に狭められ、日本では主流となっているキャッチアンドリリースを否定されそうなことに怒っているのだ。
彼らによれば、「それらの動物はもう日本の自然環境に溶け込んで、食物連鎖の頂点にいるのだから、今さらその連鎖を壊すべきではない」し、「日本の固有種が減ったのは環境悪化の為」なのだ。
彼らは単に、ペットを愛玩したり、繁殖させたり、お目当ての魚を釣っていたいだけなのだ。
日本の固有種のことは「知らない」というだけで、その絶滅を望んでいるわけではない。
外来生物繁殖の「恩恵」にあずかっているに過ぎないからだ。
その「恩恵」をもたらしたのは、輸入業者であり、ゲリラ放流や放虫を行った一部の人間である。

では、日本の固有種が激減するという事態を引き起こした「犯人」は、輸入業者やゲリラ放流した人々と断定できるのだろうか。
きっかけを作ったことは確かだし、現にヒメダカの多様性は失われつつある。

そこで、一旦ホットな話題を離れて、もう他人事と考えられるほど古い問題で、似たような事件がなかったか、探してみよう。
誰にも肩入れしない第3者になるためである。

今から90年前、オーストリアがボスニア=ヘルツェゴビナを併合し、その記念としてオーストリアの皇太子がそこの首都サラエボにやってきた。
この時セルビア人の青年が皇太子を射殺してしまった。(サラエボ事件)
緊迫した世界情勢の中、この事件を発端として第一次世界大戦が起きた。
日本では大戦中には大変景気が良くなり、企業主が潤い、彼らを支持母体とする政友会という政党が潤い、彼らを上客とする花柳界が潤った。
いきなり工場が大きくなったので、仕事にありつけた労働者も多かったに違いない。

当時ではあり得ないが、「もし、船成金と、戦火に焼け出された被災者が出会ったら、どういう会話になるか」想像してみよう。
船成金は思う。
「やっと仕事が軌道に乗った。大戦景気がずっと続いてくれたらいい」
被災者は思う。
「私は家も家族も失い、逃げまどっているのに、この戦争に乗じて豊かになった者がいる」
お互いの話は平行線に終わり、憎み合うことだろう。

では、先のセルビア人青年が第一次世界大戦を引き起こした「犯人」であり、この被災者の不幸に対しても責任を負うべきなのだろうか。
彼が願ったのは、ただ祖国の独立や安寧だった。

現代に生きる私達は、何が真犯人か問うよりも、戦争の終結と防止策を考える方が大事だと思う。
セルビア人青年の罪は皇太子夫妻の殺人であり、世界大戦にまでは拡大しないと思う。
船成金は戦争に頼らない経営をしなければならないという犠牲を払うが、それは正当なことだと思う。

そこで、現代の特定外来生物に戻ろう。
第一次世界大戦に関しては「セルビア人青年に大戦の責任までは問うまい、だが戦争の終結に向けて努力すべきだ」と考えた。
では、同様に言ってみよう。
「ハブ退治のためにマングースを持ち込んだ島民にアマミノクロウサギ激減の責任までは問うまい、だがアマミノクロウサギを守る努力をすべきだ。マングースを減らそう」
「アカミミガメ(ミドリガメ)を売る人たちにクサガメ激減の責任までは問うまい、だがクサガメの回復に向けて努力すべきだ。だからミドリガメが大きくなってもその辺の池に放させないよう徹底すべきだ」
「オオクチバスを芦ノ湖に持ち込んだ赤星氏に在来魚激減の責任までは問えない、組織ぐるみでゲリラ放流した業者にもその責任だけを問うことにする、だがバスやブルーギルから身を守る術を知らない日本固有種の回復に向けて努力すべきだ。それらの魚を閉鎖水系に戻そう」
………

こうした利害の調整策は今のところうまくいっていない。
環境保護派も、外来生物の恩恵を被っている人々も、犯人探し(それも単独犯)に夢中だからだ。
いうまでもなく、環境保護派は「アカミミガメが悪い、バスが悪い。駆逐すれば解決」と外来生物を単独犯にしたがる。
ペット愛好者や釣り人は「環境悪化が真犯人。アカミミガメを認めろ。バスを認めろ」と無罪を主張しているのだ。
そして、相手の主張にも、犯人よりも解決策を探そうという提案にも耳を貸さない。
仲間内の言うことしか聞かない人々と言えば原理主義者だが、人は割合簡単に原理主義者になるものではないかという気がしてくる。

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[元版]

原理主義者は同じ宗旨の原理主義の言葉にしか耳を傾けない。
イスラム教原理主義者はキリスト教原理主義者の主張を正しく理解する気などないし、その逆もまた然りである。
ファンダメンタリストは進化学をまともに聞く気がないから、
「進化したというのなら、最も優れた(進化した)人間がどうしてこんなに不完全なのだ? 神がこのように造ったからではないか!」と怒る。
生物は、環境に最も適合するよう、もともと持っている組織や細胞を変化させ、多様性を内包させるものだ。
何か究極の目的があり、そこに向かって進化してきているわけではない。
心臓は2心房2心室になるべく造られたものではなく、1心房1心室のものを間に合わせで変化させたものだ。(だから心臓病がこんなに多いのではないか。)
人間こそが最も優れた(進化した)生物であり、神(完全なるもの)に近い存在だという信仰と融合させようとすれば、進化学はインチキだろうが、
信仰の方を取り去ってしまえば、生物の有り様を合理的に説明しうる理論である。
しかし、ファンダメンタリストが信仰を取り去る日は来ないだろう。

さて、現代日本でホットな原理主義者の争いと言ったら、特定外来生物法をめぐる争いだろう。
その動植物がありえないほど遠くに来てしまい、日本の固有種に絶滅の危機・激減といった深刻な被害を与えている場合は、それら外来生物を繁殖させない・持ち込ませない・あるいは駆除しようという内容である。
外来生物には、昔正式に持ち込まれたこともあるし、密輸入されたものもあるし、クロゴキブリのように輸入したのではなく船に紛れて移入してしまったものもある。

両生類やは虫類、あるいは昆虫などのペット愛好家達は、それら珍しい動物が入手困難になること、国内で自由に繁殖させられなくなること、事故または故意により逃がした場合には責任(罰則をともなう)を問われそうなことに怒っている。
そして、釣り人達は、日本国内の広範囲に渡って楽しむことができた外来魚の棲息範囲が急速に狭められ、日本では主流となっているキャッチアンドリリースを否定されそうなことに怒っているのだ。
彼らによれば、「それらの動物はもう日本の自然環境に溶け込んで、食物連鎖の頂点にいるのだから、今さらその連鎖を壊すべきではない」し、「日本の固有種が減ったのは環境悪化の為」なのだ。
彼らは単に、ペットを愛玩したり、繁殖させたり、お目当ての魚を釣っていたいだけなのだ。
日本の固有種のことは「知らない」というだけで、その絶滅を望んでいるわけではない。
外来生物繁殖の「恩恵」にあずかっているに過ぎないからだ。
その「恩恵」をもたらしたのは、輸入業者であり、ゲリラ放流や放虫を行った一部の人間である。

しかし、輸入業者やゲリラ放流した人達とて、第一次世界大戦におけるセルビア人青年(サラエボ事件)といった役どころなのだ。
彼が願ったのは純粋に祖国の独立であり、その後に起きた世界大戦については知るよしもなかった。
まして、一般のペット愛好者や釣り人になると、大戦景気で潤った企業主や政友会の代議士や花柳界、あるいは船成金の工場労働者かもしれない。
船成金の工場労働者と戦火に焼け出された被災者とでは、たとえ言葉が通じることがあっても、決して心が通じることはない。
工場労働者は「船成金は不正だ。日本の船の輸出を止めるべきだ」という主張に怒りを覚え、被災者は「景気が良くて、やっと暮らし向きが良くなった。大戦が続いてくれればいいのに」という主張には憤りを覚えるだろう。
90年を経た私達には、両者の主張もその論旨の隔たりも分かる。
しかし、当事者はお互いに憎み合うようになるだろう。

原理主義者は通常過激派ではない。
自分と違う意見を持つ人間を、その理由ゆえに消してしまおうという発想はしないし、一般の人に危害を加えることもない。
ただ、仲間内の言うことしか聞かないと言うだけなのだ。
だから普段は放っておいて差し支えない。
問題は原理主義者同士の争いになった場合だ。
利害対立が生じた場合、普通ならばその調整を図る。(政治の介入。)
しかし、原理主義者同士の争いでは、お互いが自分の主張を繰り返すのみで、話し合いにならないから、第3者が介入しても、政治の機能が麻痺してしまうのだ。

そこで、まずは原理主義者抜きで妥協点を探ろう。
ゾーニングが可能な種はどれか、どのような管理が有効で、被害を小さくとどめることができるか(外来生物を全く排除してしまうことは不可能だろう)……。

とりあえず、アカミミガメを飼っている人を「アカミミガメを飼っている」という理由で非難はしないが、「うちの水槽では小さくて可哀相だから、自然に帰してあげたい」と言ったときに「フロリダに帰してあげてね」とアドバイスしようと思う。

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9月9日

愚痴の効能

愚痴一つ言わず、黙って耐え……
ドラマでも現実にも、そうした「見事」としかいいようのない人物をみることがあります。
文句なしに崇敬の念を抱きます。

しかしながら、いついかなる場合でも「愚痴一つこぼさず、黙って耐え」が正しいわけではありません。
同じ要求が、力関係によって、愚痴にもなり、正当な要求にもなります。
私は、むしろ積極的に愚痴を推奨します。

愚痴をこぼす際はできる限り冷静であることが望ましいと考えます。
口に出すと、同じことが何度も繰り返され、絶望感が増幅されます。
そうした状態で冷静を保つのは困難でしょう。
ですから、書くのです。
言葉によってのみ相手に伝えなければならないのですから、どうしてもある程度の客観性が必要です。
文章が自分の目にも見えますから、重複は少なくなるでしょう。

書くことによって、もうひとつ素晴らしい効果が期待できます。
愚痴の記録ができあがるのです。
いつ、誰が、どうしたのか。
それらの記録は、愚痴を正当な要求に変える時に、力になってくれるはずです。
更にそれをお友達にeメールとして送りましょう。
何のことはない、愚痴話を「聞いて、聞いてー」とメールにするだけのことです。
削除される可能性の高い携帯よりも、保存される可能性の高いパソコン宛の方が優れていることは、言うまでもありません。
相手が保存してくれれば、証明になります。

愚痴をこぼしたい時は、縄のれんはいけません。
グッと堪えてパソコンに向かいましょう。
そして、その問題が何らかの形で決着を見た時、会話を楽しむためにお酒を入れるのがいいでしょう。

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9月1日

身体の個性

女性と食事を共にすると、たいていの場合、相手は私の半分くらいの量でお腹いっぱいになってしまいます。
彼女に食べきれる量ではあっても、私よりは相当に時間をかけて食事をしています。
その度に不思議に思うのです。
……この人はあの過酷な小学校給食をどう乗り切ったのだろうか?

当時の小学校で、給食は残してはならないものでした。
そして一人ひとりの量は、体格に関わらずきっちりと等量でした。
私は小食で食べるスピードも遅かったので、同じ班の子達には大変迷惑を掛けました。
小食な子や食べるのが遅い子がいると、「連帯責任」で全員が食べ終わるまで、校庭で遊んではならなかったのです。
既に食べ終わって外に出たい子達は私の首をつねり続けました。(そこは髪で隠れていました。)
別の小食の子は、埃の舞う中で(掃除の時間になっても)、食べさせられていたといいます。

そのせいか、小中学生の頃の私は食事そのものが嫌いでした。
生きるためにいやいや食事をするという感覚です。
骨の上に筋肉と皮膚しかなかった私に皮下脂肪がつき始めたのは、自分の身体が欲する食事を、自分の意志で取れるようになってからです。

この問題は近年素晴らしい勢いで解決をみています。
小学校教師も今や「アナフィキラシーショック」という言葉を知っていますし、アレルギーに関する知識も向上したように思えます。
さらに、もともと小食な子がいたり大食な子がいることもあるのだと、はっきり認めるようになりました。
組み合わせに関する問題も、ご飯が導入されることによって随分改善されました。

クラスの定員を少なくして欲しいという要望はよく聞きました。
定員以上に切実だった給食の問題が、ながらく採算面からのみ論議されていたのは不思議です。

教育に関する一般市民の要望で不思議に思うことがもう一つあります。
習熟度別学習、ティームティーチング……教育効果を上げるための方策が討議されますが、その時にイメージされるのが、数学と英語に偏ってきました。
近年は国語も注目されていますし、理科離れも取り上げられるようになりました。
しかし、切実なのは体育であるはずです。

運動能力の差異は大変に大きいのです。球技などの授業では危険が伴います。
それでいて、体育でも他の椅子に座ってできる教科と同様の人数で授業が行われます。
今年も80人の中学生の水泳授業を2人の教師でみていて、熱中症の死亡者が出てしまいました。
子ども達の個性が大切にされるようになってきたはずなのに、この安全を軽視した状況が続いていくのはなぜでしょう?

身体の個性は目で見える分かり易いものです。
そして、テレビでは健康に関する番組が多く作られ、期間中はオリンピック報道一色でした。
身体への関心は大変に高いものがあります。
身体や健康を守ることが、精神の向上に比べて一段低く見られたのは、昔の話でしょう。
こうした意識ができるだけ早く教育現場にも波及しますように。


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