F5バナー
2006/8 宗教いろいろ 躾は手抜きの方が良い? 金があっても… 続・とりあえず偏差値 ひっかかった… 「定理と証明」…

8月26日

「定理と証明」を応用

巧みに論理をすり替えられると、私はひっかかる。
論理展開に違和感を覚えても、相手方もそれ相当のものなのだろうと思い込んでしまう。
ヤラレタと気が付けば口惜しいものだ。
自分がバカだったのだから仕方がないのだが、もう少し予防線を張れないものか。

そこでふと思いついたのが、中学2年で学習する「定理と証明」を応用することだ。
私同様口車に乗せられやすい方にもお奨めである。

この単元では、仮定と結論を明確にし、仮定から結論が導き出されると証明することを学習する。
したがって、途中の証明をすっ飛ばしても、仮定と結論は話がつながってなければならない。
「(仮定)2つの角が等しい三角形は」「(結論)二等辺三角形である」という具合だ。
私が3年もひっかかっていた問題でいうならば
(仮定)東京都立七尾養護学校で行われていた性教育は即物的である
(結論)性は秘められたいやらしいものであるべきだ
となる。
これなら私もひっかからなかったではないか。

ついで、これも違和感を感じつつ、そんなものなのか? とひっかかったもの。
(仮定)公衆トイレを男女共用にすべきだと主張する人がいる
(結論)男女共同参画社会に反対する
間の証明は「男女共同参画社会を推進したい人の一部が『トイレほど性別を意識させる場所はない』とか『現代日本以外の社会を見ると、トイレそのものがない社会がある』という旨の発言をした」といった内容である。
男女共用の公衆トイレというと、新幹線の中とか、身障者用トイレのことだろうか。
論者が批判している発言者と意図は違うが、私は共用と性別に分かれているのと3種類あるのが理想的だと思っている。
幼い異性の子どもを連れた親には身障者用の広いトイレはとてもありがたいからだ。(狭くても子どもについてやれるのはありがたい。)
しかし、論者は身障者や付き添いが必要な高齢者、幼児の入場が考えられない公共施設を想定しているかも知れないので、仮定に異論を差し挟むのはやめておこう。
そこで導き出される結論が、「たとえば決断力と創造性に溢れた女性や細やかな配慮のできる男性がその能力を発揮して活躍できる社会であってはならず、従来『男らしい・女らしい』とされてきたステロタイプの男女の生き方のみを認めるべきだ」となるのだろうか?
やはり、トイレとどうつながるのか分からない。
賛成者の中にトイレを気にする人がいるという理由で、国際競争力強化の施策を否定するのが妥当だとは思えない。

最後に、私がパニックをおこしかけたもの。
(仮定)中国産野菜には残留農薬が基準値をこえたものが見つかっている・狂牛病の発現確率は低い
(結論)中国産農産物に対する規制を強化し、狂牛病対策費を削減すべきだ
2つの主張が入り交じっているので、きちんと分割しよう。
対象となる農産物の生産地、原因物質、研究の進展具合が違う。
私が化学の仕事を離れて久しいからではなく、2種類の異なる主張を同時に検証できるほどの頭脳を持ち合わせていないからじゃなかろうか。
無理は良くない、何も分かっていないのに分かったような気になってしまう。

あらためて
(仮定1)中国産野菜には残留農薬が基準値を超えたものが見つかっている
(結論1)中国産野菜に対する規制を強化すべきだ、日本側の検査態勢も厳しくすべきだ
すっきりした。
OKである。検査方法や管理方法など、日中ですりあわせて妥協点を探ってもらいたい。
どの程度の摂取でどのような健康被害が出るか、かなり研究が進んでいるはずだ。

ついで
(仮定2)狂牛病の発現確率は低い
(結論2)狂牛病対策費を削減すべきだ
こちらも筋が通っている。
私なら(結論2)は「狂牛病発現のメカニズム解明に重点を置こう」となり、解明されるまで検査体勢を厳しくするのは適当だと思う。
しかし、(結論2)に反対だからといって、(結論1)にまで反対するのは理に適っていない。
「農牧業の産物」というところが合っているので混乱しやすいが、平凡な頭脳の持ち主(特にその気になりやすい人)は無理をせず1つ1つ分割して考えるのが良いと思う。

どうやら使えそうなので、しばらくこれで頑張ってみよう。


今サンプロ観てます。やっぱり財界人はまともだわ。
麻生氏、若年層非正社員の話になったら段違い平行棒。だめだよー、正社員が働くのは当たり前なんて。現実知らないでしょ?
「経済音痴の方に総理になって欲しくない」全面同意だ、丹羽氏v ただ談合の話は泣き言だな。
ファンダメンタリズムやカルトにはジンマシンが出そうな私は、統一教会の人は避けて欲しいよ。(←無駄吠え)
私達は誰が自分と違う宗教でもそれは本人の自由だと考えるけど、原理やカルトは執拗にしばしば暴力的に改宗を迫るからな。あー、やだやだ。

3つめに書いた2つの命題がミックスされてぐっちゃになった問題、あれをどうしてもぐっちゃにしたい場合でも比較対照が「中国野菜」と「アメリカ牛肉」ではダメだそうです。
検査基準はあくまでも日本国内でどうしてるか(内外格差)。実際に野菜なんかは外国産の検査の方がやや厳しいらしいんだけど、あんまり変わらない範囲でやってるとのこと。牛肉は国産牛の検査はむちゃ厳しいもんね。

△ page top

8月21日

ひっかかった私がバカだった

以前「性教育を禁止しろ」という趣旨の主張 を読んだ時に大変嫌な感じを覚えた。
この方の頭の中には、性ではなく性器のことしかなく、この方が批判している教育内容も「性教育」ではなく「性器教育」と呼ぶべきシロモノと思えたのだ。
どちらの主張にも「性は相手があること」という視点がすっぽり抜けていた。
極論者同士が激しく罵り合うのはよくあることで、これもその類だと思った。

その時はそれで終わったのだが、3年近く経ってからちょっとひっかかったことがある。
性器のことしか頭にない人が非難するポイントだから、教育内容には性器以外に関することも含まれ、筆者が敢えて無視した可能性もある。
ただし、それはこの文章からは分からないだろう。

もうひとつ。非難の矛先が主に養護学校に向けられていたことである。
養護学校に通う児童・生徒のうち、複合ではない知的障害の場合を考えてみよう。
単純に知能の発達が遅れているケース、知能の発達のうち衝動をコントロールする力だけがきわめて弱いケース、自傷あるいは他傷など。
様々な障害がある。
しかし、いずれの場合も思春期はやってくる。
しかも、知能発達に合わせてでなく、健常児とほぼ同時期に、反抗期もあり、性衝動の訪れもあるのだ。
つまり、性犯罪の加害者になる可能性も被害者になる可能性も、一般の人に比べて格段に高いといえる。
「性犯罪に関わる」という最悪の事態を回避するために、即物的な性器教育が行われたとしても不思議はない。
特に教材はより実物に近いものにしなくては、生徒の方が理解できない、場合によってはパニックに陥る可能性もある。
勿論、即物的な性器教育以外に良策があればいいが。
この方の「正論」が「そんなこと知らない」や「犯罪が起こってから考えればいい」ではないことを願う。
特に後者は最悪である。
私の住んでいる県では発達障害児は同年齢の子の2〜3%だそうだ(発達障害の親から発達障害の子が生まれるとは限らず、また生後に病気や事故によって障害者になるケースもある)。
1クラスにつき「ここにはいない1人の発達障害児」がいるという計算になる。
そのうち衝動を抑えられない子の割合がどのくらいかは分からないが、これほど厳罰化が抑止力にならないケースはない。
衝動が起こってからは歯止めが利かない。(だから障害と言えるわけで)
衝動を逸らす方法がいくつか必要となる。

そうした目で改めて読んでみると、激しい非難に拘わらず、性器教育の背景(授業を受けている児童・生徒の障害の種類など)が見えてこない。
前回はかなりの読み落としをしたため、ある学校で性器だけをことさらに取り上げた授業が一斉授業として行われた、と解釈してしまったものの、実際にはこの記事だけでは何も分からないと言うことが分かった。
相手方の主張や、実際の授業風景、児童・生徒の障害を知らなければ、判断の付かない問題だったというわけだ。

口惜しい、ヤラレタ。
でも、仕方ない、ひっかかった私がバカだった。

ただ、言い訳をすると、この方の考えを主張をしている際の児童・生徒像は一般の小中高校生のようなので、私も混乱した。
一般の小学校勤務の教諭は「グッズ」(教材)考案者として登場していた。
この教諭についても、養護教育に携わったことのない人とか養護学級の担任ではないといった記述が見あたらなかったので、何とも言えない。

「文章を読む時は、主張が何種類含まれているか、よく見極めることが大切だ」という教訓でした。


参考になります:「ジェンダーフリーとは」

この養護学校は結局「健常児も教わってない性教育はまかりならん」てことになったらしいよ。都知事がそう言ってた。障害児って言ってもいろいろだからねえ、でも、健常児以上の教育はなんであれ許さないと言うことなんでしょうか? 危険が予想されても? 東京都は福祉政策をやるだけの予算が潤沢にあって羨ましかったけど、ちょっと考えを改めなくては、だね。

△ page top

8月18日

続・とりあえず「偏差値」に1票

前回は偏差値擁護の建前を書いた。
今回は本音の偏差値擁護をする。

子どもの頃の私は容姿の悪さを苦にしていた。
私は不細工なのに、弟は大きな目を持ち可愛らしい容姿をしていた。
姉弟は比較され、私はいつでも「女の子なのに可哀相」と同情された。
鏡を見ても、弟と一緒に写った写真を見ても、世間の正しさを思い知らされたものだ。

当時の親たちは子どもを増長させないように注意していた。
どこの家でもそうだったようだが、子どもは親に誉められることはまずなかった。
特に女の子は自信に溢れていてはいけなかった。
私が子どもの頃の少女漫画では、才能に溢れたお金持ちの美少女は、たいてい最終回までには酷い目にあっていた。

しかし、時代は偏差値輪切りに入っていた。
小学校に上がった私は自分が「ダメ」でも「不器用」でもないことを知った。
学習の理解の度合いはすぐに数字で見ることができた。
小学校の高学年になる頃には私は決心していた。
容姿はアテにならないどころか私の弱点だ、地道に勉強して生きていこう。

やがて私は偏差値を上げて自信を持った。
容姿をカバーして生きていこうという方針に迷いはなかった。
この数値があったお陰で、多くの容姿に問題のある女子と運動神経に問題のある男子は救われたのではなかろうか。

男女を問わず「容姿」「運動神経」「偏差値」「器用さ」などなど何でも評価されるようになればいいと思う。
ひとつのことに固執しなければならないということもなし、すべてを追うべきだということもなし。
個性の一つに過ぎない偏差値をことさらに攻撃する必要はないだろう。


蛇足だが、私が自分の容姿を弱点と認識して8年後、高3のある日、父は突然私を「美人」だと主張した。
生まれて初めて誉められたかと思いきやそのキッツイ冗談かい?
としか言えなかった。
その後、どこかの雑誌で「親が子どもの成長を認識するには最短でも5年はかかる」という記事を読んで、大いに納得してしまった。
父としては8年以上かかって、私が容姿を諦めたことに気が付き、慰めようとしてくれたのだろう。
悪いことをしたものだ。

さらに蛇足だが、今小学生の頃の写真を見ると、弟と一緒でさえなければ「中の中」といったところである。
脚長があるので、現代の評価なら「中の上」になるかもしれない。
子どもの判断がいかに狭量なものか、今はそちらの方を思い知らされている。

△ page top

8月11日

金があっても買ってはいけなかったもの

フジテレビで有吉佐和子原作『不信の時』のリメイクドラマを放映している。
全体の主張は原作と全く違っているが、ドラマはドラマとして面白い。
原作の前提が分からない現代人の方が多いため、大幅に変えたのだろう。
いっそ登場人物名も変えてしまい、オリジナルドラマとして放映するのが正しいと思うのだが、アイディアのいくつかが『不信の時』と重なってしまうので、このような形にせざるをえなかったのだろうか。
著作権法上仕方のないこととはいえ、原作者・脚本家双方にとって気の毒だと思う。
有吉氏の原作ではなかったが、他のドラマや映画では「私の主張をねじ曲げるのなら、原作としてクレジットに載せないでくれ」と原作者の方が怒りだした例もある。
原作者には原作者の、ドラマ制作者にはドラマ制作者の主張がある。
そして視聴者の「常識」の変化がある。
原作者は読者に本を読むに耐えるだけの教養を要求することができるが、ドラマ制作者にはできない。

さて、原作の前提には、現代人に理解できるものとできないものがある。
《男女を問わず、自分の才能を花開かせて、経済的にも豊かになる》
に納得はしても、自分の妻に限っては才能を伸ばしたり、社会に貢献したりせずに、家庭内に留まっていて欲しい ―――
と考える男性は今でもいるだろう。
少し想像力を働かせれば、活躍をはじめた妻に対する夫の釈然としない思いや、それに同調する浮気相手の言動は理解できるだろう。

ドラマでは「ウーマン・ウォーズ」だが、原作では女の戦いになっていない、というところになると少々微妙か?
原作でも愛人(玄人)の側は、自分と妻とを「女」という同列に置きたがる。
「近頃の素人の女の人は凄い」「全部が全部と言っていい」「やむをえず結ばれている夫婦って多いのよね」
ところが、夫はそれに取り合わない。
妻の側も愛人に子どもがいると知って「(夫は)あなたと結婚すべき」と考えるが、夫にその気はない。
愛人(玄人)を愛しいとは思っても、妻(素人)とは格が違う。

ひとくちに男尊女卑といっても、女が一括りにされていたわけではない。
玄人はいかに教養を身につけ会話の妙で男性を楽しませても、その依って立つところはセックスアピールである。
素人はどんなに色気を演出したところで、不特定多数の男性に職業として色気を提供することはない。
エリート男性達は、玄人の女に恋をし、彼女の人格を尊重するかのように扱い、そんなことができる高尚な自分自身に酔ったのである。
だが、酔っているのは、自分自身の高尚さにであって、相手の玄人女ではない。
正妻にするのはあくまでも素人。玄人女は妾か浮気相手に過ぎない。

公娼が廃止されて50年の歳月が過ぎ、今や女達は均一になった。
素人女性達も恋愛自由になった代わりに、マスメディアなどにおだてられてフリーでセックスサービスを供給するようになった。
また、堅気の働き方でも女性が経済力をもちうるようにもなった。

かつて芸者が役者買いをしたように、つい先頃までは水商売の女性がホストクラブを楽しんだ。
去年ホストもののドラマが放映され、素人女性とされる登場人物の多さに驚いた。
男性がお金で玄人女性を買っていた、玄人女性はお金で玄人男性を買っていた、
しかし素人女性はお金があってもセックスアピールを買うことはなかった。
これはドラマの中だけの出来事なのだろうか、
それとも、かつてヨーロッパで格式を買おうとして顰蹙を買った団体旅行の日本人男性達と同じように(方向は反対だが)「金があるのだから買えばいい」という発想が横行しているのだろうか。

先人達が血の滲むような思いで廃止させた公娼制度だが、近年の風潮を見ていると必要悪だったかという気がしてくる。
実際、勝負所はセックスアピールしかない女性はいる。
彼女達が選択できる職業は限られる。
以前流行した演歌「別れても好きな人」をジョークで「別れたら次の人」と歌っていた洒落者がいたが、今やジョークでなく女達には「いつでも恋をしていなくちゃ」という不可解な要求がされている。
「金があっても買えない格式」「金があっても買ってはいけないサービス」がなし崩し的になくなっていくのである。


参拝する方は、「2度と戦争を起こしてはならない」とは言ってるけど、「相手が挑発しても戦争には応じない」とか「同盟国から応援要請されても断る」とは言ってませんよね? 応援要請は分かりやすいけど、挑発はどこまで?
個人対個人に喩えると、「相手が凶器を見せた」?
それとも「ガン付けた」「陰口を言った」「俺を嫌ってるようだ」も挑発になりますか?(8/15)

△ page top

8月6日

躾は手抜きの方が良い?

児童が広域に渡って通学している小学校では、たいていの家の母親は彼女専用の車に子どもを乗せて通学させている。
母親の献身により、子どもは近距離通学の子と同じように、安全な通学をすることができる。
しかし、そこに盲点があったのだ。

「先生、学校でもっと熱心に(一時期ではなく一年に渡って)挨拶運動をやっていただけませんか?」
高学年の子の教育熱心な母親が教員に要望を出した。
その場に居合わせた母親達も彼女に賛同した。
ついで「ねえ?」と私にも賛同を求めた彼女は
「あ、そうか。鮫島さん(仮名)には関係ないのよね」
と微笑んだ。

彼女や賛同者の説明によれば、彼女達の子ども達には家庭と学校以外のところで挨拶をする機会が全然ないのだという。
子ども達に社会性をつける機会を与えてくれるのは、学校のみという状態だ。
にも関わらず、挨拶運動期間以外は、学年の先生や同級生としか言葉を交わさないという状況になりがちなのだ。
このままでは彼の世界は極端に狭いままではないか。

確かに、我が家には当てはまらない。
娘は片道1時間半かけて通学している。
雨が降ろうが、雪が降ろうが、炎天下だろうが、公共交通機関とスクールバスで行く。
路線バスのバス停で、バスの車内で、JR乗車駅の改札で、プラットホームで、降車駅の改札で、それぞれ顔の分かる人々がいる。
親が30回「おはよう」を繰り返すよりも、10人の他人の声や親と他人との応答を聞いている方が、よほど教育効果が高いのではないかとぼんやり思ってきたが、それは確信に変わった。

親にはできない躾がある。
親の躾そのものよりも、親の躾に巻き込まれる他人の存在が効果的なものがある。
その場合は、親はなるべく手を抜いて、他人を一人でも多く巻き込んだ方が良い。
挨拶はどうやらそうしたものの一つらしい。


先月末から日記をブログにしてみた。まだ、おっかなびっくり状態なので、なかなか本音を書けない。
イラクとイランと北朝鮮が「悪の枢軸」なら、イスラエルは「諸悪の根元・大悪魔ルシフェルだ」とか。
長野県、またもや権威主義政治に戻りそう(新知事はガラス張りの執務室は気分が悪いとか官舎を建て直すとか)だけど、いいのか? とか、
慣れるまで、ここにちょこちょこ書いておこうかな。

△ page top

8月1日

宗教いろいろ

神道は民族宗教の一つである。
他に民族宗教といえば、ユダヤ教が有名だ。
ユダヤ教では救われるのはユダヤ人だけと言っている。
すべての民族宗教が選民思想を持つわけではないが、民族固有の思想や儀式を持っている。
民族宗教も、他民族に理解でき、人間存在を平等と考えたところで、世界宗教へと発展した。

神道は社会的に認められ尊敬されているので、しつこい勧誘は行わない。
信者でない人間が神社境内に入ってきてお賽銭を投げても「罰当たり」とは言わない。
創唱から約170年の比較的新しい天理教も学校法人を持っているが、宗教を強要したりしない。

他宗教・他宗派の人間に寛容というのは、仏教系キリスト教系の学校でも同様である。
宗教教育はあり、行事はあるが、決して改宗を迫ったりしないものだ。
宗教が違っても、お互いに寛容な気持ちで共存できているのが、平和な社会というものだ。

ただし、先鋭な宗派も存在する。
それらの特徴は
信者には「自分勝手に判断するな。○○におまえの生命・財産などすべてを捧げよ」と迫り、
他宗教・他宗派の存在を許さないことである。
○○には「神」「教祖」「将軍様」「イデオロギー」「国家」などが入るが、なんなら「オレサマ」でも構わない。

こうした先鋭的な宗派を「美しい」「凛々しい」「ありがたい」と感じて信者になるのは自由だ。
「そんなものは迷惑だ、自分の頭で考えて判断したい」と考える人間を「軟弱」「だらしない」「利己主義」と非難するのも勝手だろう。
しかしながら、信者達はしばしば非信者を暴力を以て黙らせるのが正義だと信じてしまう。
迷惑を通り越して、恐怖である。

先鋭的な宗派はカルトばかりでなく、世界宗教や民族宗教の一部にも存在する。
キリスト教原理主義やイスラム教原理主義の中の先鋭的な一派、暴力的な革命を指向する右翼や極左もこの系列に入れて良いだろう。
この中で不思議に思うのは右翼だ。
日本の右翼が国家神道の流れを汲むと考えると、平田篤胤以来200年近くになる。
しかも、廃仏毀釈から1945年まで、国家を挙げて支持され、栄華を極めている。
イスラエルの右翼にしても、現にパレスティナは国家としての体を為していないではないか。
彼らの思想は十分宣伝されていると思うのだが、まだ不足なんだろうか?


右翼の教義は昭和14年に陸軍省が発行した『支那事変の真意義』でしょうか? 一部抜粋します。
*****
今次の事変は他国の侵略戦争にありがちな領土や賠償金を本来目的とする戦とは全然異なる特質をもつものである。
真の正義人道の見地に立ち、東亜積年の禍根を一掃してその安定を図り、八紘一宇の大精神に則って皇道を宣布し、東亜諸民族更生の実を挙げ、其の存続発展を確保し、以て皇国の国是を実現し、世界人類の平和と文化と福祉とに貢献せんとする真の聖戦であり、ここに厳然たる道徳的基礎が確立されている。
*****
私はこれを日本史で教えた方が良いと思います。いや、教えるべき。
八紘一宇の大精神、つまりは世界征服ですが、真面目に信じた人々は悪の組織の怪人や戦闘員ではなかったのです。

ネット上で右翼的な意見をよく目にするのですが、彼らがさす「左翼」と私のいう「左寄り」はおそろしく違うんですね。
どうやら彼らは「左翼=中国・ロシア・北朝鮮など社会主義国の要求に無条件で従うことを理想とする」とでも定義しているようです。
カルトの方も教義に則った歪んだ一般世間観を持っています。
「北朝鮮」という単語を聞くと条件反射で敵意が湧き上がってくる多くの現代日本人と同じで、純粋で愛すべき人々ではあります。
思考パターンも1つしかありませんから、反応は実に分かりやすい…
けれど、おつきあいは挨拶とお天気の話と「最近の○○は怖いわねえ(感想及び考察は省略)」だけにしておきたいと思ってます。

△ page top

過去ログ過去「言いたい放題」へ

HOME日記メールフォーム

inserted by FC2 system