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環境至上主義に異議あり
極悪非道
人を呪わば穴二つ

7月1日

環境至上主義に異議あり(実は「二酸化炭素ばかり騒ぐのに異議あり」)

世の中には「ちょっといい話」がある。
「一杯のかけそば」や「水は答えを知っている」など、よく考えると変だがちょっと聞く分にはいい話だ。
おとぎ話として子どもに話してやるには悪くない。
クリスマスイヴに赤い服を着てトナカイのそりに乗って世界中の子どもを訪問するサンタクロースのように、すてきなファンタジーだ。

だが、成人になった人までもファンタジーをファンタジーとして認識できないような迷信は問題だ。
血液型占いはその場を和ませるネタであるうちは無害だが、あまり真剣に信じる人がその場に含まれるとA型絶賛やB型バッシングへと発展していくことがある。
ましてうっかり「たかが赤血球表面にくっついてる糖の型」などと発言しようものなら、非難を浴びてそれ以降の交際に支障を来したりする。
「水は〜」も血液型占いと似た脅威になってきたのではないかと思う。
それ以上に「二酸化炭素による地球温暖化」は凄まじい脅威になりつつある。

個人の生活に環境保護の視点を持ち込むこと自体はすてきなことだと思う。
環境保護のために何かできることがあるならそうするのは良いことだ。
だが、最近の環境問題と言ったら、地球温暖化ばかりだ。
それも、環境問題には複合的な要素が絡んでいることを指摘するのも憚られるほど、温室効果ガス単独犯人説がまかり通り、温室効果ガスと言ったら二酸化炭素以外にはあり得ないと言わんばかりの偏向振りだ。

やっていることそのものにさほどの反対はない、しかし何かがおかしい…
釈然としないながらも環境保護活動をしていた人は案外多いのではないだろうか。
そして昨今の話題の中心は排出権取引だ。
悲しいことに違和感の正体が分かったのである。

今や水が完全に商品になってしまったように、空気までも商品化されようとしているのだ。
それも、金融のような目に見えない商品として。

種々の環境問題のうち、二酸化炭素の排出だけを騒ぐ必要はない。
個人レベルで満足できることをやればいい。
環境問題は総合的に、理性を以て見直していきたい。

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7月7日

極悪非道

フィレンツェ大聖堂に日本人名の落書きがあったので、日本国内では騒ぎになった。
現地で油性マジックを売っていたとはいえ悪事は悪事、
しかし異常な騒ぎで私は日本むかしばなしを思い出してしまった。

父娘2人暮らしの家で娘が病気になった。瀕死の娘が欲しがったのは小豆粥だった。だが、赤貧の家に小豆を正規に買える財はない。父は悪いことと知りながら小豆をひとつかみ盗んだのだった。娘は奇跡的に快復した。
しかし、娘が快復して手鞠歌を歌ったところから父の窃盗が発覚し、父は人柱にされてしまうのだ。

些末な悪事を徹底的に糾弾しようとする世論は、恐ろしい人柱の風習の復活を示唆するのではあるまいか。

市原悦子さんのナレーションでは、人柱には悪人が選ばれるのだが、このときはたまたま該当者がなかったので、些細な悪事でもこの父親が選ばれた… となっていた。
もちろん、そんなことはない。
悪人であろうとなかろうと、人柱は立てなければならないのだ。
なにせ神様は仕事の際にはきっちり支払(人命)を要求する。
しかも前払いである、人間がよほど信用できないに違いない。
しかもしかも、きっちり支払はしても良い仕事をしてくれるとは限らないのだ。

これが西洋の神は唯一絶対神なだけに極悪非道っぷりにも輪がかかる。
たとえば「ヨブ記」(旧約聖書)では、神は信心深いヨブの財産を取り上げ、家族を殺害し、本人の健康も著しく害する。
ヨブを徹底的に虐待し「それでも神(自分)を信じるか」試すのである。
どんな拷問にも耐えて信仰を貫いたヨブに、神は財産と健康を返し、替わりの妻子をあてがう。
私は異教徒なので、神の所業に恐怖しか感じない(信者ならヨブの信心を見習おうと誓うだろう)。

そうか。神がでてこないだけ現代の方がましである。

神に比べれば、鬼だの悪魔だのはまだ可愛げがある。
支払は必ず後払い、また代価は必ずしも人命とは限らず身体の一部や結婚を要求したりすることもあり、さらに「自分の名前を言い当てれば支払免除」などの特典まで付けてくれるのだ。
むしろ人間の方が特典を利用したり、時には詐欺的な手法で支払を免れたりする。
それでも鬼悪魔の類は人間を信用するのだから、彼らに学習能力がないのか、あるいは人間を信用せざるを得ない事情があるのかもしれない。

現代では鬼悪魔もでてこない。
よく考えれば、鬼悪魔は優れた能力を持ちながら、それ故に人間から疎んじられてきた。
悪事を働けば英雄に殺され、時には悪事を働く前から(あらかじめ罪を犯すだろうと見越されて)殺される。
そのような存在はない方が良い。

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7月21日

人を呪わば穴二つ

まだ新卒で正規従業員として就職し、滅多に転職しないのが当たり前だった頃。
男女どちらがやってもいい職種の求人があった。(製造業である。)
その職種なら男女不問であろうと思われたが、是非女子がほしいという。
当時は、男女どちらがやってもいい職種なら、「どちらでも」か「是非男子」を望むのが普通であった。
どういう事情だろう?
すると、工場長さんは「安い賃金しか出せないから男子を使うのは憚られる」と答えてくれた。
工員さん達も同じ考えで「うちの職場は女子には良いよ」と言っていた。

「女子ならその労働力を買いたたいても良いのか」とつっこむのは気の毒なほど、その企業は善良であった。
安い労働力を求めていることをオープンにしていたからだ。
「女子でも頑張ればチャンスはある」などという欺瞞はなかった。
やる気のある女性は他に行けばいい(事実当時の高学歴女性は外資を目指した)。

とはいえ、やる気のある女性すべてが性差別の少ない企業に就職できたわけではない。
同一労働同一賃金など絵に描いた餅だったし、そもそも職種を分けて同一労働にはならないように工夫されていた。
成果が女子と同じだからと言って男子の待遇が引き下げられたら、当該男子はどんなに憤ることかと思った。

まさか本当に男子の待遇が引き下げられるような事態になるとは夢にも思わなかったから、「一度女子並にされて悔しさを味わうと良いよ」と不用意に言っていた女性もいた。
女子労働力を買いたたいてもたいした問題にならなかったのは、家計の主たる担い手がほとんど男性だったからだ。
しかし、家計の主たる担い手になっている女性に対する配慮を、経営側がしてこなかったのはもちろん労働側も求めてこなかった。
今になって考えれば、これは何としても勝ち取るべきだったのである。

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