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視野狭窄
合理主義だけでは…
万能薬探しは…

11月1日

視野狭窄

仕事上なのだが、時折話すのがとても楽に感じる相手と巡り会う。
私の場合、それはたまたま高校教師の配偶者、小学校教師、元養護教員(保健室の先生)、市役所や町役場の職員、銀行員…と
「お堅い」イメージを持たれる職業の人やその関係者ばかりになってしまう。
顧客ばかりでなく、職場でも地域でも子どもの学校のママ友達であっても、親しくなる人を思い浮かべるとなんとなく似ている。

考えてみれば、私たちは高校時代以降、親しくなる相手が性格傾向や知的レベルにおいて一定の範囲内に留まっている人が多いのではないだろうか。
私の場合、社会人になってもつきあっている友人は高校時代以降に仲が良かった人ばかりで、それ以前の幼なじみとはあまり通行がなくなってしまった。
自分と似たような発想をする人、あまり知的レベルがかけ離れていない人、穏やかに話し合える相手、
そうした人とばかりつきあっていると、気持ちが安定して楽なのだ。
自分とはかけ離れた人とは最小限の関わりにとどめておき、人間関係で楽をしてきたのは私ばかりではないだろうと思うのだ。

15歳以後人間関係で楽な学生時代を歩み、そのまま性格傾向や知的レベルが一定の範囲内におさまるような職場に就職してしまったらどうなるのか。
それなりの悩みや苦しみはあるにせよ、言葉が通じる上での悩みや苦しみである。
まったく言葉が通じない(何を言っているのか、同じ日本語とは信じられないほど理解できない)という経験はしない。
具体的には公務員や銀行員、一般企業でも研究開発部門である。

楽をし続け、気持ちが安定している分、性格的には温厚で素直なままである。
そして、一般論として文句を付けられる。
いわく。
世間知らずである、お高くとまっている、融通が利かない。
要は視野狭窄だという非難だ。

表向きは「自分とはタイプが違う人たちとも仲良くやっていきたいので、努力します」と言うべきだろう。
が、やはり、楽をしたいのが本音だ。
視野狭窄で結構、私はお高くとまったままでいたい。

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11月4日

合理主義だけでは生きられない

私自身は合理主義者であり、マキャベリの指摘を待つまでもなく、いつでも同じ原因で失敗する。
<相手も合理的な行動をしてくると想定してしまうこと>
従って、私にとっては合理主義者とのつきあいは本当に楽だし楽しい。
逆に合理主義者でない人の言動は時に理解不能で途方に暮れてしまう。
そんな私が先日思い知らされたのだ、
合理主義だけでは生きられない。

我が家の場合、家事時間は週末に集中する。
中でも最も深刻なのは洗濯だ。
週末の天気が悪ければ万事休す。

しかし、先週末だけはやや特殊な事情が生じた。
娘が1泊する。
日頃思うように動けない私にチャンス到来である。
娘が宿泊する日は早めに帰宅し、翌朝はぎりぎりで出勤する。
そうすれば、夜間ではあるが洗濯できる。

当日は計画通り早めに帰宅した。
主人が帰るまでは私一人だ。
しかも、久しぶりだから外食しよう、なんて提案もされている。
時間はたっぷりある。

ところが、主人の帰宅までの約2時間、私は何もできなかった。
その間の記憶はない。
なんと居間で寝ていたのだった。
私たちは外食して帰ってきて、素直に寝た。
翌朝目が覚めたのはいつもよりやや遅めの時刻。
なんなんだ、せっかくのチャンスを寝て過ごしてしまうなんて信じられない!

娘が帰ってきて、いつも通りの生活に戻った。
まったく理屈に合わないが、娘がいてなにかと時間を取られている方が合理的に動けるものらしい。

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11月10日

万能薬探しはもうやめましょうよ

「これさえ○○すれば万事うまくいく」というふれこみは相変わらず多い。
何も詐欺ばかりでなく、日常生活の常識も同様だ。

たとえば「早寝早起き朝ご飯」、そのこと自体は別に悪いことではないので、私としても糾弾する気はない。
しかし、それをあたかも万能薬のごとく「この生活習慣さえ実践すれば実力が向上する」とまで信じ込むのは危険だ。
私は早寝早起き朝ご飯を実践している。
実態は「嫌な気分で目が覚める」→「時間があるから余裕で朝食」→「体力が限界に達して結果的に早寝」といったところ。
そして、繰り返すうちにどんどん不必要な早起きになってきた。
もちろん「早寝早起き朝ご飯」が実践できているからといって、爽快な気分になることはない。
爽快な気分を得るためには、抱えている問題を克服したり、発想を変えたりすることが重要だ。
そうした問題解決があってはじめて「早寝早起き朝ご飯」が良い習慣として意味を持つ。
逆を期待するのはやりすぎだ。

食に関連すれば、和食にすべきだと説く人は多い。
私も和食は好きだ。
しかし、必ず和食であるべきだ、とまでは信じていないし、
まして和食で育てれば子どもは健全に育つと断言するのはやり過ぎだと思う。
それではまるでカルト宗教だ。
地元で生産された食物を食べるのは良いことだが、地元に拘ると日本のほとんどの地域では砂糖を使う煮物を作れない。
繊維質を取りやすいのが和食の良いところだが、現代人の生活にとっては塩分が多すぎる。
和食も万能ではない。

1つのことにだけ注意していれば万事うまくいってほしい、そうした願望は分かる。
そうなったら楽だろうが、実際には全く同じできごとは2度と起こらないし、
もし2度目があっても、人間は学習しているので同じ行動が同じ結果をもたらすことはない。
その都度その都度自分自身で選択するのは仕方のないことなのだ。

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