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1月  コミュニケーション雑感  出会えて良かったね  良い時期  不易と流行語大賞
2月 とりあえず「偏差値」に1票  親父の出番  


2月26日

素人不幸自慢

たいていの人は、幸福をひけらかしてはいけない、と自主規制が働く。
自慢話を聞かされ続けたくないものだと、容易に想像できるものだ。

私自身は人の自慢話にはさほどの不快感を感じない。
おそらくは気を遣うほどには不快がられないものなのだろう。
不快感を感じる時は、繰り返しである時だろうか。
しかし、上沼恵美子氏のように、いくばくかの自慢に明らかな大嘘をつけて、いかにも演技といった調子でやられると、面白さ・滑稽さが先に立つ。

私が止めてほしいと思うのはむしろ不幸自慢の方だ。
不幸自慢なだけに、聞いているだけで気分が滅入ってくる内容ばかりである。
その話はしばしば繰り返され、聞き飽きている。

最初に親身になって「こうしたらうまくいった」という情報を与えても、それが活かされることはない。
改善する気があるのだろうか?
聞く側の気分が投げやりだと、話し手が不幸な状況に陶酔状態だとしか思えなくなってくる。

さらに不幸自慢が複数人数いると、そこで不幸自慢大会が始まってしまう。
お互いの不幸を「それはお気の毒に」なんぞとおざなりの慰めをしつつ、自分の方がいかに不幸かを力説するのである。

そこで、本当に疑問なのだが、不幸自慢によって何が得られるのだろう。

幸運な人々(要するに本人以外のすべての人間)が「あなたは大変気の毒なので、私が無償で○○をしてあげましょう」と援助を申し出るのを期待しているのだろうか。
もしそうなら、あまり有効な戦略ではない。
今やODAだって、カネさえ出せば良いという時代ではない。
技術支援の方が喜ばれたりするのだ。
したがって、援助するなら有効な援助をしようと考える。
そうした時に、かつて自分が与えたアドバイスを無視して不幸話を繰り返す人物は後回しにするのが人情というものだろう。

「他人の不幸は蜜の味」という言い回しもあるくらいだから、不幸話は一種のサービスなのだろうか。
不幸話によって時間を拘束されるより、有効に使いたいのも人情。
現代人は何かと忙しいのだから、不要なサービスと受け取られるだろう。
たとえ蜜の味だとしても、あっさりとした甘味を好む現代人にはそぐわないのだ。

しかし、こういう人間だけとは限らない。
幸福そうな話に猛烈な反応を示す人もいる。
音声としては「ケッ!」だろうか。
私自身は、娘がオムツをしていた頃「まだオシメ様です」と発言したところ、猛反発されたことがある。
自分の子に「お姫様」とは何事か、見苦しい、と言うわけだ。
華族制度が廃止された現代、「お姫様」はよその女児(たぶん乳児)にしか言わないだろう。
聞き間違いです、に応じてくれそうにない勢いだったこともあり、訂正する気にはなれなかった。
しかし、その方は不幸話には寛容だった。

自慢が良いか、不幸が良いか。
好みの傾向が似た同士で話が弾むに違いない。

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2月15日

とりあえず「偏差値」に1票

大学入試の季節である。
有機化合物の命名についてIUPAC(国際純正および応用化学連合)の規則を、大学の教養部ではなく高校で学んだ私は、おそらく「詰め込み教育」の絶頂期にいたのではないだろうか。
私や友人達にとって、詰め込み教育は大人達が心配するほど厳しくはなかった。
現在と違って、毎週土曜日もきっちり4時間の授業があったし、国民の祝日も12日間のみだった。
教科書はかなり厚くできていて、したがって読んでいて意味が取れないということもなかった。
しかし、当時の大人達は大変な人情派であり、私達が不満をこぼす前に、先回りをして学習内容を削減してきてくれた。
その時に大いに非難されたのが「偏差値による輪切り」であった。

誰も彼もが「偏差値」を非難するので、口に出しては言えなかったが、偏差値でなければ何を基準に据える気なのかと不安が大きかった。
もし、「不合格」だったときに、どの理由がましか、ということだ。
学力が及ばずに不合格であったなら、口惜しくても納得はいく。
学力ではなく人格が劣るので不合格、とされたらショックが大きい。
人格ではなかった場合、家格とか生まれた順番や性別が基準になることはもうないだろうが、親の資産が選別基準になるというのは現実的だろう。
現実味を帯びてはいても、階級社会を指向していることには違いない。

本人の能力・努力・運では乗り越えられない壁が存在するなら、それは階級社会だ。
現代の学校に於ける階級分化の進行を否定する人々も多い。
「上層階級に生まれたものでも、学力上位者ではないものが存在する」というのがその論拠だが、論じている内容が違う。
私達は「下層に生まれたら最後、どんなに才能があっても、努力しても、それを活かすことが許されない壁が形成されつつある」と言っているのであって、「上層に生まれれば才能が無くても努力しなくても運が悪くても万事OK」などという状況が存在しうるとは考えていない。
資産と学歴が結びついて形成される階級は、一番怖い。

たとえば、ジェンダーフリーに反対する人々がいる。
一部の人々はともかく、おおむねジェンダーフリー推進派は彼らに寛容なのではないだろうか。(従って、この件に関しては極論者同士が罵り合う様相を呈する。)
ジェンダーフリーは多少の後戻りをしつつ、確実に進行するだろう。
国際競争力を高めるために、それが必要だからだ。
かつての経済成長には男性達だけが競争すれば十分だった。
女性も競争に参加させる必要はなかったし、むしろ社会の不安定化を招くと考えられた。
しかし、今やそんな悠長なことは言っていられないのである。

たとえば、インドのカースト制はどんなに政治的に批判されても存続してきた。
しかし、前世紀の終わり頃から経済のテイクオフが始まり、同時にカースト制も崩壊し始めたという。
階級とは、大部分の人々が定住耕作し、村がある程度自立的自給的である場合、必要なシステムなのだ。
日本の荘園制下のように、移動が原則であるなら、職業が階級と一致するとは限らない。
そして、経済成長を遂げてしまうと、村が自給自足ではいられなくなるから、身分制は弊害が大きくなってしまうのだ。

これら、経済的に不利な条件しかもたらさない階級や、それによって生じる差別など怖くはない。
ただ目新しいものは厄介ではないかという気がする。
そこで、とりあえず偏差値に1票。
別に何か、本人の資質にのみ左右される指標が見つかればいいのだが。

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2月8日

親父の出番

韓国のドラマや俳優さん達が日本に紹介されるようになって久しい。
こうした文化交流ばかりでなく、勿論ビジネスも多方面で展開されている。
しかし、実際に韓国で仕事をしている人に話を伺うと、日本人ビジネスマンは当惑するのではないか。
仕事の交渉で来ているのに、女性を紹介されるというのだ。
さらに、普通の喫茶店にいても、話し相手の女性がやってきて、一人にさせてくれないものらしい。
性をちらつかせる交渉の一種ではなく、それがもてなしなのである。

さらに中国となると、日本人ビジネスマンはパニックを起こすのではないだろうか。
中国では、交渉の下地としての人脈作りが必須である。
何の仕事かと言うことよりも、誰の紹介かと言うことの方が重要だということだ。
従って、紹介がなければ、ビジネスチャンスもない。

真面目な仕事の話を、女性付き(女性が交渉に行ったらイケメン付きかしら?)だの、紹介がなければダメだのと、やる気があるのだろうか。
儀礼をこなさなければ、交渉のテーブルにも付かせてもらえないなんてあんまりだ。
こっちは忙しいのだ。
その方式に合わせていれば、何回か足を運ばなければならないだろう。
1回ですむ交渉は、1回で済ませて欲しい。
隣国だと思っていたが、この違和感は何だろう。
ビジネスチャンスがごろごろ転がっている韓国や中国を前にして、日本の企業は台湾企業の活躍を怨めしく見つめているしかないのだろうか。

しかし、忘れてはならない。
日本にはまだアジアの心が理解できるかも知れない人材がいるのに、むざむざ彼らを埋もれさせている。
そう。ノミニュケーション万能論者の中高年男性達である。
飲んで話せば心が通じる方式は、韓国流・中国流のビジネスに通じるものがあるのではないか。

この際、戦争責任やら靖国神社やらに関する突き上げで韓国・中国嫌いになっておられる親父様方には割り切って頂き、ビジネス交渉の切り込み隊長になっていただく。
そこにこそ日本経済の活路が見いだせるのではないかと思うのだが、素人考えに過ぎるだろうか?

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1月25日

杉様とヨン様 〜恋愛の民主化〜

政治体制や経済政策の成果が現れるのには、ほんの数年のスケールを見ればいい。
しかし、人間の価値観が変わるためには50年ほどかかるのだという。
すなわち、戦後60年経った現在が、ようやく戦後の民主化政策について総合的に論じられるようになった時期といえる。
様々な切り口があるだろうが、ここでは女性が魅力を感じる男性像の変遷を通して、「恋愛の民主化」をとりあげる。

戦後、女性達はどんどん積極的になっていったのだが、好む男性のパターンは変わらなかったように思える。
「黙って俺についてこい」
ジョン・ウェイン氏にも通じる男の色気というものだろうか。
あくまでも力強く、強引。
杉良太郎氏や石原裕次郎氏への支持はその系譜にあると思う。
高橋英樹氏、松平健氏といった品のいい男優さん達も支持を集めたのだが、杉様の流し目には及ばなかった。
25年ほど前の話である。

やがて、女性達は「優しさ」を求めるようになった。
「求めないで、優しさなんか」といった反発は時としてあったものの、おおむね「優しい男性」は了解されていった。
ここまでは戦前派男性やそのシンパにも、「今どきの若い者はだらしない」程度の反応しか引き起こさなかったように思う。

衝撃波第1弾は、若い女性の松坂大輔氏支持。
松坂氏はプロスポーツ選手だが、支持の理由が逞しさではなかったのだ。
女性達は時には自分が男性をリードしたいと言い、松坂氏はそういった指向を受け入れてくれそうな男性というイメージを持たれたのだ。
男性が女性をリードする図式――を男女双方とも望んでいると信じられていた。
愛は相互作用。
片側の意思の一方的承認では、主従関係でも代用できる。
代用の利かない関係を構築したい――と女性が本気で望むとは考えていなかったのかも知れない。
この統計はお定まりの「近頃の若い者は…」で総括されてしまった。

しかし、その頃、中高年女性達が支持したのが氷川きよし氏だったのである。
男性でありながら、物腰が丁寧で礼儀正しい氷川氏が、演歌の人気を支えたことは皮肉である。
ただし、こちらも「母性本能を刺激する」で片付けられてしまった。

そして、ペ・ヨンジュン氏が支持される現在に至る。
杉様からヨン様へ。
女性達の支持を集める男性有名人を並べてみると、あきらかにひとつの流れが見て取れる。
男性が女性の手を引く図から、ともに手を携えて進んでいく図へ。
「保護する―仕える」関係から、「お互いにベストを尽くす」関係へ。
松坂氏・氷川氏が支持された時期を画期として、男女の関係は急速に民主化をはじめたのである。

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1月16日

コミュニケーション雑感

現代に生きる私達は様々なコミュニケーション手段を持っている。
それらはおおむね「対面の系統」「手紙の系統」「第3」に分類されると思う。

「対面の系統」コミュニケーションは聴覚が主体だ。(手話はこの限りではない。)
相手の表情、電話なら声色が補助になり、即時の修正が可能になる。
話が不穏な方向に転がっていくのを避け、楽しくコミュニケートするためには、場の空気を読むことが大事だ。
ぼけに対して即座に突っ込める人には、最適なコミュニケーション手段である。
ただし、そのような即時の対応が求められるため、「それを言ってはいけない」言葉が飛び出すことがある。
もう修正は利かない。
戦争を避ける道はただ一つ。
ひたすらに謝り続けることである。
また、ワンテンポ遅れがちな人にも苦手かも知れない。

ワンテンポ遅れがちな人にとって救いなのは、「手紙の系統」コミュニケーション手段も現代においては相当スピードアップされたことだ。
メールならば、ある程度のテンポで、視覚頼りのコミュニケーションができる。
じっくり考えることが苦にならない人には、最適なコミュニケーション手段である。
ただし、こまめな修正は不可能である。
1通のメールが相手をひどく怒らせることもある。
たいていの場合、説明不足である。
ことに相手が自らの思いこみを絶対に訂正しないいわゆる「頑固」な人柄ならば、最悪のコミュニケーション手段といえる。

そこで、私達は自分の個性、相手の個性、話の内容などによって、対面系統と手紙系統を使い分けている。

また、行動半径以上のコミュニケーション範囲をもつことができるネット世代には、もうひとつの系統がある。
掲示板・web拍手・チャットといった融合型のコミュニケーション手段である。
融合型なのだから、双方の利点と欠点を持っている。
それだけではなく、これら新しいタイプのコミュニケーション手段は、発信のための障壁がひどく低い―とんでもなく気軽なのだ。

私はながらく、コミュニケーションの問題とはこれら手段の選択が不適切な場合に起こると考えていた。
しかし、ことはそのような軽いものではないらしい。
近年は「嫌いな人物にご馳走になった時お礼を言うか否か」が論争になるというのだ。
お礼を言うに決まっているではないか。
今後も交際するつもりがあれば奢り返し、そうでなければ口頭で謝意を伝える――常識である。
謝意とはご馳走になった事実に対して為されるものであり、相手に対する好悪の感情とは無関係だ。
未熟な人間なら、事実と感情が一緒くたになって、当然のお礼やお詫びができないということもあるだろう。
だからこそ人間の文化の中で、お礼やお詫びの紋切り型の言葉や形が発達しているのだ。

近年は定型の言葉すら使いこなせない未熟な人間が、最も扱いの難しい第3のコミュニケーション手段に手を出す。
何も考えずに気軽に使おうとする。
あちこちでトラブルが発生するのも当然である。


大雑把に「対面系統」「手紙系統」「第3」とわけました。すべてのコミュニケーション手段の中で、その情報量においても質においても、対面がベストであることは申すまでもありません。
ベストな方法なんだけど、利点を活かさない使い方(自分の主張をするだけで対話になっていない)もよく見受けられるようになりました。

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1月6日

出会えて良かったね

我が家では今だけ卵にほんの少しの贅沢をしている。

昨年秋、次々と台風が来襲し、野菜の価格が高騰した。
引きずられるように卵の値段も跳ね上がった。
しばらくは、値上がった中でももっとも安いものを買っていたが、主人が提案した。
「あんまり値段が変わらないから、今は健康卵を買う人が多いよ」
スーパーで見比べる。
いつもの卵が230円、健康卵が280円。
確かにこれなら試してみる価値はある。

1〜2割の違いなら健康卵を買う、という選択には納得した。
卵の力が違う。
殻の厚さはよく指摘されるが、卵黄卵白の張力も違う。
調理する時の楽しさが違ってくる。

値段が戻っても、余裕が欲しい時に健康卵を選ぶのもいいかも知れないと思った。
勿論、ダブルインカムが確保できていれば、という前提で。

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1月3日

良い時期

適切な時期に、適切なトレーニングをする――
これがきちんとできているのは、やはりスポーツにおいてだと思う。
おおむね小学校時代は神経が発達する時期だから、様々なスポーツに親しませる。
筋肉が発達する時期になるまで本格的なトレーニングを待つ、ということが、ごく普通に行われている。
かつて涙を誘った『巨人の星』。
主題は、主人公星飛雄馬君のひたむきな生き方にあったのだが、意外にもスポーツ科学に沿った主張もなされている。
非凡な才能を持ちながら、飛雄馬君の投手生命はわずか19歳で終わってしまうのだ。
(続編は右腕で投げていたが、やはりあのドラマは彼が19歳の時点で終わったのだと思う。)
種目によって差異はあるものの、おおむね人間が最高の肉体パフォーマンスを発揮するのが20代後半から30歳を少し過ぎたあたりであることを考えると、19歳でのエンドは残酷である。
スポーツ科学を無視し、適切でない時期に不適切なトレーニングを強要した星一徹が、その責を問われるべきである。

さて、星父子に比べればあまりに卑俗だが、小学校の芸術科目についても一言。
芸術に親しむことは大事なのだが、評価まで必要なのだろうか。
私自身はれっきとした右利きなのだが、お習字が何より苦手だった。
一番最初の学習課題が「悪い例」として黒板に貼り出されたからである。(晒されたのだ。)
ふざけて書いたのならまだ納得がいくが、それでも真面目に取り組んだ結果である。
以来、お習字からは逃げ回った。
冬休みの宿題「書き初め」は友人に書いてもらった。
高校での芸術科目は選択制だったので音楽を選んだ。
音楽を愛していたのではない。
作品という証拠が残らないから、という後ろ向きな理由であった。

その後、縁あって高校に勤めた。
書道の先生とも親しく話す機会ができた。
「達筆というのは羨ましいですね」私は本心から言った。
書道の先生は書類の私の字を見て、「いい手をしてますから、今からでも習えば上手になりますよ」。
お世辞が入っているにしても、「今からでも習えば」というのには驚いた。
そして、小学校ではなく、30歳でお習字に出会っていれば、書道が好きになっていたかも知れないと思った。

子ども時代に芸術に親しむことは重要である。
小学校時代は、さまざまな芸術に触れ、楽しいと感じる時期なのではないだろうか。

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1月1日

不易と流行語大賞

ある時に巡り会って、それがその時だけで過ぎてしまう言葉があります。
それらは時代の空気をよく映したものと言えます。
いつまでも心の中に残って、折に触れ、私を励ましたり戒めたりしてくれる言葉もあります。 物事の本質を言い当てているものと並んで、きわめて個人的な言葉も流行では終わりません。

2004年一番印象深かった言葉は、何と言っても競輪解説者工藤元司郎氏の名言「選手に自分の思いを押しつけちゃいけねぇよ」です。(2004年6月)
私にとっては流行ではなく不易。
肝に銘じておきたいものです。
この言葉などは物事の本質を言い当てたものと言えるでしょう。

きわめて個人的な言葉は「あなたには本当に弱い人の気持ちなんか分からない」です。
私は高校卒業後に一旦就職しました。
当時の普通の家庭では、男の子であれば偏差値で最終学歴が決まりましたが、女の子の場合はもう一つの要素がありました。
兄弟の数です。
おおむね、ひとりっこか姉妹しかいなければ四年制大学、兄弟が1人なら短期大学、2人以上いれば高校で終了となりました。
ところが、若い男性にはそれが分からないので、「大学に進学できなかった女の子=低学力」と見なし、見下してかかるわけです。
そうした事情がありましたから、高卒女子の仲間は私の進学を我が事のように喜んでくれました。
退職の挨拶に回ってる時に仲間のひとりからいただいた言葉がそれです。
言われた通りだと思いました。
私は理不尽な扱いに対して、声でも反抗できるし、実力でも反抗できたのですから、「たまたま弱い立場にいた強い人」だったのでしょう。

この言葉を私にくれた彼女も実は強い女性だったと思います。
是非活躍して欲しい人の一人です。

ところで、最近気にかかるのが、国立大学の入学金や授業料です。
私は男女雇用機会均等法施行以前の高卒女子労働者だったのですが、それらのお金を貯めることができました。
国立大学の授業料などの値上げは、敗者復活戦のチャンスを狭めていることなのです。
「負ける」機会が圧倒的に多くなってしまったバブル以降の日本社会では、敗者復活戦の機会を増やすことが肝要だと思うのですが。



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