[ 「食育」   日本人男性の「レディファースト」   「イラク派遣」について   公共交通機関愛用者として ]


2月20日

プチ・ソヴィエト

若い男性と「何時代が好きですか(興味がありますか)」という話をしていました。

彼が好きなのは、幕末から維新にかけての動乱の時代です。
志士たちが理想を掲げ、全力疾走した時代です。
黎明期の組織の魅力ですね。
一部の目覚めた人々ですが、進取の気にあふれ、ぐいぐいと時代を進ませようとします。
ほとんどの人はまだ「夜明け前」を生きているのに、彼らには朝日が見えるのです。
国家であれ、企業であれ、誕生したばかりの組織の活力は凄まじいものがあります。

私は、むしろ、その後の明治末期から大正期が好きです。
もっとずっと多くの人が新しい価値観を探り出していった時代です。
あの時代に維新期のような英雄はいませんが、無名の英雄が多く輩出されています。

幕末(ターニングポイントは何と言っても黒船来航でしょう)から明治後期まで、ほぼ50年。
この怒濤の50年に対応する時代を探すと、現代だと思っています。

江戸時代は先例を重視し、ゼロサム経済を前提としていました。
(私は江戸時代の政治家の中では田沼贔屓です。彼だけはこの価値観の呪縛から自由でした。)
黒船来航から50年、人々は進歩に価値を見いだし、拡大を良いものとして受け入れるようになりました。
明治末期から近年まで、進歩と拡大はたいへんに好ましいイメージを持ってきたのです。
しかし、現代人はそう無邪気に進歩と拡大を信奉していません。
ターニングポイントは石油ショックでした。
地球の資源が有限であることを、一般の人々までが思い知らされたあの時です。
以来、多様性と共存、遠い将来までも見越した計画に魅力を感じる人々が増え続けています。

石油ショック以前は単純な大量生産の時代でした。
大量消費とも言いますが、生産側がリードしてきた感があります。
そういえば、当時は「この春(秋)×色が流行する」などというキャッチコピーがありました。
流行を決めるのは、主体性を持ってその時代を生きる個々の消費者ではなく、主体性を持つ生産者でした。
消費者(当時は女性のみでしたが)は、ただその決定に従っていただけです。
ミニスカートが流行したならミニスカートを穿くのは義務のようなものでした。
(現代なら若者だけの話ですが、当時はいい年した大人までが同じ格好をしていたのです。)

こうして、大量生産から多様性へ、マクロケミカルからファインケミカルへ、単純な開発から持続可能な開発へ、第n次5カ年計画(生産者中心の経済)から「市場に聞け」(消費者中心の経済)へ、時代は移り変わってきました。
誰にも止めることはできません。

ところが、身を挺してブレーキをかけようとする人を、案外多く見かけます。
彼らは「市場に聞け」を拒否します。
大事なのは社内(生産者側)です。
彼にとって「ライバル」とは、同業他社ではなく、まして世界中の企業ではなく、同じ企業の中の同僚のことなのです。
究極の目標は、同期の誰よりも早く出世することだからです。
彼は新しい発想を拒否します。
万一会議でそんな提案が出たら、「君、それは理想論だよ」と言って潰すことを考えます。
大切なのは上役の感情であり、消費者の動向ではないのです。
消費者のニーズなど、平均的な同期の仲間より3000円多い月収に比べれば、ものの数ではありません。
ましてや、企業の不正をリークするなど、「一般市民としてならともかく、企業人としては失格」なのです。
でも、どうか、誤解しないで欲しい、彼は真面目です。必死なのです。頑張って働いています。
せっかくの働き者です、彼の方向性を変えてあげられる上役(最終的には経営者)がいてくれればよいのですが。

さて、某有名企業の社長(現会長)が「企業の業績が悪いのは、社員が働かないからだ」と発言しておられました。
素晴らしいと思いました。
その企業には方向を間違えた社員はいなくなったのでしょう。
方向を間違えた社員が一所懸命に働けば働くほど、市場に目を向けた社員は駆逐され、その企業の業績は悪くなります。
つまり、社長の発言は「我が社には社内しか見ない近視眼的な社員はいない。また、そうしむけるような経営をしている。社員が一所懸命に働けば、業績が伸びるようになっているのだから、安心して働きなさい」という意味ですね?
社員が一所懸命に働くことが即業績につながる素晴らしい企業が、万一業績不振になったなら、それは純粋に経営責任です。
経営責任以外にない状態にしてあるのです。
なんと天晴れな覚悟ではありませんか。

一方では、先日NHKで、ある企業が再建をめざすという番組を放映していました。
元カリスマバイヤーの藤巻氏が社長として招聘され、市場調査の重要性を説いていました。
この企業も早く立ち直るといいですね。

時代の変化に逆行して、あくまでも生産者中心の経済を維持しようとして、崩壊したといえば、旧ソヴィエト連邦。
変革の流れはますます速くなっている現代日本。
日本の企業がプチ・ソヴィエトと化すことなく、この明治維新以来の動乱期を乗り切ってくれることを切に願います。


2月13日

「食育」

   [ 食にもお上の指導? ]

近年、食の安全を脅かす事件が立て続けにおきています。
なかでもBSEは脅威ですよね。牛丼店で暴れた人もいるとか。
こうした中、自民党食育調査会が「食育基本法案」の骨子をまとめました。
2002年11月では
(1)交通安全運動のような国民運動を「食」の分野でも展開する
(2)地元の食材は地元で消費する「地産地消」や、「スローフード」のような産地の特色を生かした食品供給体制を確立する
(3)食のリスクに関する調査と情報提供の体制を確立する
そして、2003年2月では
(1)教育現場への指導教員の配置や農場実習の実施
(2)国や地方自治体とボランティアの連携
(3)食育関連のデータベース整備
とあります。こうした主張が盛り込まれて、今年の3月に議員立法をめざすということです。

   [ 栄養学のパラダイムシフト? ]

食育。
耳慣れないことばです。私は「ヒトの身体本来のありかたに沿った食事を考えること」と理解しました。
それは、動物の身体を機械的にとらえた(カロリー・栄養素といった細かいデータに着目した)現代栄養学へのアンチテーゼなのでしょう。
物理学のカリフォルニアムーブメントを思い起こしました。

栄養学版カリフォルニアムーブメントを教育現場に導入することには賛成です。

たとえばダイエット。
カロリーだけに着目してダイエットに踏みきった思春期少女達の危険(拒食・過食)はよく知られています。
ところで、私自身は全く逆の経験があります。
20代の頃、私の1日の摂取カロリーは3000kcalを軽く超えていました。それでも、体重はほぼ一定。体脂肪率もしばしば12%をきっていました。
さすがにこの体脂肪率にはぎくりとしましたが、何事もなく過ごしました。
当時の体重はちょうどベストタイムで走れる体重でした。
私の食事内容にかかわらず、体細胞の方で体脂肪を調整していたという感触を持っています。
身体はその生活様式にふさわしいものに作られます。
生活を変えずに摂取カロリーだけを落としたら、体細胞は「飢餓」の時と同じ反応をするでしょう。
筋肉量が減少し、体温が低下するのです。

また、地元の食材を食べようという主張には、感覚的に肯けます。
陰陽思想を持ち出すまでもなく、地元の食材はその人が生活する地域の気候・風土にあったものでしょう。

   [ サルマニアからもの申さん ]

ただ、ひとつだけ条件を付けたい。
やみくもに自然回帰をめざすのには反対です。
どこまで「日本人本来の食事」にさかのぼるか疑問だからです。
1日3食は江戸時代からですが、現代人はもう1日2食には耐えないと思います。
さらに、そうして得られたものが万能だとは限りません。
寿命の問題をあげましょう。
私達は「人生80年」といいますが(しかも、乳幼児期に亡くなってしまう人も計算に入れてのことです!)、この身体の代謝速度などが1万年前の人類と変わったわけではないのです。同じです。
乳幼児死亡率がまったく違いますから、平均寿命の比較はしないでおきましょう。
ただ、チンパンジーやゴリラが40年ほど生きるといいます。彼らの体重から考えて、ヒトもほぼ同じだと思います。
もしも野生状態で生きるなら、さまざまな病気や事故から運良くのがれたとして、生きる見込みはほぼ40年余です。
寿命の延びを善とするなら、自然の生活は万能ではありません。

「万能主義に陥らないなら」という条件を付けて、食育に賛成します。
小さな子ども達には、アメリカ式に「スローフード○、ファーストフード×」といった図式で教えることになるでしょう。
もっと大きくなったら、人間の進化の道すじとあわせて学習させてみてはどうでしょうか。
幸い日本人は進化学に抵抗感を持たない民族です。
キリスト教国やイスラム教国より、はるかに効果が上がると思うなあ。

   [ でも、お上に決められるのは嫌だよ。だって…… ]

このように「食育」に賛成している私なのですが、「食育基本法案」にはいくつか疑問点があります。
農場実習などは「それもいいなあ」などと思っています。
問題は「国民運動」の展開と、食の安全との関係です。

交通は純粋に社会的な機能です。人知によるコントロールも可能かも知れません。
それが「食」という自然的要素を多分に含むものにも可能でしょうか?
疑問です。

正直に言いますと、私は給食を強要されていやな思いをした子どもだったのです。
和食のおかずに、必ずパンと牛乳が付きました。
小学校の高学年ともなれば、パンは3枚です。
当時、給食は残してはならないものでした。
子ども達を班編制にして、連帯責任制を導入した教師もいました。もちろん、班の中で大食の子が小食の子を「手伝ってあげる」のは御法度です。片方は「もっと欲しい」と思いながら苛々し、もう片方は苦痛を覚えながら給食を胃の中に流し込みました。
給食がいじめの温床にもなりました。
今はずいぶん改善されたと聞いています。
私も我が子が楽しく食事をしているのが嬉しいのです。
幸い「時代の流れで仕方がない。昔は良かった」などと嘆く人にはお目にかかっていません。

そもそも、嗜好がからむ問題で別の重要な問題があるでしょう。
親ならば、可愛い我が子の眼前ににゅっと火の点いたタバコをつきだしてこられて、歩きタバコさんとケンカしたことはありませんか?
無意識なだけにタチが悪い。悪気がなければ許される問題ではありません。
未成年者の喫煙率も上昇の一途です。
タバコとファーストフードのどちらが迷惑なんですか?
禁煙教育と分煙の徹底こそを国民運動として立ち上げて欲しいものです。
中年以上の男性がかかわる問題には手ぬるく、女性や未成年者向けには居丈高にモノ言われると感じるのは、私のひがみなのでしょうが。

もうひとつは食の安全との関わりです。
食の安全と食育がどうつながるのか、私には分かりません。
古い卵を混入させたり、日付をごまかしたり。これらは生産・流通の側の問題です。
まさか、消費者側に「自己責任」を求めていくのではないでしょうね?
まさかね。
私のひがみすぎですよね?
「だまされる方が悪い」などという流れにはならないと、誰か保証して!


2月5日

日本人男性の「レディファースト」

欧米の男性が女性に対して親切であることは、よく言われています。
私も思春期の頃は、結婚するならヨーロッパ人と本気で思っていました。
親切もさることながら、「デカい女」だという理由で男性から嫌がらせを受ける機会はグッと減るのではないかと期待したのです。
見ず知らずの女の身長のことを、ガタガタ言い過ぎなんですよ、日本人男性。
まあ、恨み言なら小説の方でさんざん書きましたから、今回はこのくらいにしておきましょう。

さて、なぜそんなに親切なのか、何年か前にフィギュアスケートを見ていて分かったような気がしました。
ペアです。

その年、ロシア、フランス、中国のペアが優勝を争っていました。
技術的なことはよく分かりませんが、雰囲気はだんぜん中国でした。
ロシアペアとフランスペアは体格差が大きすぎて、幼女とお父さんにしか見えませんでした。
中国ペアは、ぎりぎり「恋人」に見えないこともない、といった体格差でした。
ところが、結果は中国が3位でした。(芸術点すら!)
最初は審査員が買収されているのではないかと思いました。
が、もしかして、私達には「幼女とお父さん」にしか見えない大きな体格差が、ヨーロッパ人にとって違和感がない程度なのかも知れません。

日本でも、ドラマや映画でヒロインを演じるのは平均的な体格の女性で、その相手役は平均よりもかなり大きな男性であることが普通です。
その結果、キスシーンなどの角度はハリウッド映画とほぼ同じになっています。
不当なことに、現代の「世界基準」は白人男性の意識に沿ったものです。
日本映画もその美意識に合わせていると見たら、うがちすぎでしょうか?

コーカソイドの場合、平均的成人女性の体重は男性の約80%程度でしかないのだそうです。
体重差はほぼ筋力差とみなすことができます。(もちろん脚力差はもっと小さいし、上腕筋力の差は大きいでしょう。おおむね、とみてください。)
女性の体重・筋力が男性のわずか80%!
日本人男性なら、「まさか……ご冗談でしょう」とつぶやくことでしょう。
私達の日常生活からはかなりかけはなれた数値ですものね。

もちろん、平均的日本人女性はヨーロッパ人女性よりも小ぶりにできてはいます。
しかし、相対的には(男女比は)大きいのです。
ですから、「世界基準」では、女性は小さくか弱く保護が絶対に必要な存在ですが、日本人男性にとってはやや小ぶりではあるが、案外にたくましい存在と言えます。

男性の皆さん。
「郷に入っては郷に従え」ということばもありますから、欧米ではせいぜい女性をエスコートしてやってください。
でも、日本国内では、「事情が違う」と彼女に言ってやってもいいですよ。

女性の皆さん。
私も日本人男性の悪口をずいぶん書いていますが、男女の差がくっきり出るところではとっても紳士なんですよ。

20代の頃、走るのが好きでした。
市民向けロードレースでは、男女同時スタートです。
折り返し点を過ぎたあたりから、よく男性の団体が風よけになって走ってくれました。
ラストスパートを牽制されたことはありません。
それどころか、スパートにまで付き添ってくれる人もいました。
増田明美さんの風よけをやっていれば、テレビに映る機会もあるでしょうが、私の風よけではそんな可能性はまったくありません。(1500m が5分40秒台、「奈良女子ハーフ」に出場することが夢の、ごくありきたりの女性ランナーでした。)
こういう低レベルですと、順位は関係ありません。
みんな自己ベストの更新をめざして走っているはずです。(参加料を払って。)
何の見返りもないのに、女性ランナーを応援してくれたありがたい存在です。
お返しをしたかったのですが、ついにその機会に恵まれず、常に助けてもらう方でした。
そういえば、この時だけは私も「デカい女」ではなく「脚の長い女性」でした。(唯一モテモテだった良い想い出です。)
シティランナーっていいなあ。
というわけで、日本人男性の紳士ぶりを体験したければ、走るべし。


2月3日


「イラク派遣」について

国会での議論の中心が「自衛隊員の安全」であった頃から、不安でした。
どんなに治安が良くても、憎まれている場所では、安全ではあり得ません。
先遣隊が行きまして、サマワ市民はおおむね「歓迎」だということで、そちらの不安は薄れたのですが、疑問は残ります。
サマワ市民が「自衛隊を護れ」という意識でいるのは、民生部門への期待からのようなので。
しかし、自衛隊にいくらおべっかを使ってくれたところで、自衛隊は土建屋さんではありません。
就職口を頼まれても、自衛隊員も困るのではないかしら。
現地の希望に即した支援なら良かったのですが。
日本国内でも、不安や疑問の声が聞かれます。

この派遣を喜んでいるのは、一体誰でしょう?


公共交通機関愛用者として

中学3年生に、「公共事業」について聞いてみました。
「必要なことなんだけど、民間企業がやらないことを、政府がやる」
「社会資本と公共サービスがある」
「道路とか、福祉事業とか」
即答でした。
15歳にしてこの知性。受験の真っ最中であることを差し引いても、惚れぼれします。
それなのに、この中の何人かは、将来フリーター(永遠の未熟練労働者)になったり、失業者としての無念を「主婦」と言い換えられる立場になるかも知れないのです。
もったいない!
人的資源の無駄遣いもいいところです。

ところで、私は電車やバスを毎日利用しています。
中でも便利さを感じるのは、100円循環バス(どの区間を乗っても100円)です。
そのバスのターミナルは新しい無人駅です。
新しい病院の最寄り駅として、地元の自治体が作った駅なのです。
よく晴れた日などは、バスや電車を乗り継いで、病院へ向かう高齢者の姿を多く見かけます。

高齢者の多くは、とても苦労してバスや電車を乗り継ぎます。
目的地に向かうにはどのバスに乗るべきか、分からない人がいます。
無人駅のシステムにとまどう人がいます。(しかも、しばしばワンマン電車が来るものですから、車掌さんに尋ねることもできません。)

そのように1度、または何度か苦労して、みごと目的地にたどり着きます。
「このバス(電車)があって良かった」
公共交通機関があったので、彼らはお嫁さん(または息子や娘)に頼らず、自分自身の足で目的地に行くことができたのです。
もし、車を出してくれるように頼めば、本来なら病院に用はないお嫁さんの時間を拘束することになります。
「嫁なんだから、そうしてくれて当然」
と考える人は今や少数派です。
「嫌な顔をされるわけじゃないんだけど、何となく悪くて、頼みづらい」
というのが多くの意見です。
人間とは自尊心の動物であるな、とつくづく思います。
その意味でも、無料バスより、有料のバスであった方がよろしい。

ところが、多くの自治体で、公共交通機関の路線が廃止されています。
採算に合わないからです。
そこでは、車を運転できない人は、大きく生活を制限されることになります。
車が運転できなくなったら、それがまだできる人に依存しなければりません。
動体視力が衰えて、運転が不安になっても、公共交通機関があれば、自立的な行動が可能な人は多くいます。
採算重視の影で、多くの自尊心が傷つけられています。

公共交通機関は、福祉には見えなくても、立派な福祉事業です。
高齢者の自尊心を守りましょう(明日は我が身ではありませんか)。
ローカルで申し訳ないけど、あの無人駅。
駅ができる前はお嫁さんに依存していたけど、今は頑張って自力で病院へ行こうとしている高齢者が多くいます。
ただ、公共交通機関に慣れていないので、大変な思いをしています。
私も時々「なんちゃって駅員」をやっていますが、たまたま居合わせたときのボランティアです。
あの駅に人的資源の投入を、是非!


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