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「女の敵は女」?
改革は難しい
反知性の時代なのか?

9月1日

「女の敵は女」?

男の敵は男である。
ビジネスやスポーツ、学業、あるいは恋愛などの場で競い合うとき、男性のライバルは男性であることが多い。
これに関しては肯定できる。

対して「女の敵は女」と言うとき、ライバル同士として直接競っているのは恋愛の場だけである。
スポーツでは女子同士で競技を行うのだが、この言い方ではむしろスポーツに打ち込もうとする才能ある女子に対して、
才能がない(もしくは自分は努力したくない)女子が精神的な圧迫によって彼女のパフォーマンス向上を阻もうとするようだ。
ビジネスや学業の場での競争参加にはスポーツのそれよりさらに陰湿な攻撃が加えられる。
競争参加を拒否する女性は子どもを引き合いに出し「母親として○○すべきだ」と、見ず知らずの女性に対してすら執拗に非難する。
その攻撃力は保守系男性より上、男よりも女の方が容赦がないという感じを受ける。

もちろん競争不参加でも「他人は他人、私は私。私は自分の価値観で優先順位を決める」と堂々とした女性も多くいる。
あるいは「私が若かった時代は難しかったが、今の人には頑張ってほしい」とエールを送る女性もいる。
自分自身は競争不参加でも、参加組の足を引っ張るどころか応援する女性は、自分の人生の主人公は自分自身である、と理解している。
参加組と同じくらい強い自信を持っているのだと思う。

では見ず知らずの同性の足を引っ張る女性はどうなのか?
彼女たちはかなり能力の高い人たちに見える。
本気で頑張れば、現在頑張っている女性達と同様の地位までいけるかもしれない。
自分の能力に自信を持ち、他人は他人、と割り切っても良さそうに思える。
彼女たちは自らの判断で固有名詞を棚上げして「○○ちゃんのおかあさん」「○○さんの奥さん」となっているのだし、
主人公はあくまでも夫や子どもという人生が好きなのだ。
それが得意ではない、あるいは嫌いだという女性が存在し、彼女たちが封殺している能力を存分に使って競争に参加している…
ただそれだけのことを非難する理由が分からない。

理由が分からない、
分かるように説明しようとせず、昭和30年代の家庭至上説(使用人のいない専業主婦が多数派になった時期は後にも先にも戦後の一時期だけだ)を念仏のように唱え続けるだけ…ということは、彼女たちも理由を知らせる気はないのだろう。
理解できないという点で、大好きな芸能人を腐されたマニアックなファンが怒っているようなものなのかもしれない。
女の敵になるような女は無視しておくのが正解だ。

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9月8日

改革は難しい

政治の世界では「改革」「改革」と言った方が支持されやすいが、私たちの身近な生活は旧弊なやり方を現代に近づけるのには相当な努力を要する。
私が常々感じるのは小学校の連絡網や町内の運動会のことだ。

家に必ず誰か大人がいて、固定電話しかあり得なかった頃にできた連絡網。
何年も前から弊害は出ていたはずだ。
平日の昼間から家にいる大人はどんどん少なくなったが、最初は働く母親を非難することで解決しようとした。
次いで、連絡網は夜間のものになった。
固定電話のない家の子が入学してくるに至り、しぶしぶ携帯番号の登録を認めた。
私は去年からファクスやメールによる連絡を提唱しているが、賛同する人は多い。
現状はうるさい私だけを優遇することで対応している。

町内の運動会の種目も人口構成比から大きくかけ離れている。
小学生は一人で何種目も掛け持ち、場合によってはその子の所属でないチームにかり出されたりする。
その一方で、人口の多くを占める高齢者には出番がない。
何年前かしばらくは種目の見直しを提案し続けたが、他地域との関連でできないという。
(一斉に変えなければならないので、「とりあえず今年は現状維持」が続いている。)
改革を提案していた人々も疲れて諦めてしまった。
また新しい人が入ったら、その人が同じ内容の改革提案をすることだろう。
現状は、対抗戦としての意味をなさない小学生の種目を得点種目から外して対応している。

政治の世界はある種非日常だと感じるのだろう。
現実の生活では「新しいやり方が多くの人にとって有利だと分かっていても、変えるくらいなら全員が不便な方が良い」という結果になってしまう。
もちろん誰も不便を望んでいない。
しかし、今まで蓄積されてきたデータやノウハウをすべて放棄して、一から作り直す立場になることも気が重いのだ。
合理を取るか、管理を取るか。
悲しいことに、自身が役員になると管理を選んでしまい、「(まだ見ぬ)来年の役員に任せよう」となる。

保守的な人ほど、日常での改革があまりに難しいから、政治には急進的で過激な改革を求めてしまう…のかも。

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9月9日

反知性の時代なのか?

昔から「人間の値打ちは学力では決まらない」とか「仕事の能力と学歴は無関係だ」とか、こめかみに青筋を立てて主張する人々はいた。
もちろん彼の本音は「無関係」ではなく、「逆比例する」である。
高学歴の人間は心根が冷たく人間としては欠点が多い、という本音(妄想)を強くにじませながら、彼に対する処遇がいかに不当であるか訴える。
そして、都合が悪くなると、相手が男なら「男のくせに細かいことをぐだぐだと言うな」と怒鳴りつけ、女なら「女は引っ込んでろ」と恫喝する。

しかし、彼は知性信仰そのものを否定する気はなかったのだ。
彼の子が十分な知性を備えていると分かれば、彼は子どもの望む大学に進学させてやろうと一所懸命に働いた。
子どもが高校や大学で知り合った友人には資産家の子も多くいた。
やがて、卒業した子は彼とは全く違う仕事に就いた。
スーツ姿の我が子に彼は愚痴をこぼす。
自分は身体がボロボロになるまで懸命に働いても薄給、高学歴のおまえは楽をして(精神的ストレス等についてはこの際棚上げで)高給取りだ、と。

彼はその現実を「悪くない」と思っていた。
愛する子どもは出世したのだ。
戦前ならば、貧乏人として生まれたら最後、決して我が子をこのように「出世」させてやれなかったのだから。

今考えれば、戦前は経済を指標とした格差社会、戦後は知性を指標とした格差社会といえるのかもしれない。
学歴・資格・学力などによって住む世界(職業)がおおむね決まってくる。
教育費が低額であればあるほど、個人の才能や努力がその人のステータスにとって重要になる。
親が失敗しても、子どもが回復するチャンスは大きい。
学歴・資格・学力は相続させられないのだ。
親が成功した子どもは家庭教師を付けてもらえる分有利になるかもしれないが、その影響力は戦前に比べて著しく小さかった。

階層の指標を、知性という個人的なものから、資産というイエのものへ。
戦前回帰、戦後レジームからの脱却。
思い起こすと、その流れは安陪総理大臣以前からあった。
公教育は知育重視から体育・徳育重視へ。子ども達は不足分を塾などで補うのが当然になった。
親たちが十分な教育費を用意できなければ、あるいは「知識偏重」とか「詰め込み」とか言われていた頃の教育が今でも続いているという幻想を持っていたら、その子はチャンスを失う。
(自分の経験が普遍的なものだという幻想を持つ人は多い。)

庶民を見ると、まだまだ多様性がある。
中流から下層へ転落したばかりの人もいれば、筋金入りの下層もいる。
上昇志向の強い人もいれば、むしろ庶民の中を「勝ち組」「負け組」に分類した上で格差の最上位を占める人々よりも「勝ち組」を妬み足を引っ張ろうとする人もいる。
子どもにリベンジを託そうにもそもそも家庭をもつだけの資金がない人にとって、階層を分ける決め手が相続できようとできまいと関係ない。

頭で考えずに、目に見えるものをとりあえず憎む人も多くいる。
近年まで知性が下層から抜け出す武器であったことから、その武器を持った隣人を憎むのである。
生活保護によってなんとか生きながらえるかもしれない人を憎み、生活保護水準以下の収入しか得られないワーキングプアを持ち出して、困窮者が救済されないように願う。
(この人達は家計の赤字に直面したとき、収支全体を見直すことなくやみくもに食費を削るんじゃなかろうか?)
感情的というより、衝動的といった方が良いかもしれない。

「水に落ちた犬は打て」「出る杭を打て」といった庶民の特性が衝動的に発揮されないように願う。
自分よりほんの少しましな状況にある隣人の足を引っ張ったところで、彼に恩恵はないのだから。

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