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[ 多数派要注意 反抗期 イジメの技術 ]

3月22日

イジメの技術

どうやらヨーロッパでは侮辱を「言論の自由」と言い換えることが流行しているらしい。
彼らに本当に侮辱の自覚がないのか、理解の上でのはったりなのかは分からない、
しかし、これが日本の子ども達に技術導入されやしないかと懸念している。

それでなくても、日本の子どもには理性的な想像力が欠如している。
「バイキン」あたりがポピュラーだろうか、屈辱的な呼称を決め、仲間内で徹底してその呼称を使う。
名目はニックネームだが、ターゲットを執拗に侮辱する効果は十分承知している。
ターゲットからの反撃を封じるために、ターゲットを孤立させるのが常套手段だ。
あるいは仲間を増やすために、仲間ではない人間にもその呼称を使うように求める。
普通に固有名詞を使おうとする人物には「おかたくて感じが悪い子」「ノリが悪いつまらない子」といって非難する。
さらに「イジメは良くないと…思うよ」などと意見しようものなら、新しいターゲットになってしまう。
「みんなで楽しく遊んでるだけなのに、まるでイジメをやってるみたいなこと言って、あいつは大袈裟だ。酷い!」
攻撃者にとっては、自分こそただの遊びをイジメだと言われて濡れ衣を着せられた被害者であり、意見した子が加害者なのである。
孤立させられたターゲットが大人に相談に行けば、ターゲットは子どもの世界のルールを破った卑怯者である。
いたたまれなくなったターゲットが転校でもしようものなら、大人向けには「楽しく遊んでいたのに。でも、そんなにいやだったら言ってくれれば良かった」と項垂れてみせるが、仲間内で集まれば「卑怯者が逃げた」「覚えてろよ」と復讐を誓うのだ。
子どもにとって、人権は強者だけのものであり、それはどこまでも拡大する。
強者は弱者を侮辱する「言論の自由」があり、弱者の抗議は「大袈裟」で「ヒステリック」なのである。

さて、国際政治の舞台では、嫌がらせを正当化する方法を示してしまった。
全国の大人は理論武装しておかなくては。
(もっとも、侮辱が何故悪いのか分からない大人もいるようで、不安。)

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3月10日

反抗期

障害を持つ子どもの親に聞いた話の中で一番驚いたのは反抗期の話である。
知能が幼児並みの子どもであっても(実際には幼児並みでバランスが取れた子は少なく、特定の能力が抜きん出ていたりする)、小学校高学年から高校にかけてきっちり「第二反抗期」が来るのだという。
「反抗とは人間的な知能の働きだ」と信じていた私は混乱した。
バブル期の少年犯罪といえば「普通の子だった(しばしば素直なよい子だった)のに、信じられない!」というコメントがよく聞かれたものだった。
その後に続くのは決まって、反抗を抑制する「素直なよい子」はダメで「精神が育ってきた段階に合わせた反抗が必要」という説明であった。
TVのコメンテーターや専門家はそう言っていたし、私達も「然り」と頷いたのである。

ところが、目の前に投げ出されてきた事実は、反抗期は知能の状態に拘わらず暦年齢に合わせて出現するということだ。
私達が「常識」だと思っていたことと事実とが食い違いを見せた時、対処する方法はいくつかある。

事実の方を「障害児に現れたのは偽りの反抗期であり、真の反抗期は精神年齢が10代前期から中期相当に達した時に出現する」と解釈する方法がある。
しかしながら、この方法は私の好みではない。
これでは先に挙げたバブル期の少年犯罪の典型と食い違うもの(たとえば存分に反抗してきた子どもが犯罪を犯した時)にも同じ解釈が使えるからだ。
それは偽りの反抗期であり、真の反抗は抑制されていたのだ、と。
おそらく親は「冗談じゃない!」と叫ぶだろう。
親子のバトルは現実であり、とても偽りに苦しんできたとは思えないからだ。
自分の「常識」を守るために、他人の苦悩を贋者呼ばわりしたくない。

その他の折り合いの付け方としては「例外だ」ということにしておく方法。
確かに障害児は多数派には成り得ないし、犯罪にまで走ってしまう子はもっと少数だろう。
しかし、「常識」に反するおびただしい事実(少なくとも小学校高学年以上の親たちが口を揃えた)をすべて「例外」にしていては何の説明にもならない。

そこで、「常識」の方はスッパリと諦めることにした。
反抗期と人間的な知能の発達は別のものなのだ。
ただ一般的な子どもが自分探しをはじめる時期に出てくるので、何らかの関係があるはずだと思い込んでしまったに過ぎない。
むしろキツネや鳥などと同じ「子別れ」の人間的表現なのだ。
野生動物では親がリードして子別れが行われるが、人間の場合親の側に踏ん切りがつかないことが多い。
そこで、ヒトの子ども達は「時間ですよ」と親に告げなければならない。

しかしながら、「常識」を諦めることによって、バブル期のコメンテーター達の発言は一層強化されることになる。
反抗期が成長する動物に共通する子別れの一形態ならば、「人間的な知能に相応する現象」よりも遙かにそれが抑制された時の弊害が大きいと考えられるからだ。

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3月1日

多数派要注意

昔の巨人ファンは酷かった。
プロ野球の話が出れば、相手も巨人ファンと決めつけ、散々私の贔屓球団のワルクチを並べたてる。
少々不機嫌な表情をしたくらいでは気が付かない。
こちらが「私、○○好きです!」とかなりキツイ調子で言って、初めて巨人ファン以外の人間も存在することに気が付くという有様だった。
(現代の巨人ファンはそんな失礼なことはしません。)

個人の楽しみから、学校や会社といった帰属意識の強いものに至るまで、集団は多数派と少数派に分かれてしまうものらしい。
個人はそれぞれの環境も能力も異なるのだから、各人意見がバラバラなのが本来の姿だと思うのだが、同じ意見がないことに不安を覚える人が多いのか、必ず「同じです」という表明をする人が出る。

この多数派は「みんな」「普通」分野によっては「王道」などと表現される。
少数派は2種類ある。
多数派から煙たがられ怖がられる強い少数派と、無視や揶揄の対象とされる弱い少数派である。

何につけ不利な立場に追いやられる弱い少数派を、いかに集団の中に入れるか、
集団全体を子どもっぽいイジメの構図に陥らせないようにするにはどうしたらいいのか、
知恵を絞るのは強い少数派のつとめである。
先に引いた昔の巨人ファンのように、多数派は無邪気なので知恵を絞るのには向いていない。
各地で、追いつめられた弱者が痛ましい事件を引き起こすが、その集団最強の人間が多数派に所属していたために悲劇を深刻なものにしたのではないかと思える。

実態のはっきりしない集団では、単に多数派と少数派がいるだけだ。
多数派でも核を為すメンバーは少数派とあまり変わらない人数だろう。
多くは「同じです」「××さんがそう言ってた」が根拠であり、多数だから正しいのだと思っている。
彼(女)らは自分自身の目で確かめようとは思わないので、誰かが言っていたことを鵜呑みにするし、それが問題を孕んだものではないかと疑うこともない。
たとえば、彼(女)らはしばしば特定の人物を蔑称で表現する。
仲間内だけではなく、人目に触れるところで堂々とやる。
しかも、仲間内ではない人間にまでその蔑称を使うように要請してくる。
本人に聞こえていないからと言って怨みもない人間を侮辱するのはごめんだ、
どうも私が滅多に多数派にならないのは相手の心証よりも自分の良心とプライドを優先する所為であろう。
しかし、同調してくれないのは単に「ノリが悪い」ことだと思っている彼らは、尊厳などという概念を持ち出されてきても、戸惑うだけだ。
思っても見なかった反応に合うと、彼らは嘆き悲しむ。
侮辱しているつもりはない、親愛の情だと逆ギレしてくる。
実際にそうなのだろう。
ただ、仲間内の調子を合わせることが何にも増して重要だというだけなのだ。

私が強い少数派である時は、孤独感にウンザリすることはあっても、自分にしかできないことが多いのだから頑張ろう。
万一弱い少数派になったら、大きな声を出すように心がけよう。(物理的で良い、その他大勢多数派は大声に弱いのだ。)
まかり間違って多数派の核になったら、仲良し集団のノリがメンバー外の誰かを侮辱したり非難したりする方向に向かわないよう覚悟をしよう。

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