F5バナー
[ おしゃれな地方都市 〜青森県弘前市〜 気配りのできる外国人 社会人じゃなければ「こんなことくらい」は知らない イジメの疑い ]

10月23日

イジメの疑い

この時期になると、登校拒否になった生徒を思い出す。
彼が表面に見える以上の辛い思いをしていたのではないかと感じているが、彼及び彼の両親、クラスメートの誰もがそれを強く否定した。
そうした中、私が産休に入り、入れ替わるように彼が復帰した。
要するに、担任が嫌だから学校を休んでいたのだ、ということに落ち着いた。
復学のきっかけになったのだし、それで丸く収まったのだから、構わないと言えば構わないのだが。

高校生にありがちな態度として、今にも体罰に走りそうな男性教諭にはよく従い、そうでない教諭には従わないということがある。
こうした傾向を大変肯定的に捉える大人も多い。
「うちの子は女の先生じゃダメだ、男の先生に替えてください」
「あんな大人しそうな先生じゃなく、もっと元気のいい先生が良い。学力なんてどうでもいいから」

学校としては、生徒を押さえつける能力にのみ着目して教員の採用をするというのも、ひとつの方法だ。
勿論、体罰が起きた時にどう対応するか、しっかりマニュアルを作り、安心して生徒指導してもらう工夫も必要である。
また、就職したいばかりに「やります」と言ってしまった教職志望者には、実際に教壇に立つ前に怒鳴りつける練習くらいはしておくように示唆すべきだろう。

これは「なんとなくあいつは怖い」と思わせるいじめっ子よりも、もっと怖い教員を配置しようとする発想である。
暴力を抑止する力は暴力又はそれを連想させる力というわけだ。
こうした考え方は現代の日本やアメリカでは大変に受け入れやすいものではないだろうか。

ところで、「なんとなくあいつは怖い」とはどういう内容なのだろう。
障害というものに関わるようになった現在、私は当時とは別のことを考えている。

一口に「障害」といっても、大まかに分けても身体・知的・精神の3種類がある。
一見して分からない知的障害や精神障害は実に多様である。
たとえば「自閉症」と聞いて「レインマン」を思い浮かべる人は、相当に理解があるのではないだろうか。
しかし、
健常の人には理解できない固有の拘りを持つ人が多いが、自閉症なら必ず何かしらの拘りがある――わけではない。
また、対人を苦手とする人が多いが、逆に人懐こくても「自閉」という人もいる。
「自閉症」にして「多動性症候群」というケースもある。

こうした障害の多様な特徴の中で、健常者にも見られるのではないかと思われるものがある。
たとえば、自傷衝動が止められない障害があるが、健常者にも似たことがありはすまいか。
自傷衝動のような特徴的な衝動でない場合は、もっと健常者に身近である。
性犯罪者は犯罪を繰り返しやすいと言われるが、彼らは性衝動をコントロールする力がきわめて弱いのだろう。
暴力の衝動を抑えられなかったら発作的な傷害事件を繰り返すだろう。
脳の発達において自己抑制はもっとも時間がかかるものだが、それでも19歳頃にはほぼ完成する。
そこに向かって少しずつ自己抑制力が付いていくのだが、中には発達がきわめてアンバランスな人がいて、それは必ずしも障害者ばかりではないのだ。

いじめっ子が「なんとなくあいつは怖い」というのは、年齢に不相応な自己抑制力の弱さが異常を感じさせるということではないか。
いじめっ子達が必ずしも身体が大きい子であったり力が強い子であるとは限らないことが傍証だと思うが、どうだろう。
もし、私の想像がそう外れたものでなければ、単なる「自分勝手な子」を押さえつけるという手法の他に、障害児への指導の手法を導入できないだろうか。

……現代の風潮とは全く合わないことを書いてしまった……。

△ page top

10月9日

社会人じゃなければ「こんなことくらい」は知らない

教員がしばしば忘れることがある。
身長が伸びても、声変わりをしていても、生意気なことを言っても、中高生は社会人ではない。
仕事に責任を持った経験はないのである。

教員は普段生徒が十分に余裕をもってできる課題しか出さない(他の教科の課題量が分からないからだ)。
そこで、生徒が十分責任を持って物事に取り組めるものと錯覚してしまう。
学校で要求しているレベルがどの程度であるか、すっかり忘れてしまうのだ。

ところが、時に生徒の手に負えないことがある。
生徒は〆切を過ぎても何も言わない。
教員が呼び出してみてはじめて、彼らが「できなかった」ことを知る。
「できないならできないと、どうして言ってこないんだ?」
安請け合いしないことは責任ある仕事の初歩中の初歩ではないか。
「………」
生徒は黙り込む、あるいは「すみません」かも知れない。

生徒の実情はこんなことだ。
最初は「できる」と思った。
実際にはできなかっただけのことだ。

「できない」という見通しが立った時点で申し出るべきである、それが責任というものだ―――
というのは、十分に社会人の経験を積んだ大人の常識である。
中高生の考え方はまるきり逆になる。
1度受けたのに、やっぱりできません、なんて無責任なことは言えない―――
かくして、何もやらないまま〆切を迎える。

小学生ならば見た目も子どもらしいから、教員が見誤ることも滅多にないだろうと思われる。
中高生ならでは喜悲劇であろう。

本当に中高生だけか?

私ごとではあるが、先日「できないならできないと言ってよ!」と怒ったことがある。
だが、よく考えれば、私はその時「できますか? 時間的な余裕はありますか?」と訊いてやらなかった。
相手は成人なのだが、社会人として自分の責任で仕事をしたことがない。
年齢は違っても、経験値は中高生とあまり変わるところはなかったのである。

そういえば、と思い当たった。
キャリアウーマンと専業主婦のいがみ合いは最近下火になってきたではないか。
いがみ合いの最盛期、妊娠(又は出産)を機に仕事を辞める女性が多かった。
そのため、「どうせ腰掛け」と責任を持とうとしない女性が多数存在した。
それどころか“「俺が責任取ってやるから頑張ってやれ」と言ってくれる男性上司”なるものを望むとんちんかんな似非キャリアウーマンまで現出する始末であった。
彼女達は「しょせん女はダメだ」を証明していた。
その状況下でも実力で偏見を黙らせた女性達がいた。

当時でも引きこもった男性はいたが、彼らは例外的存在とみなされていた。
普通のご近所づきあいの中では、男性に比べ女性の在り方の触れ幅は圧倒的に大きかったのだ。
現代では男女とも様々な在り方があることが知られている。(認められるかどうかは別。)
言い方を変えれば、年齢や性別による見込みが利きにくい時代なのである。

△ page top

10月4日

気配りのできる外国人

私の娘は電車とバスを乗り継いで通学している。
バスは座席に座れることが多いのだが、電車の方はたいてい立つことになる。
毎朝顔を合わせるので知り合いになった人も多い。
その中に聴覚障害者の若い女性がいる。

私達と彼女は乗り込むと、ドア付近に立っている人の間を縫って、中程に進む。
こちらは比較的空いていて、楽に立っていられるからである。
体力のある私と娘でも、高校生にもみくちゃにされて立っているのは、できるだけ避けたいと思う。
まして少々身体の弱い彼女はできることなら座りたいのだ。

幸い席が空くことがある。
その時、近くにいても座らず「ここにどうぞ」と手招きしてくれる人が2人いる。
英語を喋る黒人男性とスペイン語(だと思う)を喋る工員風の男性だ。

だが、そこで「最近の日本人はダメだ」と結論付けるのは早急である。
英語圏の人やスペイン語圏の人は、朝から電車の中でぼやーっとしていることがないからだ。
故国でそんなことをしたら、目的地に着く頃には何が無くなっているか分からない。
それに対して、多くの日本人は実際に被害にあった経験でもなければ、
たとえ寝ていても最悪乗り過ごすだけだと思っている。
つまり、現代日本人は周囲に目を配る頻度が圧倒的に低いのである。
(犯罪発生率が現代の数倍に及ぶという昭和30年代の日本人なら、英語圏やスペイン語圏の人に近いかも知れない。)

このような状態なので、朝6時半から8時半の間だけ車両を増結できないものかと、ぼんやり考えている。
もし、常に乗車率100%付近にできれば、次の3点の効果が期待できる。

@身障者や高齢者が座れる確率が高くなる。

Aドアにへばりつく人が減る。
いち早く降りたいという利己的効率優先主義の表現なので、公共心が強ければやらない。
そうした意味で、へばりつく利己主義者が中高生に多く、大人に少ないのは喜ばしいことだ。(人間が加齢と共に上等になっていくと考えられるからだ。)
普通の人の公共心の強さは、混雑の度合いと負の相関関係にある。
その証拠に、余裕を持って降りられる夕方の電車には、最初からへばりついている人はいない。

B混雑に嫌気が差し電車離れを起こす人を減少させるので、JRの収益が上がる。

良いことずくめに思える。
もしかしたら「気配り」の上位が外国人に独占されている現状を打開できるかも知れない。
技術革新を待とう。

△ page top

10月2日

おしゃれな地方都市 〜青森県弘前市〜

先月下旬、主人の遅い夏休みに弘前を旅行してきた。
弘前は2回目。以前訪ねた時も、おしゃれな街だと感心した。

街の至る所に喫茶店や洋菓子店があり、それが街の個性となっている。
近年、多くの地方都市がその個性を失い、巨大な田舎と化している。
私も友人とお茶を飲む時に、全国にチェーン展開しているファミリーレストランに入ることが多い。
私が住んでいる地域には喫茶店がほとんど残っていないのである。
運営のすべてが個人のセンスに任された喫茶店などが生き残って行くには、私達のような観光客が入るだけでは不十分だ。
地域住民の支持が不可欠である。
それが、納得できる価格でのサービスに結びついている。

「物価の差が観光客に『案外高くない』という印象を与えるのではないか」という反論があるかも知れないので、一言添えておく。
弘前の物価は決して安くない。(地価は差があった。)
スーパーで見た限りでは、野菜の値段はほぼ同じ、食パンはむしろ高かった。

多くの地方都市が個性を失っていった背景には、モータリゼーションのコントロールに失敗したことがあげられる。
鉄道の駅を中心に発達した街の中心部は、道路舗装もいち早く行われ、集積度を増していった。
しかし、やがて渋滞の問題が生まれた。
集積度の高い街の中心部では十分な駐車場を用意できないこと、
高くなった地価がなかなか下がらないこと、
古くから道路が整備されたことが却ってアダになり道路が狭く渋滞が解消される見込みがないこと
……から、街の中心部は衰退し、郊外型のスーパーが栄えるようになった。
郊外型スーパーはしばしば全国にチェーン展開している大資本である。
スーパーの戦略として「その地方の特徴に合わせる」「全国一律のサービスを提供する」のどちらも採用しうるが、長らく後者が採用されてきたように思える。

街の集積度が下がり分散化に向かうと、街の個性も失われると言えそうだ。
自然に任せておくと、スプロール化したのに地価が高いままの市街地ができてしまう。
そこで、弘前市では「乗換OKの100円循環バスが10分間隔で走る」という戦略に出た。
自家用車よりもあきらかに便利で安価な公共交通を提供すれば、渋滞の問題が解消される。
平成7年あたりをピークに、全国平均よりも早く人口減少が始まっている弘前には相当な負担だったはずなのに、このバスは今年も10分間隔で走っていた。

さらに、今回旅行して「おしゃれ」を維持している理由をもう一つ発見した。

弘前には「重要伝統的建造物群保存地区」という区域がある。
歩いてみると、何と言うことのない住宅地である。
その中にところどころ江戸時代の門扉がある。
門扉の中には車が停まっており、その後ろにあるのはまごうことなく現代建築のすまいである。

「せっかくの江戸時代の門扉なのに、現代建築の家や車があっては興ざめだ」という意見もあるかもしれない。
だが、私は弘前市民の合理的な判断に賛成する。

人が生活してこその街ではないか。
自然環境や文化財の保護と、現実にそこに住む人の利便性。
どこかで折り合いを付け、妥協をしていくものである。
将来も見据えて、最適な妥協点、最上と思われる状態を探りながら、私達は地域を作っているのだ。

21世紀を生きている人間が21世紀の住宅に住むのは当然のことだ。
しかし、門扉には住んでいるわけではない。
生活には支障のない門扉を街の財産として保存する。
維持費用もかかるが、街の潤いを優先しているのだ。
この心意気が「おしゃれ」につながっているのだろう。

とはいえ、弘前駅前にも空き地があり、衰退をくい止めるのは至難の業という印象も受けた。
弘前には頑張っておしゃれな街としてあり続けてほしいものである。
と同時に、……我が町もおしゃれになって欲しいなあ。

△ page top


過去「言いたい放題」へ

homelinkmail

inserted by FC2 system