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[ 情けは人のためならず 目的を犠牲にしても手段を守る? 運用が大事でしょう ]

5月21日

運用が大事でしょう

教育基本法を改定するか否か、どのように改訂するか、自民と民主で意見が異なるものの一つである。
この法律に限らず、自民には法律をなるべく幅広い解釈を可能な状態にしておこうとする意図、民主には逆に時の政権に影響を受けにくい限定的な法律にしようとする意図を感じる。
自民的な考えに沿えば変化への対応が速い法律、民主的な考えに沿えば独裁や暴走の歯止めになる法律ができるだろう。
どちらも大事な視点であり、片方があれば事足りるというものではない。
両党には是非審議を尽くし、きちんと妥協してもらいたいものだ。
「愛国心」のような、法律の在り方、文科省の考え方、教育委員会の考え方が大きく影響するものは、特に多様な意見に対して寛容であって欲しい。

法律に特に問題はないけれど、現場での運用で一工夫欲しい問題がいくつかある。

たとえば、中学生くらいで数学に苦手意識を持ってしまう子がかなりいる。
中には、計算力はそこそこあるし、図形を認識する力もある子が含まれる。
それなのに、その計算力がまったく得点に結びついていないから、「私は数学がダメ」と本人も親も信じ込んでしまっている。
もっと詳しく見ると、小学校の分数単元でつまづいていたりする。
そこで、かけ算は面積で、たし算ひき算は数直線で説明し直す。
と、その場で理解してしまう。
彼らはそれぞれを理解しているのだが、数直線は数直線・面積は面積・分数は分数と分離させてしまっているだけのことだった。
どうして関連づけて教えてもらえなかったんだろう?

子どもの側が、教わる順番が合わなくて、混乱したのかも知れない。
あるいは、担任が内心数学嫌いだったのかも知れない。
いくつかの小学校では、高学年になると中学で授業を受けたり、中学の教師が教えに来たりということが行われはじめているそうだ。
おおいに賛成である。この取り組みはもっと普及して欲しい。
やはり数学・算数は、それを好きな人が教えるのが良い。

たとえば、IQはそこそこだがEQ(「心の偏差値」として話題になったもの)がすこぶる高い人がいる。
高校は基本的に総合偏差値輪切りで進学先が決まる。
経験値の少ない高校生達は、一定時間内に教科の中の測定しやすい分野に関する問題を解く能力(テストでの得点)を過大評価しがちである。
そのため、進学校の生徒にコンプレックスを抱く高校生もかなりいる。
進学校との合同練習の前日、その生徒は
「進学校の生徒は優しくしてくれる人が多いことは分かってます、
それが偽善じゃないことも承知しています。
素直に受け入れられないのは私の問題」
と語っていた。
当日、この人は同じ地域の高校生同士として、大変に礼儀正しく、かといって冷淡な感じも与えない態度をとっていた。
高2にして、自己分析が正確にでき、尚かつ相手に十分配慮できる人がいたのである。

IQとEQがかけ離れる人もいるのだろうが、私が関わったこの人は能力がテストの得点に反映されなかった人だ。
この人は帰納→演繹→帰納とたどって理解する人だと思った。
理解し納得してしまえば、応用する力はありそうだった。
現在の教授法だと、帰納又は演繹どちらかの説明があって、演習問題をやって、次へ行ってしまう。
進学校の授業では演習問題のウェイトがもっと高くなるから、この人は基本だけをみっちりやる高校に進学して正解だったと言える。

総合偏差値輪切りも悪くない。
ただ、進学校を頂点として、そこを目指していくような考え方だけは止めた方が良い。
中高生は、他の基準を知らないから、偏差値輪切りと順位付けを分かちがたく結びつけてしまう。
「自分は負け組である」と早々に決めつけてしまう人もいるが、その決定に根拠はあるのだろうか?
必要以上に早期の負け組を輩出しているのなら、それは偏差値のせいではなく、運用の問題である。
中高生がどんなに「先生が甘いことを言っても、世の中が腐ってて何をやっても無駄なんだって、俺は分かってるんだからな」などと嗤おうと、より広い視野を提示するのは大人の務めである。

現在の流れをみるに、今後ますます、性別や出自や障害の有無に関わらず、その人のベストを尽くすことが求められてくるだろう。
現代的なニーズと噛み合わない手法や慣習がないか、洗い出し作業も必要となってくるのではないか。

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5月12日

目的を犠牲にしても手段を守る?

21世紀、衣服は随分とジェンダーフリーが進んだ。
半世紀ほど前、女の服は後ろあきのワンピースだった。
その後、「ピンキーとキラーズ」のピンキーこと今陽子さんが披露したパンタロン姿のステージ衣装は大変衝撃を与えた。
今やすっかり、女服も機能的になった。
登場した頃は「男女が同じような服装だ」と激しく非難された女物のスーツ(ボトムはタイトスカートだった)だが、現在ではパンツスーツも市民権を得ている。

都市での仕事に向いた女服が登場すると、既存の服も変化しはじめた。
スラックスは左側にファスナーが付いていたが、パンツスーツの普及と共に前に移動した。
スカートですら、前あきのもの(リサイクルスカート)が登場した。
さらには、現在のワンピースは前あきやスポンとかぶるタイプが多くなっている。

しかしながら、これらの変化はウィメンズリブやジェンダーフリーを推進する運動とは直接関係がないだろうと思う。
直接の原因はおそらく高齢者の相対的増加である。
女性も男性同様右利きが多数派である。まして、腕や視界の可動域が後ろに広いということはあり得ない。
若い頃は「女らしいから」という理由で後ろあきのワンピースを難なく着られた女性でも、加齢と共にかぶるタイプのシャツと前あきのパンツを選ぶようになる。
高齢者に支持される前あきのパンツは今後も普及していくだろう。

残るはボタンの問題だけだ。
幼稚園や保育園の通園服は男児仕様になっている。
右利きの子にはそれが合理的だからだ。
かぶるタイプの普段着を着ている幼児達にとって、通園服とは初めて取り組むボタンかけの教材なのである。
しかるに女児はボタンかけに慣れたところで、改めて左手でのボタンかけの練習である。
ボタンが男子用・女子用ではなく、右利き用・左利き用であったなら、どんなに合理的だろう。

原因が何にせよ、衣服は人体が快適に動けるような合理的な方向に進化していくだろうし、それはジェンダーフリーの方向である。
ジェンダーフリーというのはその程度のことであると私は解釈している。
勿論、人の解釈は様々であるから、ジェンダーフリー反対論者はそれをあたかも男性にブラジャーを着けさせ女性に前あきのブリーフを穿かせようとするが如き試みのように言い立てる。
ラディカルな同権論者も全く異なる解釈をしているのだろうと想像する。
仕事着や普段着には、合理性・機動性が優先であり、ジェンダーは二の次三の次である……という主張は、いずれの極論者にも理解されないだろう。

原理主義者や極論者達はしばしば目的と手段を逆転させるのである。

個人がその才能・努力・勇気だけで幸福を目指せる社会、そんなものは未だかつて存在した試しはないのだが、本気で目指すなら「ジェンダーフリー」は有効な手段の一つだ。
性別によって、人種によって、階層によって、親の資産によって、伸ばしてもいい才能とむしろ抹消を推奨される才能とがあったからだ。
それが社会に有用なものであっても、特定の属性をもって生まれてきたものでなければ、仕事(社会への貢献)を成し遂げてはいけない……
個人の自己実現と社会の進化はそのように妨げられてきた。
障壁となっていたものを取り払えば、それだけ幸福が近付くはずだ。

しかし、極論者には性別の方こそ大事なので、自己実現だの社会の進化だのという考えは無いようだ。
国際競争力の強化などの副次的効果の方にも関心はない。

だが、考えてみれば、人間は手段を自己目的化させやすい生き物かも知れない。
健康または美容上の目的が、いつのまにか痩せることが目的になり、さらには吐くことや絶食することが自己目的化していく摂食障害がその典型例と言えるだろう。

手段の自己目的化はどうやら大変魅力的なものであり、気が付かないうちに人を虜にしているものらしい……
と認識しておこうと思った。

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5月1日

情けは人のためならず

現在でも「意味は何でしょう?」の世代別統計を取られたりする諺である。
中学生の頃、定年間近の数学の先生が「現代っ子は諺の意味を取り違えて覚えている」と言って例に出した。
私も含めてその場にいた中学生の全員が「他人に情けをかけると、後々までその相手は助力をアテにする人間になってしまい、却って悪い結果をもたらす」という意味だと思っていたのである。

中学生という年代が偽悪的になり勝ちであることと、小学生時代にさんざん「友だちの宿題を手伝うな」と担任の先生に釘を刺されていたことが、結びついてしまった結果ではないだろうか。
中学生達は先生が教えてくれた正しい意味に「それは甘すぎる」と反発した。
実際、私にも正しい意味は都合が良すぎるように感じたのだ。

ところが、年齢を経て、私もいつしか正しい意味の方を正しいと思えるようになっていた。
「他人にかけた情けは巡りめぐって自分のところに戻ってくる」因果応報である。
しゃにむに独力ですべてを成し遂げることばかりが自立ではない。
どこまでが自力で、どこまでがお陰様であるのか、きちんと理解し、感謝することも立派に自立ではないかと思う。
人間一人でできることには限りがある。
人間がお互いに助け、時には助けられなかったら、人生の成功体験はあまりに少なくなってしまう。
自分が不幸であっても、他人も不幸ならそれで良いという考え方はあまりに下品だ。
幸福になれる人間から幸福になっていけば、いつか順番は巡ってくる。
直接に自分に跳ね返ってくる目に見える利益でなくても良いではないか、
助力により助かる人がいて、それを見聞きした人が現代社会に救いを感じるかも知れない。
少なくとも、情けを掛けた人間の品性は高くなる。

「人を見たら泥棒と思え」のような性悪説に基づいた品の悪い諺も数多くあるが、その仲間に入れてしまうには惜しい諺の一つである。

公平な数学 に出てきた先生です。

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