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[ ビバ! ベビーブーム世代 超時空要塞マクロス 徒競走の順位 電車で化粧直し 牡丹灯籠〜愛がすべて〜 ]

6月20日

牡丹灯籠〜愛がすべて〜

常々思う。
耳障りの良い言葉には用心すべし。

先日Evanescenceというアメリカのバンドの"Bring me to life"という歌を知る機会があった。
歌詞の内容は、精神的に死んだ状態にあることを自覚しているヒロインが、恋人(だった人?)に自分を生き返らせてくれるよう懇願するというもの。

連想したのは「牡丹灯籠」である。
からんころんと下駄音を響かせて恋人のもとへ通うお露の物語だ。

「牡丹灯籠」はもともと中国(明)の怪談であったらしい。
若くして亡くなった女と妻を亡くした男が恋に落ちる。
たまたま隣人が女の正体を見破る。
女が亡霊であることを知った男は護符で自分の身を守ろうとする。
しかし、油断して棺の中に引き込まれてしまう。

日本版「牡丹灯籠」は、男女が元々恋人同士であったところと、逢瀬の障壁となっている仏像・お札を取り除かせるために女が男の隣人を買収するところが、中国版と違っている。
元々恋人同士とすることで、女の妖婦性は薄れ、恋人に会いたいという純粋な恋心が強調される。
隣人の買収に使った百両はどこからきたのだろう?
若くして亡くなった娘が不憫でならなかった父親が彼女の死後の生活のために持たせたものではなかったのか?
だが、恋人に会いたい一心のお露には自分の生活などどうでもいいことなのだ。

牡丹灯籠

恋のことしか考えられない美女を亡霊とし、この切ない話を怪談としてしまったのはどうしてだろう。
この時代の庶民文化を担った男達が女にどう向き合ったかと深い関わりがあるように思える。
彼らが妻に望んだのは、家政の(使用人に采配を振るう)能力の高さだった。
恋愛は遊女達とやっていたのであり、それはしばしば心中という結果をもたらした。

恋愛がすべて。恋愛と美容以外のものにまったく関心がない……
そうした女性は可愛らしい。
貴族(上級武士)階級の男性達ならロマンティックな可愛い女性を歓迎したかも知れない。
しかし、「生意気な女は嫌だ」と言いつつも、社会の生産性を押し上げてきた庶民男性達は、可愛らしい女性の怖さを十分承知していたのではあるまいか。
彼らの多くは、耳障りの良さを鵜呑みにせず、しぶとく堅実に生き抜いていったのだから。

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6月13日

電車で化粧直し

「恥じらいがない」「見苦しい」と非難囂々の振る舞いである。
たしかに見苦しい行為であるが、今回は弁護する。
彼女達の化粧の動機が私のそれと大変に近いのではないかと思うのだ。

私は普段素顔である。下地も作らない。冬に娘とお揃いのリップクリームをつけるが、色は付かない。
だが、数年以上前は毎日10分もかけて化粧していた。

化粧をはじめた頃、大変に面白いと思った。
ペインティングによって印象が変わる。
当時はナチュラルメイクの時代だったから、いかに化粧していないように見せて印象を変えるか、自分の顔は実験台だった。
やがて、それは職業上必要なものになった。
素顔は気弱な印象なので、意志が強そうに作るのである。
従って、ほとんど失業している現在は、たまに気が向いた時または特別な楽しみがある時のものとなった。
いいかえれば、現在の私にとって、化粧はレジャーの一種である。

実験台→戦闘服→レジャーという変遷を辿った私の化粧であるが、一貫して「他人(特に男性)の目に少しでも美しく映りたい」という動機が欠けている。
もし、公共交通機関内で化粧する女性達の動機が「社会人として必要(義務)だから」や「自分の満足度を高め、自信の裏打ちとする(満足できる化粧ができた日は調子がいいような気がする)」であるなら、現在彼女達に向けられている非難はほとんど効果がないだろう。
それどころか、
「化粧直しを非難する人間が車内で飲食するな、こぼれたら化粧品よりずっと迷惑だ」
「浅く腰掛け股を全開にして2倍もスペースを取っている人や、脚を斜めに流して場所ふさぎをしている人には何も言わないで、化粧直しだけ非難するのは弱い者イジメだ」

と不満を募らせるかも知れない。

ない方がいい悪習の一つではあるが、非難の声が不必要に強いと言わせてもらおう。

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6月11日

徒競走の順位

――― 今の徒競走は順位をつけない、そのため速い子がゴール前で足踏みをして待ち、全員で同時にゴールする ―――
という噂話を聞いた時は、私もなんてアホらしいと思ったものだ。
実際にはそうした光景を見たことがなく、徒競走は徒競走として昔ながらのやり方で行われている。

ところが、今年はじめてそれを見たのである。

娘の学校の運動会のこと、ある学年の第1組は100mを走る5人の少年達と、50mを車いすで走る少年が同時スタートした。
車いすの子が半分ほど進んだ時、走ってきた一番手が彼に追いついた。
と、走ってきた少年は車いすを押しはじめたのだ。
一番手のスピードが落ちたので、二番手も間もなく追いついた。
しかし、二番手の子も彼らを抜かずに伴走、3人でそのままゴールを駆け抜けた。

印象はただ「美しかった」。
保護者席では「いいものだね」という声しかなかった。

しかし、その場ではまったくなかったが、一番手及び二番手を走っていた少年達が貪欲に勝利を奪おうとしなかったことを
「はがゆい」「覇気がない」と評価することも可能である。

最初にあげたどこかの学校で実際に行われた徒競走と、昨日私が見た徒競走とでは大きく違う点がある。
勝利を独占するか分かち合うかを選択したのが少年自身だったことだ。
順位を付けるべきか付けざるべきか、そうした大人達の思惑も無視して、彼らは自分自身で決めてくれた。

ただし、もうひとつ彼らが大人達に示したこともありやしないか。
徹底的に勝つのか、それとも分かち合うのか、選べるのは一番手二番手に限られるということだ。
大人の世界では更に「車いすを蹴飛ばして走行不能にする」「ゴールテープを撤去して三番手以降がゴールできないようにする」といった選択肢すらあるのかも知れない。
選択権をもつ者の品位に、他の人たちの命運も左右されてしまうのだ。

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6月3日

超時空要塞マクロス

1982〜83年に放映された、好きで見ていたアニメ作品である。
身体は巨大化・知性は合理化の方向で進化した異星人との交戦が舞台となるSF。(恋愛感情が退化しているところがポイント。)
主人公は、有能な上官と美少女アイドルの間で揺れ動く、優柔不断な少年である。
大ヒットした作品で数多く続編が出ており、著作権問題が起きているので、そちらでも有名かも知れない。

SFドラマの方はスタートレックを思わせるようなテーマで、安心感があった。
視聴者によって意見が二分されたのはメロドラマの方である。
すなわち、上官派とアイドル派に分かれていた。

主人公よりやや年上の上官は、職業上ばかりか家庭での仕事においても優秀な女性である。
職場では男性の同僚や部下に対して威圧的な面もある。
(アニメが制作された当時はジェンダーフリーの考え方が一般的ではなかったため、有能な女性は自らの才能を普通に発揮するために戦う必要があった。映画では彼女のこの面が強調されていて、現代人の目には滑稽に映る。)
普段同年代の男性には攻撃的に振る舞っているので、他の場面では大人なのに恋愛には臆病。
こうしたバランスの悪さが、案外可愛い、健気だという評価に結びついたのだろう。

美少女の方は明るく華やかな雰囲気、透明感のある美しい歌声の持ち主で、家事は苦手。
感情を抑えることはしない(できない)ので、表情がくるくると変わる。
彼女の無邪気な可愛らしさは、おおむね男性には支持され、女性には反発されていたように記憶している。
ただ、視聴者は男女とも彼女を「わがまま」と表現していた。
最終的に主人公は上官の方を選ぶのだが、視聴者も納得していたと思う。(私も納得した。)

それから10年以上経って、この作品を見る機会があった。
「ミンメイちゃん(美少女アイドル)、わがままじゃないよ…」
私は映像の前で凍り付いていた。
我が儘と見えた美少女はごく普通としか見えなかった。
現実に、もっと極端な我が儘が増えてきていた。(「自己中心的」が「ジコチュー」と略されるようになった頃でもあった。)

「ありえない。こんな人、絶対にいない」
逆に、魅力的に見えた上官は人間離れして見えたのである。

さらに、10年。
現在マクロスを思い返してみて愕然とした。
聖母マリアか観音様のような完璧な上官は、気持ちは恋愛だったかも知れないが、その表現は恋人というより母親だった。
主人公が、恋人より母親を選んだマザコン男性に思えてきたのだ。

好きであった作品であればあるほど、見返したりしない方が良いようである。
SFアニメもまた、時代の申し子であったのだ。

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6月1日

ビバ! ベビーブーム世代

小学生や就学前の幼児が被害者になる事件が頻発している。
こうした事件があると、小学校では保護者に児童を送迎させることで犯罪を未然に防ごうとする。
子ども達の安全が最優先であるから、学校の対応は正しい。
だが、大人は全員働いているという世帯では途方に暮れてしまう。

痛ましい事件がある一方、地域によっては、犬を連れた高齢者が散歩を兼ねてパトロールしてくれたり、小学生に声を掛けてくれたりする。
人によっては子育てのボランティアを引き受けてくれたりもしている。
20世紀に比べ、「うちの子」と「よその子」を分け隔てる垣根は随分低くなったような印象である。
また、つい10年ほど前は「会社一筋で地域に疎い男性が定年後どのように生きていったらいいのか?」真剣に議論されていたが、地域の為の活動量は女性に比べても遜色ない、パトロール活動などはむしろ女性を凌いでいると言って良い。
定年と共に人生も燃え尽きてしまう男性は減少しているのではないだろうか。

理由の一つは少子化の影響であろう。
現在の定年退職者は体力があるのに、孫の人数は少ない。「うちの子」だけでは手一杯にならないのだ。

若い頃の経済的余裕の差があるかも知れない。
大正〜昭和初期生まれが戦争と戦後に翻弄されたのに対して、現在の60代は貧しくても働けば働いただけの手応えがある高度経済成長期にあたっていた。
精一杯働いて尚、地域に貢献できるほど、ベビーブーム世代はそれ以前に比べて体力も気力も勝っているのだ。

男の仕事・女の仕事が減り、どちらがやってもいい仕事が増えたことも見逃せない。
かつてはどんなにその分野に適性があっても、異性の方に適するとされていると、関心を持っていることすら表現できなかった。
しかし、時代はあきらかに「分際を知る」よりも「ベストを尽くせ」へと向かっている。
それは、高校生の制服着用期間の冬服限定や夏服限定が短くなり、併用期間(気温や体調に合わせてどちらの制服を着用しても良い期間)が長くなったのに似ている。
制服姿の高校生を見ている目よりも、着用している本人の快適さが優先するようになってきたのだ。
「これは男(女)の仕事だから」と遠慮せず、自分にできると思ったことをやる。
それが非難されない時代になったといえる。

地域のコミュニティが消えたと言われて久しい。
地域が消え、会社が村になり、会社の村を出てきた人が地域に帰ってきても余力はなかった。
これから地域に帰ってくる人々は今までとちょっと違うようだ。
昔とは違う形になるだろう、だが、地域の再生を期待してみようと思う。

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