[ 伝説の輸入盤LP   ロジカル   大多数の女は喧嘩下手   歴史認識   女ならいつでも恋をしていなくちゃ! ]

5月27日

おとうさんといっしょ

本日、娘の学校の奉仕作業(除草)に行ってきました。
やってくるのは、勿論、専業主婦か失業中の母親です。一昔前と違って、有職の母親が参加しないことに表だって怒りをあらわす人もいませんでした。
彼女達の中にも、出産前は働いていた、それも「どうせ腰掛け」という意識ではなかった人が多数含まれているからでしょう。
女が女の足を引っ張る時代もようやく終わりつつあるようです。

こうした状況で父親達は参加しづらいのですが、たったひとり参加してくれた人がいました。
まずは彼の勇気に拍手。
「男なんだから、アレやって、コレやって」とこき使われていなかったかやや心配ですが……大丈夫だったかな?

さて、彼のような勇気ある男性は別にして、父親達はPTA活動に参加しないことが多いのです。
有職の母親達に比べても、ぐっと参加率が低い。
(少なくとも、有職の母親が仕事の都合を付けて活動に参加しても、絶賛されることはありません。)
これは父親の個人的資質だけでは片付けられない問題だからです。

有職の父親や母親達が活動に参加する場合、それが休日ならば休みたいのを堪えなければなりません。
平日なら有給休暇を取れるように交渉する必要があります。
有職の母親なら、ここまでで済みます。
ところが、父親の場合(特に保守的な地方では)、それですまないことがあります。
就業する意志が全くない人が多数いるに関わらず、彼に“長”の役職が付く可能性が格段に高いのです。
しかも根拠らしいものはなく、「だって、男の人がいるんだもの、ねえ?」という無茶苦茶な説得を試みられるのです。
こうした事態が想定されるので、有休が取れそうか確認することなく、不参加を決め込むのです。
誰が彼を責められるでしょう?

かくして「子どもの教育のことだから、できる限りのことをしたい」という「おとうさん」の気持ちは踏みにじられます。
都合が付く時だけ参加したい、このごく当たり前の姿勢は許されません。
したがって、善良な父親達は排除されてしまうのです。

しかし、子どもの成長にいろいろな大人が関わるのは重要なことです。
「昔よりも今がいい」主義者の私ですら、子育て環境の悪化は認めざるを得ません。
現代の子どもに関わる大人の「種類」は、昔に比べて圧倒的に貧弱なのです。
母親が家庭に「還って」一人何役もこなせば解決すると言っている?識者もいますが、現実に子育てしている母親としては大いに疑問です。
PTA活動が母親によってのみ運営さている現状は、「おとうさん」という強力な教育資源の無駄遣いです。

そこで、現状を改善すべく提案を致します。
PTA会長、副会長以下、諸役は原則母親がつく。(「是非やらせてくれ」という父親がいれば話は別。)
そして父親は実行部隊(臨時)とする。
「名簿の名前だけでも父親に」というのもやめましょう。
実際には(臨時)の父親にも、実質的役員の母親にも失礼というものです。
(因みに、娘の学校では今年も去年も役員は全員母親です。自身は役員でもない人に限って「女がやるのはヘンだ」と言います。彼女達の意識がすっかり変わることはないでしょうが、こうした「おとうさん排除勢力」はどんどん弱めていくつもりです。)


5月17日

伝説の輸入盤LP

最近、クィーンやプリンスの曲を街やTVなどで聴くことが多くなりました。
トリビュートアルバムなども本当に多く出ています。
現在の30代40代の人々がティーンズだった頃に流行したものがまた売れているということらしい。
懐かしいですね。

日本では生意気盛りの頃に英語を習い始めるせいか、英語の歌または英語を使った歌が若い人に好まれます。
私が生意気盛りだった頃も同じでした。
ラジオから流れてくる曲を聴きながら、
(テレビは両親や弟たちが観ていました。それは流行のドラマであったり、「ザ・ベストテン」だったりしました。)
誰のLPを買うべきか真剣に悩んだものです。
当時LPは1枚2500円、私のお小遣いでは年に何枚かしか買えませんでした。
(書籍代がまた膨大だったのです。)

当時から輸入盤が安いことは知っていました。
それでも高価な日本版を購入していたのは、歌詞カードの魅力が大きかったのです。
歌いたい、でも何と歌っているのか分からない、という状態だったのです。

その夜もいつものようにラジオを聴いていました。
でも、私の耳はその夜を境に変わったのです。
ラジオから流れてくる英語がはっきりと聞き取れたのです。
記念すべきその曲は、クィーンの「伝説のチャンピオン」でした。
クィーンだけでなく、その週のヒットチャートは少なくともサビのフレーズは聴き取れました。

初めて輸入盤を購入し、LPに針を落とした時は、もうドキドキ。
聴き取れるかしら? 分かるかしら?
(因みに、このLPはドナ・サマーの『ヘブンノーズ』でした。)
安いから、それもあります。
でもそれ以上に重要なのは、歌詞カードの助けなしに聴き取れるかどうかになっていました。
私にとって輸入盤とは英語の力試しだったのです。

ところで、私が生意気盛りだった頃といえば、子どもや若者はアイドルの歌(一部は洋楽)を聴き、大人は演歌を聴くものでした。
ある年齢に達すると、それまでの趣向を止めて演歌好みになりましたから、不思議でした。
現在は本当に個性化が進んでいますね。
他の人と好みが少々違っていても、蔑むような視線で「変わり者」と言われることもなくなりました。
もっとも、CD売り上げの伸び悩みの原因は、かつてはレンタルショップ、現在はウィニーだとのことです。

CD売り上げの伸び悩みの原因は、その他に輸入盤にもあるとのことです。
消費者が安い方を買ってしまうので、音楽業界を圧迫しているという理屈です。
「アジア各国・地域で売られている邦楽CDの逆輸入を防止するための」法案が参院を通過しました。
ところが、これは日本人アーティストCDの逆輸入だけの話ではありませんでした。
日本の消費者には高い高い定価で買ってもらおうという内容になってしまいました。(詳しく見る。
日本の音楽業界もさることながら、利幅が上がるアメリカの音楽業界では大歓迎しています。(詳しく見る。

私はもともと「規制や管理で手っ取り早く解決しよう」という発想が嫌いなのです。
ですから、感情的な意見の一つかもしれません。
ですが、消費者が商品を選択する時は、その人の様々な事情やら思い入れやらがあるのです。
消費者が規制や管理によって選択権を奪われ(つまりは価値観や判断を否定され)ることによって、発展する業界など本当にあるのでしょうか。
それとも、「発展は淘汰とニッチの開拓の先にあるのだ」という私の考えの方が、甘い非現実的なものなのでしょうか。


5月15日

ロジカル

昨晩、私よりも少し若い女性から「(彼女自身も含め)彼氏・恋人・夫よりも交渉術に長けた女性が多い」との反響をいただきました。
つい拍手してしまいました。私の周りではそうはいかない。
地域差の検証はできませんが、年代差は小さいように思えます。
私達より年上の世代の女性は、万事出しゃばらないことが要求されました。
若い女性は、一見自由ですが、恋愛による拘束はむしろ強まっています。
t.A.T.uという女の子2人組が「背徳的・官能的」な魅力で人気を誇っていたのですが、私には彼女達のどこが背徳なのかさっぱりわかりませんでした。
若い女同士で手を繋ぐなんて当たり前。
そもそも女が「男より女といる方が心地よくて好き」なのが、どこかヘンですか?
NHK教育の海外ドラマで、アメリカの高校生が男女ペアでなければパーティにも参加できない状況が描かれます。
なんと不自由な風習だと思っています。
ところが、若い女性の感性はかなりそこに近いようです。
やはり個性の問題かと考えられます。

それでも敢えて、私の周囲に見られる女性の喧嘩下手の原因を探ってみます。
今朝TV番組で年金未納問題が取り上げられていました。
司会のみのもんた氏が菅氏の妻の発言を取り上げ「泣き崩れるべきだ」とコメントしていました。
私も「あれはまずい」と書いた方ですが、さすがに「泣き崩れるべきだ」とは考えませんでした。
そこで思い出したのが、元非行少女の思い出話です。
喫煙の補導をされた時「女の子のくせに泣きもしない」とお門違いの非難をされたそうです。
昔ほど露骨でないにしても、未だに「女性は論理的であるべきではない」といった圧力が存在しています。
ロジカルであることは一般女性の唯一の武器と言って良いでしょう。
腕力に劣り、ドスの利いた声を張り上げることもできず、自己抑制もできる人には、論理しか武器になるものはありません。
問題の焦点がずれないように注意しながら、使っていきたいものです。

女性を論理から遠ざけたいという圧力は、喧嘩下手な男性が広範に存在することを示唆しているのかも知れません。
先週は「怒るべき事柄を失念して軽くみなされる」男性を書きましたが、別の喧嘩下手もいます。
同じ主張を繰り返すが、言うことが思いつかないので、音量を補強する男性。
怒鳴るだけ怒鳴ったら満足して終わり。問題は放置されたままです。
女性(特に長女)と同じ行動パターンを取ってしまう男性。
争わず、自分が我慢することで問題解決を図ろうとするも、「我慢するべき人間」として位置づけられます。
やはり喧嘩は喧嘩上手に学びましょう。


5月7日

大多数の女は喧嘩下手

高遠氏が弁護士を通じてコメントを出していました。
彼女のコメントを見るたびに胸が痛みます。
自分自身の名誉欲が絡んでいないだけに、5人の中で彼女は最も弱い。
そこに集中砲火されています。

「弱きを助け……」などというセリフがありますが、あれは大嘘です。
「弱い者を見つけたら、完膚無きまでに打ちのめせ」のセオリーに従っていますよね。

彼女が女だということもあると思います。
くやしいけど、本当に女は喧嘩の仕方を知らない。
実際の拳を使った喧嘩は言うに及ばず、すべての争い事において下手です。
いいように足下をすくわれ、たたきのめされています。
「オンナはすぐ感情的になるよ」と感情論を封じられて、巧みに論理をすり替えられているのに、異議を唱える時機を逸してオタオタしています。
「喧嘩は良くない」なんてすましてはいられません。
弱いと知られたら、叩かれて当たり前。
「誰も弱きを助けようとはしない」と了解している男性達に学ぶしかないと思います。

高遠氏とは違いますが、私達の身近でも女性全般の喧嘩下手っぷりを見聞きします。
交渉の際、妻が行っても全く相手にされないという事態が起こるのです。
結局、ご主人が会社を休んで出ていかないと、埒があかないのです。
「仕事の都合で、妻に全権を委譲したのに、認められなかった」「妻がまともな成人として扱われなかった」という屈辱に対して、夫婦で怒るのが当然ですね。
夫が支持してくれてはじめて「あそこで怒るべきだった。せめて不快感を表明すべきだった」と思うのですから、完全に負けています。

ところで、ご主人の中には異常に寛容?な性格の人がいます。
まずは夫婦の決定を無視されたことに対して怒りを表明しておかなければ、軽い人格とみなされ、交渉の主導権を取られてしまいますよ! 私ですら、分かります。
それなのに、妻が軽くあしらわれたことを問題にすらしないのです。
男性がこんな女並みの稚拙な喧嘩をしていたのでは、あっさり丸め込まれるのではないかしら。
妻は「夫を呼んできなさい」と言われて大人しく引き下がるようなだらしなさですから、お話しになりません。
何だか気の毒になります。
喧嘩は喧嘩上手な男性に学びたいものです。


歴史認識

アメリカ軍によるイラク人虐待について、ブッシュ大統領が日本で言うところの「大変遺憾である」という発言をしていました。
「遺憾」が謝罪の一種かどうかは意見が分かれるところで、NHKでは謝罪としていましたが、他では謝罪という表現はしていませんでした。
戦時あるいは戦後の統治下で何が起こるか……日本では身を以て体験させられた方がいらっしゃるし、私達もそうした話をそっと聞いています。
「対テロ戦なんじゃなかったの?」と言いつつ、「やっぱりそうか」との感はぬぐえません。

日本で起こったのと同じことがイラクで起きても、少しも不思議ではありません。
でも、国際的には「非人道的」「許されない」との非難が轟々と渦巻いているわけで、
今さらながら、戦後の日本で、沖縄では現在でも尚おきていることは「本当はあってはならない」事だったのかと再認識する次第です。

さて、いきなりイラクと日本の歴史を重ね合わせてみましたのは、昨晩読んだ素晴らしいブログの影響なのです。
(例によって主人の紹介です。)

歴史的トラウマという、私には全くなかった発想でアメリカ社会を読み解いています。
そもそもアメリカとは、不当な暴力によってネイティブアメリカン(インディアン)から先祖伝来の土地と権利を取り上げて建国した国です。
それゆえ「内なる良心」の呵責から目を背けるために「民主主義を成立させるためには多大な犠牲をともなうものだ」と正当化する必要があり、過剰な暴力(原爆など、抵抗できない相手に「これでもか」と攻撃し続けること)を使わざるを得ないのだそうです。

勿論、私も、原爆は過剰な暴力だと思うし、原爆を美化して語るアメリカ市民に憤りを覚えています。
それでも、原爆とイラクへの攻撃が重なることはありませんでしたから、本当にこの方の論には衝撃を受けました。

「建国とは、また古い話だ」と思われる方には、「文字文化に慣れた感覚には古くても、無文字文化なら古くない」と捕捉しておきますね。
最長700年くらい伝承することができるそうです。
トラウマは文字ではありませんから、世代間で長く継承されても不思議はありません。

もひとつ。男性はそれで説明できても女性はどうなんだ、に対する私の答え。
西欧は東アジアなんかよりよっぽど男尊女卑です。
アジアでは「人には男と女の2種類がある」けれど、西欧で人とは男を指し、女とは「その妻」です。
歴史の舞台で演じるのは、西欧でも東アジアでも男です。
東アジアの女は裏方で照明係や大道具係をやっています。
西欧の女は幕間のお色気コメディでセリフなしの役を演じます。
西欧の男は裏方で走り回るアジアの女を見て「アジアは野蛮だ」「酷い男尊女卑だ」と言います。
性別や民族で分けず、各自が自分にふさわしい役柄を持つのが理想ですが、西欧よりは東アジアの方がまだ達成の可能性が高いと思います。
ごく普通の女が社会に及ぼせる影響は、西欧ではぐっと小さいのです。無視できます。

では、歴史的な発想を得て、アジア女として「アメリカの過剰な暴力をどう考えるか」です。
もっとずっと単純な意見になりました。
成功体験が過剰な暴力を支持させていると考えます。
建国の時も、日本をたたきのめした時も、暴力を徹底させることによって、成功してきたのです。
(すみません。「少しのイジメなら発覚するが、徹底したイジメなら被害者が死ぬまで発覚しない」という小学校のイジメに似たような考察で恐縮です。)
ベトナムだけが成功しませんでした。だから、ベトナムを語るのを嫌がるのです。


5月5日

女ならいつでも恋をしていなくちゃ!

そんなバカな!

現代の恋愛を「安定的な繁殖相手を得て、維持するための手続き」と言っていいのかどうかは分かりません。
でも「恋は戦い」。餌や繁殖相手を得るための競争と同じ種類のものと見て差し支えないでしょう。(勿論、同性の友人とは棲み分け戦略を取ろうとする傾向もありますね。)
恋愛が競争の一種であるなら、当然諦める方がでてきます。

競争に負けた動物は静かにしています。
負けたから次の戦い、というわけではありません。
年がら年中戦い続けるというのは、人間によって狭い実験空間に閉じこめられでもしない限り「自然」ではないのです。
むしろ、「体力や気力が快復していないのに、無為に戦いに参じていって、あたら力を磨り減らし、本当に弱くなってしまう」という愚を犯すのは、人間くらいじゃないかという気もします。

そこで、冒頭のキャッチコピーです。
とても戦いとは言えないような、リスクのない「恋愛」の勧めと受け取るなら、納得しましょう。
しかし、これが「トリスタンとイゾルデ」以来さすところの「恋愛」状態をつねに維持せよと言うのであれば、あまりに非道です。
普通の野生動物に認められている休憩が、人類のメスには認められないとでも?
まさか!

耳障りがよく洒落てはいても、非人間的(冒頭のコピーはそれ以上に酷いと思いますが)なものがあります。
ご用心、ご用心。

※ 「恋愛」の発明が中世ヨーロッパだという説に従って古い例を出してみました。「好色一代男」でも差し支えありません。


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