[ 食育 PartU   楽しく勘違い   不合理の押しつけに反対   殺人は人間の通常の死ではないことを知ってほしい   私達は「アメリカの手先」なのだろうか? ]

6月28日

「選手に自分の思いを押しつけちゃいけねえよ」

この名文句は競輪解説者の工藤元司郎氏の言です。
競輪のように、熱中しやすいスポーツであるからこそ、対象(この場合競輪選手)を冷静に観察し判断することが肝要だということです。
「自分自身を知れ」というのはよく言われることですが、「愛する人やものを知れ」ということは案外言われません。
以前「『己を知り、敵を知れば百戦危うからず』の『己』と『敵』は同じことであり、要するに自分を知れと言うことだ」と説教されたことがあります。
お説教してくださった方には悪いのですが、諺に関しては工藤氏に一票。

『敵』すなわち対象が人間であった場合、その日の好不調もあります。日々の成長もあります。
誰かと関わって、人間的に大きく成長することもあるでしょう。
「この人はこういう人だ」と思い込んでいても、正しい部分も「もう過去になって今は異なっている」という部分もあるでしょう。
いつの間にか「私が知らなかった彼」が育っていくのは、当然のことなのです。

――そんなことは言われなくても分かっている。――
誰しもそう思います。
それでも、相変わらず、「私が知らなかった彼」を許せないという人情も分かってしまうのです。
家族や恋人、親友のことはすべて知っていなければ気が済まない……
そんな人を私達は嗤いますが、本当は嗤えないことを知っています。

日常生活を送る中で目を背けている認めたくない事実。
熱中できるスポーツは、たまに現実を思い知らせてくれます。
思い入れを持っていた選手が年を重ねたことや、若造がすっかり成熟して強くなったこと。
選手達の方は自分自身をしっかり心得ていて、年を取ったなら取ったなりに、体調をどう調整していけばいいか知っています。
いつまでも若いつもりにしがみついたりしていません。
やはり、自分自身よりも愛する者の方を冷静に観られないのです。

愛する人であればあるほど、肝に銘じておきましょう。
「選手に自分の思いを押しつけちゃいけねえよ」


6月24日

食育 PartU

私は10代と20代、全く違う方法でリバウンド無しのダイエットに成功しています。
まずは2つのやり方を紹介します。

10代。高校3年生でした。
中学3年生と高校3年生は思いがけずに肥ってしまう女子が多いのです。(「急激に運動する時期と運動しない時期が入れ替わる」というこの受験システムを改善すべきだとは思いますが、またの機会に。)
冬休み直前に、気が付けば太め。
そこで、「消費カロリー>摂取カロリー」にすればいいと単純に考え、摂取カロリーを大幅に削ったのでした。
食事で取る以外の砂糖は原則禁止とし(ジャムと蜂蜜はOK、お菓子類は友人との付き合いに限りOK)、夕食のご飯をおじやに換えて、繊維質を多く取るようにしたのです。
1ヶ月1kg減少を6ヶ月という計画でしたから、1日の摂取カロリーも2000kcal以下にはしませんでした。
(蛋白質やビタミン・ミネラルの所要量は確保すると、1200kcalなどというダイエットは不可能なのです。)
結果は6ヶ月で7kg減。

20代では、カロリー制限は一切しませんでした。
とにかくゆっくり走る(いわゆるLSDです)。
競技に出て、良いタイムで走れた時の体重は一定でした。そこから多くても少なくてもダメなのですが、1kg以上の誤差は生じませんでした。
何をどのように食べても、中長距離走をやっている限り(私の場合は20代を通じて)、体重も体脂肪率もほとんど変わりませんでした。
とても楽だったので、これを「ダイエット」と呼ぶにはためらいがあります。

20代で大変楽なダイエット方法に巡り会いました。
今の私はダイエットを考える時にはカロリー制限すればいいという考えはありません。

多くの人(特に思春期の少女達)が「ダイエット=カロリー制限」と信じているのは、近代科学の影響もあります。
近代科学の特徴は「要素還元主義」です。
どのような現象でも、細かい構成要素に分解していき、究極の要素を見つけだせば、説明がついてしまう……というものです。
したがってダイエットの場合は「摂取カロリー」「消費カロリー」という要素から説明ができるのです。

しかし、動物の身体は機械ではありません。
摂取カロリーが急激に減少すれば、それは飢餓状態なのですから、身体は筋肉量を減らし、体温を下げ、消費カロリーを押さえることによって飢餓を乗り切ろうとします。
ダイエットにとりあえずの成功を収め、食生活を元に戻すと、カロリー節約型になった身体はたちまち次の飢餓に備えて皮下脂肪の貯蓄に励みます。

「要素還元主義ばかりではなく、全体的・包括的な視点も必要だ」
20世紀の半ば過ぎから、近代科学に対するアンチテーゼが出てきました。
その中の一つが現在話題の「食育」です。
栄養素に分解してすべてを説明しようとする近代栄養学に対して、生物としての人間、民族の食文化といった視点まで導入したわけです。
(勿論、まだまだ議論の余地が多いです。以前に書きましたから、今回は省略。)

さて、ここまで読み進まれたところで、テレビや新聞で報道されている「食育」と、ここに書かれている「食育」が大きく隔たっていることに気が付くでしょう。
マスメディアによって喧伝されている「食育」は2つの内容から成り立っています。
1つは「家族揃って食事を取ろう」「朝御飯を抜いてはいけません」といった、高度経済成長期の中流家庭を理想とした道徳です。勿論、食事を家族で取ることや朝食を取ることには大賛成ですが、「食育」と言い換える必要がどこにあるのでしょうか? 「食事に関する道徳」でいいじゃないですか。
もう1つは「カロリー控えめ」「糖分控えめ」といった、近代栄養学視点から見た現代人へのアドバイスです。つまり「食育」が「不十分」と指摘しているものですね。

マスメディアが喧伝する「食育」はむしろ従来の「家庭科」の領域にありました。
女子のみ必修だった頃の家庭科を履修した人なら、昔聞いたことがあるはずです。
(もっとも、人によっては「カロリー控えめ」ではなく「塩分控えめ」だったかも知れません。)
「家庭科」は現在「生活科」と名前を変え、男女共修となりました。
調理や裁縫の技術をある程度捨象し、生活全般を考える、守備範囲の広い教科になったはずなのです。
(守備範囲の拡大に伴って抜け落ちるような事柄だとは考えにくいのですが、現代の「生活科」を履修している皆さん、どうですか?)
大変意地悪い言い方をするならば、「食育」についてまったく知らない人々が、自分がよく知っている内容にすり替えて、新しい言い方で宣伝しているのです。

「食育」(PartT)は2004年2月の「言いたい放題」のページにあります。


6月22日

楽しく勘違い

かなり以前の話ですが、三木露風作詞・山田耕筰作曲の「赤とんぼ」が話題になりました。
「最近の子どもには、『負われてみたのは』というところを赤とんぼに追いかけられたと勘違いして聞いている子がいるんだよ」
そうだろうなあ、と思いました。
ただ、教えてくれた方も「お母さんにおんぶされて」と考えていたようです。
三木露風氏ですから「お母さん」ではなく「奉公に来ていた子守娘」ではないかと思うのですが、真相をご存知の方は教えてください。

「大きな古時計」でも勘違い話を聞いたことがあります。
大学時代の友人はおじいさんの名前が「ゴジマン」だと思っていました。
(本当は「ご自慢」です。)
かく言う私も、幼い頃は楽しく勘違いしていました。
夏になると「あやまって池に落ち……」という事件がよくありました。
私は小学3年生くらいまで、「ごめんなさーい!」と叫びながら池に落ちる人を想像していました。

勘違いしていたことが分かった時は痛快です。
やっと腑に落ちました、とすっきりします。
楽しい勘違いは楽しくカミングアウトすることにしています。


6月7日

不合理の押しつけに反対

平成の大合併が続いています。昭和の合併で生まれた都市でも、ひとつの市の中で複数の習俗が併存しています。
たとえば、うちの近所では、ある地点を境に「旧盆地域」と「新盆地域」がはっきりと分かれています。
新盆地域は古くから都市化が進んでいましたので、太陽暦採用と同時にお盆を暦に合わせてもあまり問題がなかったのです。それに対して、旧盆地域は農業者が多く、暦よりも季節を優先させたのです。
だからといって、お互いの住民が「日本の美しい伝統を覆そうとする不届きもの」だの「古い習俗に無意味にしがみつく愚か者」だのと相手を非難したりはしませんでした。
これからも、お互いの住人は何の感情も持たずに、お盆の話をするのでしょう。

一昨年だったか、旧字旧かなを「正字」と称し、正字を使用すべきだと主張しているグループに出会いました。
主張そのものは傾聴すべき部分もありました。私も「障害者」よりも「障碍者」の表記の方が良いなあ、と思っています。(「がい」を平かなで書くのも賛成。)
言葉は便利なツールですが、そのイメージに引きずられることが往々にしてありますから、差別的な表現に気が付いたらその時点で改めるのがよいでしょう。
しかしながら、彼らの主張はすべてを「正字」に戻せといったものでした。
思いきり引きました。私、万葉がななんか使えませんし、古文の授業では泣きそうでした。(後で聞いたら「江戸時代後期から明治初期くらいに戻す」とのことでした。)
一番疑問だったのは、それが使える趣味の会の人ばかりでなく、日本民族全員を対象としていたことでした。
不便なく使っている文字を「偽物だから使うな」と言われても、当惑するばかりです。
趣味の会の外に出すのなら、近現代の社会では「合理性」というものが必要なのですから。

佐世保で小学生による殺人事件が起こりました。
家庭と学校しか知らない、閉鎖世界に住む子ども達の間では、感情の増幅があるだろうことは容易に想像が付きます。
物理的に行動半径がグンと拡がる高校生以上の人にとっては「些細なこと」が、小学生にとっては生死を分ける大事だったとしても不思議はありません。
「些細だ」と言えるようになるには、経験が必要なのです。
読書や年長者との会話、ネットなどは擬似的な経験ではありますが、「話ができる年長者は母親と塾や学校の教師だけ」という極端に貧弱な人間関係しかない子も存在します。
大人の常識を越えた感情の増幅は、佐世保でのみ起こることとはいえません。

この事件で気になるのは、メディアの姿勢です。いくつかの新聞やテレビ番組では「私達には関係のない、他の人にはあり得ない事件」といった大前提を取っているように見えるのです。
その大前提を守るために、「加害者は異常」「被害者も問題あり」「担任が悪い」等々と強調されていきます。
相変わらず「家庭と学校が子どもの教育のことをやるべきなのに、しっかりしていないからだ」「インターネットが悪い」といった論調も見受けられます。
ここでいう「家庭」とはどうやら母親だけをさしている様子です。
「母親と学校に任せきりでは全人教育になり得ない」という認識はないようです。

たとえば、どこの地域でも、大人から見れば些細なきっかけで、残虐で執拗なイジメが起こります。
そうしたことには目を向けず、被害者までが実名で好奇心の対象にされています。
そして、何かがあれば「母親と学校が悪い。他の人にとっては他人事」という姿勢をあくまでも貫く。
それで何の解決策が生まれてきますか?
愚痴を話しているだけならまだ苦笑して聞いてやれます。
しかし、多くの人に影響を与えうるマスメディアが、本質を歪曲する記事を書くことは害悪です。


6月3日

殺人は人間の通常の死ではないことを知ってほしい

今日、佐世保の事件についてのメールを頂きました。
女の子の現実として特異な事件ではない、女の子は比較において自己を確認するため密着度が高いからだという趣旨でした。
冒頭のことばはその結びでしたが、心から賛成しましたので、表題として使わせて頂きます。

ある事件が起きると、本質とは全くかけはなれたコメントが飛び交うのはよくあることです。
もう少し平和的な事件として、田中真紀子氏の長女を巡る週刊文春の事件を思い出してください。
あの記事を、真面目に「表現の自由を守るために必要である」と考える人がいますか?
被告は勿論、原告も、裁判所も、語りたがらないことが本質ではないでしょうか。
もし、田中氏の娘ではなく、息子であったなら、そもそも記事になっていただろうかということです。
語らないから露出はしない、しかし、「いかなる立場にあっても、女性である限り性的存在として位置付けるのだ」という強い意図を感じました。
昔と違い「性的存在でのみあらねばならぬ」というのではありません。
女性を性的に扱うのも文化であり、それを記事として表現するのも表現の自由でしょう。
ですが、それは「民主主義」の理念とはおおよそかけ離れた文化だと断定しておきます。

そして、今回の事件です。
この事件は「異常な性格を持った加害者の、非常に特異な事件」という方向で報道されています。
そこにかいま見えるのは「子ども、特に女の子が凶悪な事件を起こすことはあり得ない」という主張です。
正直、凶行を行ったのがお友達の女の子であったことに驚きはありませんでした。
ちょうど、イラクで米兵による虐待事件が発覚した時と同じです。
「あってはならないこと」と「ありえないこと」は全く別物だと改めて思い知らされます。

「女の子同士は密着度が高い…自分の立ち位置を確認するため友だちと自分を、比較して相手の価値をきめ、自分を評価する。」(メールより)
大人の女は昔よりは随分自由になりましたが、こと教育されている女の子に関しては旧態依然とした「なるべく外に出さない、危険はおかさせない」「大人しくさせる」「お転婆はいけないこと」などの価値観が支配的です。
何を隠そう、この私も、娘が可愛い服装でにこやかにしているところを「可愛い子」なんぞと誉められたら、嬉しくてたまりません。
しかも、子育て環境は明らかに悪化しています。
子ども達はたかだか1歳違いの仲間を「センパイ・コウハイ」として切り離してしまいます。
接する大人はお母さんと学校や塾の先生だけ。
子どもの行動半径はそれでなくても狭いのに、ここまで極端に狭い世界に棲んでいます。
それなら、未来は子ども達にとってもっと開放的なものになるのか?
大人の世界では、女が男の自由に近付きましたが、子どもの世界では男の子までもが冒険や腕白を禁じられる傾向にあります。
男女平等と言えば、平等ですが。
男の子の方も心配になってきます。矮小な人間関係が世界のすべてだと認識する者が男の子にもでやしないか、と。

では、文春の記事に問うたように、答えたくない疑問を発してみます。
もし、加害児童の被害者意識がこれほどに切迫していなかったら、どうなっていたでしょう?
「これがカッターナイフを見せて、脅しただけならどうでしょう? その結果、相手が不登校になったり、最悪、自殺を図ったりしても「いじめの延長」で片付けて、触れずに追求しないできた根の部分が、曝け出されてしまった…そんな風に思うのです。」(メールより)
小学6年生の頭の回転のいい子なら、自分は隠れてでてきません。
別の、調子に乗りやすい友達を扇動して、嫌がらせと徹底無視を繰り返すでしょう。
そうした事件の時によくでてくる腹立たしいコメントは「被害者にも非があった」。
被害者がついに仕返しにでても「被害者(元加害者)にも非があった」。
加害者の発した「やめろ」という信号を理解できなかった非のことでしょうか? それは、残念ながら、現代の子ども達によく見られる姿であると思えます。
閉鎖的な世界の住人である子ども達が、わずかなトラブルを増幅させていくメカニズムは同一です。
それが「イジメ」という手段になるか、凶行に及ぶかは、加害児童の被害者意識の大きさに依存するのではないか、……すなわち、どの子も被害者にも加害者にもなりうるのではないか。
子ども達の閉鎖状況を改善してあげられそうにないのですが、「加害者更生よりも、殺人は人間の通常の死ではないことを知ってほしい。」ということばを噛みしめたいものです。(大人として、戦争も虐待も例外扱いしない勇気を持ちましょう。)


6月1日

私達は「アメリカの手先」なのだろうか?

イラクで2人のフリージャーナリストが亡くなりました。
彼らが検問所でアメリカ兵と立ち話をした――たったそれだけのことが命取りだったそうです。
この事件が私達に突きつけてきた現実の厳しさには、戦りつを覚えずにいられません。

ひとつは、追いつめられた人間が易々と殺人者になることです。
見ず知らずの人間を、本当に「アメリカの手先」なのかろくに調べもしないで、躊躇無く惨殺した……
月並みな言い方ですが、戦争の恐怖を改めて見せつけられました。

もうひとつは、情報社会に生きているはずの私達の致命的な甘さ。
4月、イラクで最初の日本人人質事件が発生した時、彼らを救出するにはどうするかが懸命に考えられました。
対策案の中には「海兵隊に突入してもらう」というものがありました。
「専門家」やテレビのコメンテーターが主張していました。
それを聞いて、背筋が寒くなった人は少なくないはずです。
しかし、一般市民の声としても、「海兵隊突入なんてとんでもない。最悪だ」と言っているところはほとんど取り上げられませんでした。
お2人が殺害された今なら、その対策が実際に為されてしまった時のことを、誰もが想像できるのではないでしょうか。
もしあの時海兵隊が突入したら、たとえ人質が巻き添えで全員殺されても、以後の「日本」に対する現地の人の怒りは米英に対するものと同じか、それ以上になったはずです。
米英よりは日本はいいヤツだ、という認識があったのですから、もともとの「敵」より「裏切り」の方が許せなくなるのは人情です。
自衛隊も例外ではなく、「日本」「日本人」がねらい撃ちされる事態になったでしょう。
周辺のアラブ諸国にいる人も安全ではいられません。
当時もある程度は思い描けたはずですが、「専門家」や「テレビ画面に出てくる人」の意見を鵜呑みにして、自分自身の脳が発した「それはおかしい」という小さな声を無視していたのです。
私達は、「文明国」に生活して、情報社会には慣れているのですが、実体は古典的な大衆操作にもあっけなくはまってしまう人間達だということです。


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