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会社の規模に合わせて 「日本史必修」も悪くない どっこい生きている

3月1日

会社の規模に合わせて

コンプライアンス重視の流れは止まらない。
昔から「顧客絶対」の業界もあれば、「かつては企業側の都合を優先できたが、現在は顧客を優先しなければならない」業界もあるだろう。
その潮流は教育現場にも及んでいる。
学校教育を論じたがる人は多く、その主張するところもまちまちだ。
「顧客」にあたるのが生徒なのか保護者なのか、あるいは第三者なのかははっきりしない。
したがって、学校教育論には現場の教員非難を繰り返すだけのモノもある。
企業の教育は「顧客」がはっきりしている点が良い。
外部から企業の教育を非難する声がほとんど上がらないのはそのためだと思う。

企業の教育に対して反発するのは、しばしばその教育を受ける社員である。
特に「昔はこれで通用した」「私は先輩からこのように教わった」方法を禁止される場合などは激しく抵抗するだろう。
研修を終えたばかりの新人に昔流を教えようとし、従わない新人を非難するかもしれない。
「私は会社のために(不正を)働いている」と胸を張るベテランさえいるかもしれない。

もちろん、不快な思いをした顧客がしかるべき措置を執れば、企業の信用は低下する。
そこで企業としては忠誠心あふれる社員の方向性を変えようと努力する。
(努力をしない、くだんの社員と同レベルの経営者はこの際例外とする。)

大手なら社員教育に力を入れられる。
中小零細はもちろんしばしば中堅企業でも、研修のための余力はない。
どうするのだろう?
給与や出世のシステムをいじって個人の損得勘定で操作してしまうようだ。
禁止した方法であげた功績をノーカウント(またはなんらかのペナルティ)にするばかりでなく、
通常なら問題がなくても悪用すれば禁止した方法を行いうる…可能性を片っ端から潰してしまう。

なるほど、と感心した。
会社ぐるみの犯罪では企業の規模にかかわらず瞬時に信用は失墜する。
が、末端が不正をはたらく場合は、そのような行為に走るのは一部である。
その地域の人々は不正をはたらかない大手企業の社員を多く目にするだろう。
教育によって時間を掛けて確実に、社員にコンプライアンス意識を浸透させていても、信用は回復できる。
しかし、小さな会社では間に合わない、ということなのだろう。
問題社員が顔を出していた範囲は大手問題社員のそれよりずっと広い。
会社の規模によっても工夫の仕方は違うものだ。

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3月8日

「日本史必修」も悪くない

大学受験をにらんで他教科との調整も必要だが、「日本史必修」は決して悪くないと思う。
私たちの先祖が歩んできた道を振り返るのはむしろ必要なことだと思う。
そして、いい機会なので、この際大人になった人々も高校生の教科書を借りてみてはいかがだろう。
地元の資料館などに足を運べば尚良い。
来日している外国人の中には、日本人との話題作りのために日本史を勉強してきた人もいる、
受けて立つこちらが無知では格好悪い。

高校生が学ぶ日本史だから、「○○年、(エライ人)が××を命令した」の機械的暗記に終始することはない。
たとえば、最初は旧石器時代や縄文時代の文化の話だろう。
氷期が終わって気温上昇し、海水面が上昇してくる時期だ。
同じ採集経済(採集・狩猟・漁労)に見えても、方や本当にその日暮らしで方や保存(貯蓄)の発想を持つ。
たとえば、律令制について学ぶだろう。
政府は浮浪や逃亡の対策として初期荘園を認めていく。
逃亡は文字通り逃げ出すのだが、浮浪は口分田の耕作を放棄しているだけで納税はしているのである。
そこで私たちは為政者がどんなに理想に走ってもできないものはできないのだと知る。
いくら稲が連作障害の起こりにくい作物だといっても、当時の技術力で一定の土地を使い続けることは不可能だったのだろう。
たとえば、戦国時代なら信長の事業を年代別に見ていくだろう。
そこで信長がもっとも苦戦した相手が石山本願寺の門徒であることが分かるだろう。
鎌倉時代に、自然の地力回復スピードを人の手で早める施肥が発明された。
その新技術は普及していき、完全な定住耕作を可能にするまで生産力を押し上げたのだ。
武士ばかりでなく農民にとってもその土地は懸命に守るものとなった。
だからこそ領主とも戦うようになったのだ。
そんな彼らが同じ宗教で結ばれたら、とても強いだろうと納得がいく。
信長は勇猛な農民達を押さえつけることに成功した最初の支配者だ。
明治維新の頃ならもっとおもしろい。
為政者も庶民もいきつもどりつ近代化を遂げていく。
学制は必要ないと一揆を起こす農民達もいる、
一方で農村在住者が私儀憲法の草案を書いてもいる。
高校生にもなれば、丸暗記したものを素材に、歴史から学んでいくのだ。

小中学校で歴史を学んだだけでは「歴史を作ってきたのはエライ人達」と誤解してしまう生徒もいるだろう。
そうではない、
歴史を作ってきたのは日常を精一杯生きた庶民達なのだと、高校で歴史を学んで初めて理解できる生徒もいるかもしれない。
それが世界史からであっても構わないが、日本史の方がより身近で良いと思う。

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3月20日

どっこい生きている

「No Music , No Life」のパロディ「No Music , No Problem」巧いことを言うものだと感心した。
むしろ「No Music, No Troble」だろうか。
少なくとも現代商業音楽は、気軽にコピーして演奏したり、気軽に口ずさんだりするものではない。
(報酬の有無は関係ないそうだ。)

こうした時代に人気を誇っているボーカロイド。
ボーカロイドを駆使した作品群を見ていると、まさに日進月歩である。
すぐれたオリジナルの楽曲が次々登場し、それら動画は既存の音楽番組よりも見応えがあったりする。
そして、1人の卓越した才能が作り出した作品はそれだけに留まらない。
作者の意図しなかったコメントなどが付き、作品は生き物のように変化していく。
さながら現代の連歌だ。

かつて音楽は庶民の手が届く楽しみだった。
商業音楽が高価なものになってしまっても、市井の芸術家達が高品質な音楽を作り出す。
庶民はしたたかなのである。

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