[ 「世界に一つだけの花」   「たまには若者の味方を」   「文理の壁」   男女の違いはね…   性「器」教育の是非を巡る論?争を読んでみました   「理数系、大嫌い」なんて悲しいことを、自慢げに言わなくても…… ]


1月29日

管理主義の命綱は危険

国会議員の某氏の「学歴詐称」問題が話題になっています。
自分の学歴に関して自己管理するのが当たり前で、そこに悪意が在ろうと無かろうと、有権者に虚偽の情報を与えたことには違いないと言います。
私は、政治家としての経歴は問うけれど、履歴書に書かれるような経歴はあまり問題にしないで選挙に行くので、常々候補者に関する情報の在り方に疑問を持っているのですが、それは別の機会に書くことにします。
さて、「学歴詐称」問題です。
勿論、私も自己管理が当たり前という意見に賛成なのです。
しかし、普段の生活からして、その意見が奇異に感じることがあります。

中高生が電車の中で化粧しているのが、かなりよく見られる光景になりました。たまたまつけたテレビの画面、芸能人が息巻いて言いました。
「放課後は高校教師が下校指導をすべきだ」
中高生自身に問いかけることは考慮の外。とにかく、学校側が取り締まるべきだという発想です。
成人式で新成人が大暴れ。
「親の顔が見たい」
新成人自身の意識もさることながら、まだ「親がかりが当然」といわんばかりです。
日本の刑法が、どこかの国のように、子の罪科に対して親が刑事責任を問われる法律だったら?……怖すぎて、想像したくない……。

未成年者や若者ばかりではありません。
年輩のご婦人方が、自分の子どもがいかに「親不孝」であるか、相手(同年代)に訴えていることがあります。
聞くともなしに聞いていると、「親不孝」の内容は「結婚に際して、親の希望よりも本人の希望を優先した」ことであり、しかもその「子ども」というのが30になんなんとする立派な大人をさしていたりします。

普段の生活がこういう調子ですから、よく行くドーナツ店で、社員らしき人が高校生アルバイトに
「お客さんが最も得になるように計算して」
と指導しているのを目撃したときは、感激してしまいました。
高校生に臨機応変を要求するのは当たり前のことではないのです。
別の店では、アルバイト達はきっちりマニュアル通り働いています。
ツッコミを入れたら、無視されました。

一方では、自分の言動にすら責任を負う必要のない人たちがいます。
もう一方では、その人達の管理を問われる人たちがいます。
「自分の言動に対してのみ責任を負う」という場面はきわめて限られているのです。
この管理主義のカラクリが、社会福祉とは全く異質の命綱として機能しています。
だからこそ私達は、成功もない代わりに失敗も少ない人生を送ることができます。
ただ、この命綱、補強されすぎてはいないか、とても不安なんですけど。
命綱があちこちで絡まったら、自分の足で自分自身の人生を歩むのにも困難を生じますから。
また、命綱に頼りすぎて、歩き方がよく分からないまま、子どもの責任を問われる側(親)になってしまった人がいます。
自分で自分の責任をとったこともなく、何かをしたら「いけない」と親や教師に叱られて、反発だけしていれば良かったのです。
いきなり「親なんだから子どもの責任を取れ」と言われても、とまどいますよね。

アメリカの大学では「このままでは卒業できませんよ」なんて指導はしてくれない、日本の大学とは違うことが分かりました。
日本でも「学生の出席や成績に関して大学側が手取り足取り指導してくれることはない」方向に変わっていくでしょう。
国会議員になる(管理責任の重い)人は自己管理で卒業単位を計算すべきだが、一般の人は関係ないと考えられてしまうと、この問題は全く教訓になりません。
「日本の大学は相変わらず手取り足取り方式で若者の管理をすべきだ。そうしてくれないアメリカに行った方が悪い。彼の責任だけ問えば後は忘れてしまう」などという決着にはならなければいいのですが。
同様に、成人式の進行を妨げられないように、親や地域の中学高校教員も出席して監視するなどという、世にも恥曝しな成人式が出現することなんかないと信じたいですね。


今回すぐに反響を頂きました。あんまり嬉しいので、追記を書いてしまいます。
反響の内容は、「自分の言動にすら責任を負う必要のない人たち」への怒りでした。
もう少し正確に言うと、自分の言動に責任を負わなくて良い(そうしなければならないのは「家長」「長男」だけである)と信じている、年輩者への怒りでした。
「しきたりに従うだけではなく、自分の頭で考えて行動する」「自分の選択した言動に責任をもつ」というトレーニングを一切受けないまま、年齢を重ねてしまったのですものね。
女性に限らず(でも、同性として悲しいことに、やはり女性の方が多いのですが)、何か事件が起きると、
「若者はたるんでいるから、もっと管理を厳しく」「厳罰にすれば、すべて解決」
という主張しかしない人々でもありますね。
管理主義以外の発想がないのでしょう。
副作用で苦しんでいる患者に、もっと純度を高くした薬を大量に投与し続けているようなものです。
     (2004.1.30)


1月27日

「世界に一つだけの花」

SMAPのあの歌です。いい歌ですね。大好きです。
親しみやすく、アーティストの雰囲気にあった曲調もさることながら、何よりメッセージがいい。
いろいろな場面でテーマソングとして使われているのも納得です。

一人ひとりがかけがえのない個人。学校では「個人の尊厳」という難しい言葉で教わりました。
大切なのは、個々のアイデンティティなのです。
当たり前のことなのですが、それが当たり前だと認識されなかった時代や場所がありましたね。
全面的に「個」を認めないというのではありません。ある場面、ある人間集団、ある年齢階層、……に限って認めないというやり方です。
「個」を認めない場面、あるいは集団の中では、他との比較においてのみ自己を認識する以外になくなってしまいます。

たとえば、親への反抗の表現として非行に走る青少年が未だにいるのです。
あなた自身が本当にやりたいことはそれなのですか? という問いに真摯に答えてくれるでしょうか?
たとえば、「××だから」「△△の分際で」を大切にして、他人をもそれで規定しようとする人々もいます。
彼らの本音は「自分も耐えたのだから、若い人たちも我慢すべきだ」ということらしいのですが、本当にそれが彼らの願いなのでしょうか?
それらは、自己も他者も相対的にしか捉えていません。

他との比較において自己を認識するのは、とても容易いやり方です。
人間を比較してグラフを描き出すためのパラメータには事欠きませんから、綺麗に序列化されたデータを見れば済むのです。それで文句を言われた試しもないでしょう。
それに引き替え、自己を「only one」と認識し、「私は何者であるか」「私の本当の願いは何か」などと、自身に問いかけ続けるのは辛い作業でしょう。
バラバラのデータに意味づけを行い、分析していくという作業を最初からやらなければなりません。
その当然の帰結として、精一杯咲いている自分という花も、隣で咲いている家族や友人も、地球の裏側で四苦八苦しながら咲いている花々も、それぞれが「only one」であるとはっきり認識しなければならないのです。

しかし、相対的な認識は、容易くはあるけれど、少しでも他者より優位に立ちたいという欲望をかきたてます。
「優位に立つことが幸せなのだ」という理解をするのです。
そして、そこから抜け出すことは大変困難です。
「私は何者であるか」「私の本当の願いは何か」の問いかけは、個々が幸せに棲み分けるためには有効な方法だと思います。
「number one」にはならなくていい、それぞれが「only one」だというのですから、「respect yourself」ですね。

さて、とても感動したこの歌なのですが、別の意見も紹介しておきましょう。
「究極のミーイズム。滅私奉公の時代が終わって、滅公奉私となって久しいが、この時代らしい価値観である。自分自身が精一杯咲くことに重きが置かれ、他者の有り様を認めることに及んでいない」
「花屋に並んだ段階で選ばれた人々をさす。選ばれた人々の有り様は個性だが、選ばれなかった野辺の花は問題外である」
「反戦歌である」
様々な解釈が出てくるのはやはり名曲? 私の意見は素直(単純)すぎるでしょうか?


1月21日

「たまには若者の味方を」

今年の成人の日も、いろいろあったようです。
勿論、私も「最近の若者」に眉を顰めることがあります。
しかし、今回は若者の味方をしてみたいと思います。

まず。若い女性は素晴らしい。
私達の世代と言えば、「男性だけが体を動かせばいい」と思い込んでいます。

私の大学時代、実習の試料の準備や片付けをするメンバーが固定していました。
全員女子校出身でした。
男女共学の経験しかない学生達は、自分がモノを運ぶという発想はなかった様子です。
コーラスサークルにいた友人も似た経験をしています。
「ピアノを運ぼう」という声がかかると、立ち上がるのは男子学生と女子校出身者だったそうです。
共学出身の女子学生は無視してお喋りに興じていたらしいのですが、しっかり聞こえていて、練習の時は大変真面目であったと言います。

15年前から5年前、私はある高校のバザーのお手伝いをしました。
当時その高校は、男女共学のコースと女子だけのコースがありました。
米を運んでいた私に「手伝いましょう」と声を掛けてきてくれたのは、男子生徒の父親と、女子のみのコースに在籍する生徒達でした。
父親達は、無意識でしょうが、息子に紳士としての在り方を示していました。当時の少年達も今は30代前半、きっと素敵な男性に成長していることでしょう。
また、女子生徒達は普段の生活の中で、「女であっても、自分の力の及ぶことはやる」という態度が身に付いていました。
使う男子が居ませんからね。

それが、数年で、変わっていったのです。
男女共学コースに在籍している女子生徒も「手伝う」と申し出てくるようになったのです。
近くに男子が居るのに、自分の力でできることをやろうというのです。
私達の世代では「出しゃばり」と言いました。
若い女性は「エラーイ」と言います。
これからは、男女共学の経験しかなくても、力を尽くすことのできる女性が、ごく普通に出てくるのではないでしょうか。

差別意識も随分克服されました。
私が子どもの頃は、在日の子と仲良くすると親に叱られるということが、本当にありました。
また、いい年した立派な社会人が、在日の人に理不尽な嫌がらせをしてみたり、そんな恥ずかしい行為を周囲の人が(やはり立派な大人であるに拘わらず)、当然視する光景も実際にありました。
若者達は、そのような中高年の存在を「信じられない」と言ってくれます。
まだまだ、障碍者などに対しては根強い差別意識があるのですが、民族差別に関しては中高年よりもずっと自由です。

若者達よ。
中高年の苦言にふくれてばかりでなく、たまには理路整然と中高年に苦言を呈していらっしゃい。
この人生80年時代に、40、50や60の人に「未来のことは若者がやる」とのほほんとしていられても困ります。
折り返しからが長いのです。
中高年といえど、時代遅れの意識はどんどん改めさせるべきです。


1月19日

「文理の壁」

いつもは威張って言います。
「文系・理系なんて幻想だよ。科学史とか、経済学とか、地理学とか、境界領域にあるものがたくさんあるんだよ」
更に、女性の理系は珍しいなどと言われた日には、17世紀には女性に最も相応しい学問は数学だと考えられていたことを挙げ、
「権力を持つ層の都合といって悪ければ、単なるムードか言いがかりだね」
と結論付けるのです。
実際、私はそう信じていますし、まして脳梁が太い女性型の脳の持ち主ならば、きっぱり「タイプ」が決まって堪るものかと思います。

しかし、現実には「これは文理の壁?」と思い当たってしまう出来事に、直面することもあります。

最初は高校3年生の時でした。
国語の先生(とてもスタイリッシュで私達の憧れでした)が、ある時私達のクラスで
「理系の子って幼いねえ」
としみじみ仰るのです。
文系コースを履修している同級生達に比べて、どこがどう幼いのか、その時の私達には分かりませんでした。
ところが、30代も半ばを大幅に過ぎて、NHK教育の「愉快なシーバー家」を子どもと観ていて、ハッと分かったのです。
高校2年で履修した、夏目漱石の『こころ』ってこういうこと?
同年代の国語の先生に聞いてみますと、
「分かって良かったね」
と褒められました。
文系コースの友人達は高校2年生で既に分かったのでしょうか。
私がバカなのでしょうか? 私の高3のクラスメートがたまたま幼稚揃いだったのでしょうか?
それとも、文理の壁?

外出先で娘が新しい玩具をねだりました。
ビニール製のボールの中に発砲ビーズが封入してあって、静電気の作用でボールの内側に張り付いています。
大人が見ていても飽きません。早速購入して帰りました。
帰りの電車の中、発砲ビーズには白と青の2種類があったのですが、青が有意に多くくっついています。
「青い方がくっつきやすいね」と主人。
「分子中に金属原子が入ってるんじゃないかな」と私。
色が付いているということは、補色の波長帯を吸収するということですから、二重結合がたくさんあったり金属原子が入っていたりするのです。
「普通はそういうことは言わない」
主人に子どもをたしなめるように言われてしまいました。
私が特別に幼いだけでしょうか?

詩が分かりません。
中島みゆきさんの大ファンである友人に「いいよ」と紹介して貰った歌の数々、正直な感想を述べたら怒られてしまいました。
寛容な彼女はその都度許してくれましたが、もう「お勧め」は教えてくれません。
自分でも駄文を書き散らしているくらいですから、小説サイトは大好きでよく見に行きます。
とても綺麗な日本語で、小説も書けるし、詩または詩的な散文も書けるという方々もいます。
「綺麗だな」とは思うのですが、難しすぎてよく分からないのです。
他の方の感想を読んで「そうなのか……」と唸るのですが。
私の理解力が無いというだけのことでしょうか?

やっぱりあるのかなあ、「文理の壁」。


1月14日

男女の違いはね…

先日、中学3年生の男の子に「男女の違いとはなんぞや」ということを聞かれました。
いいものですよね。高齢の方に、私達が知らない昔のことを聞くのも楽しいし、有望な若者との論争も本当に楽しいものです。

私の答えは「2%のタンパク質である」です。
私のようにセックスの部分を答えるやり方もあれば、ジェンダーについて語るやり方もあります。
ただ、相手が若者ですから、普遍的な答えの方がより相応しいと思われたのです。

もっとも、その後の展開は私が教える部分が多くなってしまって、論争にならなかったのですが。(彼としては楽しんでくれたように思いますので、無駄ではありませんでした。)

男女の違いは勿論、性染色体の違いです。
Xに比べてYは小さいので、受精卵のタンパク質量が2%程違ってきます。
逆に言うと、それだけ軽いので、精子の機動性がよく、男の子になる受精卵ができやすいのです。
ただし、流産の率も男の子の方がグッと高いので、新生児の性比はほんの5%前後の違いでしかありません。

脳の差異は別の作用です。
チンパンジーの子どもでも、女の子の方が「お勉強」に関心が高く、男の子は外遊びが大好きなのだそうです。ヒトも同じでしょうか?
しかし、性染色体と男性型(女性型)の脳とが一致するとは限りません。
さらに、一次性徴もまた別の作用ですので、やはり一致するとも限りません。
だから、オリンピックはじめ主要なスポーツの大会では、セックスチェックが行われます。

染色体については知っていましたが、それ以外は中学3年生には初耳だったのだそうです。
性は誰にとっても関心の高いテーマの一つです。
特に、中学生は、身体の変化が激しい時ですから、大人より一層関心が高いといえます。
この程度の科学的知識は必要でしょう。



性「器」教育の是非を巡る論?争を読んでみました

最初は「性教育」かと思ったのですが。
性教育論なら、やはりB・ラッセルの『結婚論』でしょう。論旨の明快なことと言い、論理の整合性と言い、名著と言えます。
1929年に出版されたこの本が未だに古臭さを感じさせません。ラッセルの先見性に驚嘆すると共に、75年経っても追いつけないお寒い性教育の現状にも驚嘆します。

75年経っても追いつけないのは、文科省が悪い所為ではありません。
子ども達が最初に触れる性の知識が、科学的なものであったり、思いやりに満ちた性愛であったりすることを許さない仕組みが、世の中には既にできあがっているからです。
子ども達は、何であれ性に関することは「みだら」で「猥褻」なのだと教えられます。
個性よりも個人の性別を重視する家庭ですと、DVの正当性を疑うことはないでしょう。
大人向けの、迷信に満ちあふれ、残虐な性行為を描いた読み物や映像は枚挙にいとまがありませんし、いくら隠したところでその存在はよく知られています。

こうした背景もあって、少なくとも『結婚論』が書かれた頃よりは「性的な事柄に関しては、人々、特に女性や子どもを人為的に無知にしておくべきだ」とする主張が減りました。
このような主張をする論も見かけますが、「ジェンダーフリーに反対だ」「性別分業は生物学的に正しいと言え」などの主張も織り交ぜられています。
ここまで来ますと「信念」であって、論争の余地はありません。
ですから、是非を問われているのは、性教育の在り方、内容についてであるようです。

あるようです……。
読んだのに、その曖昧な言い方は何だ? とお叱りを受けそうなのですが、すみません、私には両者共にその論旨がよく分からないのです。
性はみだらなのが好きだと、個人の趣向を熱く語っていたり、かと思うと、考え方の違う人間は集会に参加するなとか(公教育に関することなのに)記録を持ち出すなとか、無茶を言っていたりします。
ただ、もっとも多く語られているのが、性器の名称を教えるか否かでした。
「性は相手のあること、自慰であっても相手が想定されること」という認識はどちらにも無いようにお見受けしました。

公教育である以上、オープンであるべきです。
無知を賞賛する論調にまでは言及できませんが、広く意見を採り入れ、より良い手法に発展させていきたいものです。
子どもの発達段階、現代における性意識、家庭背景……。配慮が必要なことはたくさんあります。
性器の名称の教え方に関する罵り合いも結構ですが、できましたら、「自分の快楽」のみにスポットライトが当たり、相手の人格に対する考慮が為されない性意識についても、話し合ってみませんか。
勿論、論旨ははっきりさせてね。

ラッセル先生、カムバーック!


1月8日

「理数系、大嫌い」なんて悲しいことを、自慢げに言わなくても……

先日かかってきた1本の勧誘電話。電話に出たが最後、“かけ手の気が済むまで、受け手は強制的に拘束される”という怒りはさておいて、驚いたのはその内容でした。
商品はNaHCO3、これが洗剤になると言います。いや、洗剤の作り方くらい知ってます。TVの子ども番組でも紹介していましたね。ですが、「まあ、知らない人もいるのかも知れない」と思い、大人しく「ハイハイ」と言っていました。
次いで、化粧品になる、保湿効果が高く、お肌がツルツルになる、と続くのです。加水分解すればアルカリ性なんだから、それは角質が溶けているのであって、保湿効果とは違うでしょう。
これらは中学生レベルの知識です。指摘しても、無視されました。マニュアルかしら?
ただ、「要らない」という意思表示にあっさりひきさがってくれましたので、これなど良心的と言えます。

かなり以前の話ですが、浄水器の訪問販売は最高に可笑しかったのです。
水道水は煮沸して使うのが当然、「そのまま飲んでいる」という私に対して、「非常識な!」とばかりに目をむいてみせるというパフォーマンスを披露してくれました。
「沸騰させることもありますよ」(お茶を煎れる時はね。)
それを聞くと、セールスマン氏、工業系雑誌の記事のコピーを示します。日本語です。「珍しいな」と思ってみていますと、「沸騰させることによって、ハロゲン系有機化合物の濃度が高くなるから、浄水器を使うべきだ」と説明します。
「水道水中に含まれる有機不純物と塩素とが、熱エネルギーを得て化合する」というだけのことなのですが、勿論、セールスマン氏はそんな簡単な言い方はしません。
因みに、我が家の辺りの塩素濃度は、家庭用水質調査キットではtraceでしかありません。残留塩素濃度が非常に低いのです。(おいしい水をありがとうございます。)
ごくおだやかに「要らない」と言いましたが、セールスマン氏もしつこく食い下がります。最後には河内弁丸出しで、追い返しました。

こうしたあほらしい売り込みに、契約までしてしまう人は少ないのでしょうが、付き合わされた時間を返して欲しいものです。

勧誘電話にしても、訪問販売にしても、“一般市民は中高生レベルの自然科学の知識が皆無”だという前提で食い下がってきます。高校進学率が90%を越えて久しい、この日本で、です。
この“時間ドロボー”達の跋扈を許している一因に“(特に女性にとって)理数系科目を苦手とするのは誇らしいことである”という思いこみがあります。私のひがみでしょうか? 10代の頃、「数学と体育が嫌い」と胸を張る同級生の前で、その2つが好きだった私はいたたまれない思いでいたものです。
「野菜が嫌い」「この色が嫌い」等はニュートラルに、時には恥じらいをもって語られます。ところが、「数学が嫌い」「昆虫が嫌い」と言う人には、それらを好む人々を排斥し、社会的制裁を加えねば気が済まないと言わんばかりの勢いがあります。(私、思いっきりひがんでいます。でも、私が好きなのは昆虫ではなく、サルなのですが。)
“中高生レベルの自然科学の知識を持つ人は多い”という前提に立てば、また新たな商法が生まれるのでしょう。しかし、可能性を1つ潰しておくのは、善良な市民にとってメリットになります。
他人に迷惑を掛けるわけではない、個人の中で消化できる好き嫌いくらい、堂々と語るつもりです。

最後に一言。
私はダニくらいでは死にません。


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