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素直に褒めて
背中に教わった思い出
ストーリーは難しい?

2月2日

素直に褒めて

友人達と食事をしていたときのこと。
女同士で会話が弾んだ。
髪の毛量が多い人と少ない人の苦労の違いが話題の一つになった。
少ない人は多く見せるために四苦八苦するし、多い人は広がり思い通りにならない髪をどうするか苦労するのだ。
世の女性には「ちょうど良い」が稀であるらしい、
メンバーの全員が「多すぎる」か「少なすぎる」のどちらかだった。

文句を言ったところで髪量や髪質が変わるわけもないので話題は次へ移っていった。
その後、同じように髪量を話題にしながら、明治大正生まれの髪量の少ないご婦人が多い人を評して何と言ったか思い出した。
屎船のタワシのように毛が多い。

しかし、このご婦人やお友達が仲間内や親戚の子などの容姿を褒めるときは、褒めているのか貶しているのかよく分からない表現を使っていた。
「娘十八番茶も出花」
「馬子にも衣装」
「大男総身に知恵が回りかね」
必ず魅力を割引をしたり、貶すものをセットで言ったりしていた。
貶されずにすむのは、彼女たちが若い頃から活躍している芸能人くらいだった。

どうやら彼女たちは、自分自身についても、自分と同類の人たちについても、貶し言葉が一切入らずに褒められたりすると、お世辞か追従にしか聞こえなかったのではないか。
最初は謙譲の美徳から発生したのかもしれないが、習慣化してしまうと徳は感じられなくなる。
謙遜していると言うより、僻みにしか聞こえないのだ。

謙譲の美徳は難しいと思う。
形だけ取り入れても、心は忘れられがちだ。
理解するのも難しい。
私は素直に褒めておこう。
感心したら、わざわざ貶すポイントを探さずに、感じた通りに伝えよう。
現代の文化の中ではその方法がもっとも簡単なのだから。

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2月5日

背中に教わった思い出

親の背中はまだ想起できない。
まだ親子関係は生々しい、おそらくは「私はもはや現役ではない」と悟ってからになるだろう。

子どもが生まれる前、私はお茶(表千家)を習っていた。
同僚に誘われ、「1回だけ見学させて」とついていき、そのまま入門してしまった。
細かい点も理由を教えてくれるので、お手前のスキルに終わらず、昔風の師弟関係にもならず、理屈っぽい私には最高の教室だったのだ。
実際日本文化の茶道は理屈っぽく数学を愛する人には最適だと思う。
お手前の所作で描かれる軌跡はたいへん美しい。

お茶を習い始めると、書道や華道にも興味が出てくる。
また、着物は自分で着る必要に迫られる。
お茶会では、入門間もない人や妊娠している人以外は着物を着る。
最初は着付けてもらっても、だんだん面倒になり、「(図解)着付けの本」を前に奮闘し始めるという具合だ。

十分に着付けの時間を取っていたものが、だんだんぎりぎりになった。
入門して2〜3年くらいだったと思う、あるお茶会に遅刻した。
複数の教室合同のお茶会で、主人役は持ち回り。そのときは私が属してた教室のメンバーはただお客様でいれば良かった。
私はぎりぎりに着付けて、ぎりぎりにタクシーに乗って、おしゃべり好きで目的地を通り過ぎるタクシー運転手に当たってしまったのだ。

私を待っていた先生は、とにもかくにも欠席にならなかったことを喜んでくれた。
なぜ遅れたか、このときもその後も一切訊かれなかった。
先生は始まったばかりの立礼の席に私を伴って入った。
亭主が入場したばかりだったので、私もホッとしたが、同席していたお客方も同様だっただろう。
お手前は何事もないかのように始まり、和やかに終わった。

退席直前、先生が立ち上がり、場の雰囲気を乱したことを主人方、お客方にお詫びした。
私はただ先生の背中を見つめていたのだった。
先生が頭を下げたことで全員が納得した。
そしてお客方にはもちろん主人方にも何も残らなかった。
しかし、私にはこの遅刻は自分自身の恥として残った。
責められないこと、上位者に責任を取らせたことの苦しさを思い知らされたのだ。

私にあのときの先生と同じ振る舞いができるか、それはまったく自信がない。
まずは「なぜ?」と詰問してしまうだろう、
謝りつつも「私は本当は悪くないの、この人が悪いのよ」オーラを発散し続けるだろう、
その後に当人が本当に反省したかどうか確かめようとせずにはいられないだろう。
人の品格について考えるとき、まず思うのは先生の背中なのである。

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2月19日

ストーリーは難しい?

ある人のブログなどに不思議なコメントがつくことがある。
コメントはあきらかに全体を読み取って書かれてはいない。
コメントで展開されている主張にとって都合の良い文字列のみを取り出しているのだ。
コメンテーターにとって必要な文字列はせいぜいトータル3行程度。
もともとの文章を書いた人にとっては、文章の9割以上を無視された上、主張した覚えのないことについて絶賛または糾弾を受けることになる。
もとの文章を書いた人はしばしばこう答えるのだ。
「全部読んでからコメントしてください」
そして、それは何の解決にもならない答えである。
話は平行線、というよりは段違い平行棒状態で終わってしまう。

そこで言われるのは、
最近は日本語能力が落ちている、
ゆとり教育の弊害だ、
インターネットが悪い、
等々。
いかにも近年だけの問題で、年長者には何の問題もないかのような口ぶりである。

しかし、少なくともアライグマの問題はネットや最近の若者には罪がない。
アライグマはペットとして日本人の家庭にやってきたが、世話を放棄されたり脱走したりして野生化し、地域に害を及ぼすようになってしまった。

そもそもアライグマという野生動物がペットにされたのは、「あらいぐまラスカル」という魅力的なアニメが原因だと言われている。
そんなバカな?

「あらいぐまラスカル」ではラスカルが成長して野生動物らしい面を見せ始め、飼い主の少年スターリングが振り回される様子が丁寧に描かれてる。
また、手作りのカヌーに乗せて自然豊かな森に放してやってもダメだったのに、最終話では(アライグマの女の子の助けもあって)ラスカルは森に帰っていく。
「故郷の」森であることが大事だと、しっかり表現しているのだ。
このアニメを物語として見ていれば、
アライグマが野生動物であってペットではないこと(ラスカルは目が開かない赤ちゃんの頃から人間に育てられたのに野性にかえってしまった)、
飼い主が「動物は自然にかえした方が幸せ」と思い至ったときはその動物の故郷であることが重要、
というメッセージを受け取れる。
これをペットにするというのは真逆の発想ではないか。
ましてや、アライグマにとって縁もゆかりもない日本(スターリング少年のカヌーくらいではやってこられない!)に突然放り出すとは乱暴な話である。

「ラスカルのアニメを見てアライグマを飼う」と「文章全体ではなく、都合の良い文字列トータル3行分だけ抜き出し、猛烈な絶賛または反論を展開する」とは似ていると思う。
両者に共通するのは、全体のメッセージを受け取ってくれないこと、および知的能力はあんがい高そうな雰囲気を持っていることだろうか。
彼らは「自分の主張を通すためにわざとやっている傲慢な人」とか「全体のメッセージを読む能力に欠け人る」というより、
自分の見たい文字列や画像だけを抜き出す能力が異様に高い人(超能力者)…なのかもしれない。

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