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7月  給与明細書が欲しい   参院選を終えて   新庄選手を讃えてみました   私だけの「常識」
8月  私が自由に恋愛できるように   「天才とは1%の才能と99%の努力である」をどう聞きますか?   ときどき初心


8月24日

自尊心を満足させる買い物

ホンダのCMが巧みです。
「自動車グリーン税制の優遇措置を受けられます」
その車を選べば、何の苦労もせずに「地球に優しい」ことができるばかりか、購入費はかかっても結局高い買い物にはならないというのです。
自力で、損害を払わずに、公共の利益になるのだという自尊心を満足させられる――
そうしたCMが可能な社会なんだと、感慨深いものがあります。

水道水があまりに不味いので濾過器を買ったり、ミネラルウォーターを買ったりすれば、GDPは押し上げられます。
地球温暖化によって酷暑が続き、冷房をガンガンかけても、GDPは押し上げられます。
あるいは順調に温暖化が進み、ハマダラ蚊が日本で棲息できるようになって、マラリア患者が増えても、GDPは押し上げられます。
そうした経済指標をもとに経済政策が決められ、GDPの伸び率を気にしながら私達は生きています。
にも関わらず、低公害やエネルギー効率の良さが支持されるようになったのです。

戦後日本の国是はアメリカ追従でした。
それは今も変わっていませんし、今後もしばらくは変わらないでしょう。
軍事面などは今すぐ自立するのは、不可能だろうとも思います。
しかし、環境分野ならどうでしょう?
アメリカに追従しなくても、国民の支持が得られる分野と言えます。
1歩ずつ自立を目指せたら、と思います。

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8月17日

私が自由に恋愛できるように


「最近の若者の性意識」を語ることになると、不思議なことに意見は両極端に振れてしまいます。
片やヴィクトリア朝を思わせる純潔思想、処女崇拝です。(童貞崇拝というものが存在するかどうかは知りません。)
もう片方は「問題は性の初体験をいかに早期に持ってこられるかということだ」という、おおっぴらには語られないものの、若者にはかなり一般的な意識です。
「処女(童貞)でなくなるのは早ければ早いほど良い」
「中学生のうちに体験しておきたい」
「相手が誰かは問題ではない」
「濃い化粧をしていれば軽く見られるから、ナンパされやすくて有利」
といったものです。
大抵の話題には両極ばかりでなく、中庸・折衷といったものが存在するのですが、この場合は聞いたことがありません。

なぜ中庸や折衷が存在しないのでしょうか?


そこで、性意識の変化と公認の売春の有無について関連性を考えてみます。

かつては、女性の一部が性を商品化していました。遊郭だの赤線だのあった頃の話です。
遊女達にもそれなりのプライドがあったことを強調する向もありますが、一般の女性と隔絶した存在であったことは確かでしょう。
商品としての性の供給は彼女達が担っていたので、一般の女性がそれをする必要はありませんでした。
一般の女性はむしろ恋愛からも遠ざけられていました。
女性にとっての性は、一般には結婚と、一部では金銭と結びついていました。
江戸時代のお大尽達が、恋愛対象は遊郭の女性(妻は対象外)と考えていたことが知られています。
当時の男性にとって、半永久的な経済的保証を必要とする性関係よりも、一時的な契約で成立する性関係の方が、より恋愛に相応しく思われたのかも知れません

現代においては、売買春は犯罪とされています。
職業ではなくなりました。
一般の女性には恋愛が推奨されるようになりました。
「性の初体験が早ければ早いほどエライ」という意識は現代の子ども達の専売特許ではありません。
大人になると口を拭っていますが、実は私が中学生だった頃にもそうした価値観が存在していました。
「遅れてる」は侮蔑の言葉でした。

両者は一見すると全く逆の現象です。
特に戦後民主主義に否定的な人々が好む比較かも知れません。
売春を推奨はしないが、必要悪であった。
今や、一般の女性が自由意思のつもりで売春しているではないか、
そのために日本的な家族が崩壊の危機に瀕しているのだ――と。


しかし、女に恋愛を禁じる社会も、強要する社会も、どちらも御免被りたいものです。
本当に、中庸や折衷はあり得ないのでしょうか?

もう1度、女を売春婦と一般の婦女子とに分けた戦前と、すべての女にフリー(無料)セックスを要請する現代とを見比べてみます。
意外な共通点があるじゃないですか。
価値観の一方的な押しつけです。
個々の女(男)が自らの判断による恋愛観、性の価値観を持つことが想定されていないのです。
「結婚するまで処女を守る」も「早く体験するのがエライ」も、思春期の少女を圧倒する点では同じです。

残念ですが、特効薬が如きものは考えつきません。
やはり「愛や性はきわめて自主的なもので、禁忌や義務とは馴染まない」と声高に叫びつつ、新しい世代が私達よりは自由になることを願うのみのようです。
願うのみのようですが、最近では、女性ばかりではなく、男性までもが商品化が進んできているのです。
大変に不安です。

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8月10日

「天才とは1%の才能と99%の努力である」をどう聞きますか?

SMAPの歌う名曲「世界に一つだけの花」には様々な解釈があります。
それが名言や名曲であればあるほど、そうした傾向はあるものですが、先日聞いた解釈にはびっくりしました。
若者が定職に就かず、無責任なフリーターで居続けるのは、この歌を聴いて開き直っているからだ――というのです。
あの歌を何度聞いても、「努力や忍耐なんか必要ない、誰でも必ず花開く」という保証は出てきませんが……。
植物ならば、しっかりと根を張り、健康な葉で光合成をしてこそ、綺麗な花が咲く――は誰でも知っているという前提で歌われているはずです。
(小学生は夏休みにアサガオを育てますよね?)

同じようにエジソンの名言にも様々な解釈が存在します。
「努力すれば誰でも一流になれる」
「1%の才能がなければ、努力しても無駄」

私は「99%の努力の後に、1%の才能が花開く」と解釈しています。

1%の才能を持たない大部分の人々は、どんなに努力しても、超一流にはなれません。
努力の方向を間違えているケース(自分に向いた方には気が付かず、才能のない分野に一所懸命、等)もあるでしょう。
本当に特別な才能を持たない人もいるでしょう。
しかし、努力や忍耐がなければ、花が咲くことはあり得ないのです。
自分のなりたいように、在りたいようにあるべく努力する――
それは望む結果を手に入れるための必要条件です。
結果が保証された十分条件ではないのだと、受け入れなければなりません。

しかし、努力して目標に向かっている時、その結果がどう出ようと
「私はこんなに頑張れるんだなあ」と自分自身を見直すことでしょう。
普通の人にとっては、その悦びの方が結果よりも嬉しいものかも知れません。
そして、努力の方法が適切ならば、二流にはなれます。
世間では二流でもけっこう通用するものです。
超一流でなければならない、という需要は案外少ないものです。
むしろ二流になるための努力も貴重なものなのかも知れません。
あるいは努力していることそのものに酔ってしまって、方向や方法を検証しようという発想を無くしているのかも知れません。

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8月1日

ときどき初心

先日から「慣用句を誤って理解している人が多い」という話題が出ています。
私自身は、正答率が3〜4割以上の慣用句が正解できるようです。
ごく平均的ですね。

この話題に対する若い人の代表的意見は「言葉が変わっていくのは当たり前」。
元気よく発言する若者に対して、この時ばかりは中高年が黙ります。
私も基本的に若者の意見に賛成です。
ただ、時々こうやって本来の意味合いを思うというのも良いなと思います。
そう、ときどき、がいいのです。
本来の意味と、変化してきた道筋を辿り、日本語を使う人々がどのように生きてきたのか、思いを馳せます。

さて、30歳になった頃か少々越えた頃、ふっと「仕事が楽になった」と感じていました。
20代の頃は体力があります、ガンガン突っ走ってもすぐに回復します。
30代になると、突っ走ることはできますが、後に響きます。
それでも20代より断然楽……というのは、効率が全然違うからなのです。
若い人はがむしゃらに走るより他はありませんが、年齢を重ねることによって、最短距離の見通しが立つようになります。
その上、たまにであれば無理も利きます。
残念ながら、その後人と職業の関わりがどうなっていくのか、身を以て体験していません。
それでも、30代がもっとも面白い年代ではないのかと思います。

30代になると、なぜか「初心忘れるべからず」ということばが好きになります。
同年代同士で戒め合うこともあるでしょう。
しかし、「初心」は長続きしません。
「いつでもフルパワー」な初心の20代と、最短距離への見通しが立つ30代が合体すれば、それは素晴らしいでしょう。
しかし、どうやら、人間はそのようにできていないようなのです。

では、どちらが好きかと問われたら、私は30代。
初心はときどき思いだして、懐かしむくらいで良いと思っています。

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7月26日

歴史教育の恐怖?

先日、中学生の社会科の教科書を見せてもらいました。

教科書の内容が大幅に削減されているという現在の教科書ですが、社会科の「公民」はあまり削減されていないという印象を受けました。
削減は「地理」と「歴史」でなされていたのです。

「地理」は外国に関して選択して学習するという方法で削減していました。
それから自然地理の部分が減ったように思えました。
以前は理科と地理とで補完しあっていたものが、現在は「理科でできなければもう知らん」と言うことなのでしょう。
厳しい要求ですが、成績上位者にはほとんど影響しないのでしょう。

驚いたのが「歴史」です。
パラッと開いたのが、士族の反乱や自由民権運動のページです。(両者が見開き2ページに収まっていました。)
記述の順番として、「民選議員設立の建白書」→「※西南戦争」→「自由民権運動」となっていました。

西郷隆盛を中心に鹿児島でおこった武装蜂起は、かつて「西南の役」と呼ばれていましたが、現在は「西南戦争」と呼ばれます。
私達は、「新政府への抵抗運動は武力による士族の反乱と、言論による自由民権運動があって……」と教わりました。
現在の順番では、言論→武力→言論となっていて、覚えにくいのではないかと心配になりました。

こうなった理由は簡単です。
内容を削減して、士族の反乱は西南戦争だけを扱うことになったからです。
学習内容を年代順に並べると、現代の教科書のようにならざるを得ないのです。

暗記物が苦手だった私には「内容削減」は羨ましかったのですが、考えを改めました。
私達は、暗記事項は多いけれども納得のできるストーリーを学習していました。
今の中学生は、ストーリーになっていないものを、ひたすら丸暗記しなければならないのです。

「先生が中学生の頃って、もっとたくさん勉強することがあって、大変だったんでしょう?」
親が普段そう言っているのでしょうか?
おまえ達のはたいしたことがない、と。
「ううん。今の子の方がずっと難しくて大変。……頑張って…ね」
私は半ば呆然として答えました。

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7月15日

給与明細書が欲しい

私はアルバイターです。とはいえ、実労働時間は週に3時間ですから、入ってくる収入は本当に微々たるものでしかありません。
今年の2月までは、給与は封筒に入れられて手渡しされていました。
その度にねぎらいの言葉も貰っていました。
些少なりとも労働して収入を得ていることを、主人は認め、一緒に喜んでくれていました。
3月からは給与明細書が入ってくるようになりました。
私の労働条件は全く変わりません。雇用主が新たに税理士を雇ったのです。
久しぶりに自分の名前が書かれた給与明細書を見た時の気持ちを、どう表現したらいいでしょう?
7月に至る現在まで、ときめく気持ちは変わりません。

人間としての誇りを取り戻した、そんな気持ちです。
2月以前だって同じ収入だったし、家族は認めてくれていたのだし、惨めに思ったことなどなかったのです。
しかも新たに付け加わったものは1枚の紙切れ。

しかし、この紙切れは、私が自らの労働によって収入を得た証なのです。
他に何ら変わるものがないから、はっきり言えます。
純粋に、人としてのプライドの問題だ、と。

と同時に、時代の流れも感じました。
かつては「ずっしりとした封筒を家に持って帰り、妻子に見せる。父親の権限が再確認される時だ。振込になったせいで、父親の権威が失墜したのだ」と言われたものです。
私は逆に明細書が欲しかったのです。

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7月12日

参院選を終えて

各報道機関で言われていることですが、2つのことがはっきりした選挙でした。
1つは大きな変化がなかったことです。
相変わらず、地方では自民が強いし、都市部ではかつての社会主義系支持が民主支持に置き換わっていただけのことでした。
どちらにしても組織票が強かったことも、従前通りと言えます。
しかし、その動機はどうあれ、二大政党制への指向はますます鮮明になってきました。

二大政党制では多様な意見の反映はできません。
しかし、選挙と政治の関係が密接になるのも確かです。

国民の意思を示す、といったところで、選挙で示すことができる私達の意思はきわめて限られたものです。
候補者か政党に投票することはできますが、支持理由を示すことはできません。
したがって、選挙結果をどう判断するか、どの政策が支持されたと考えるかは、まったく政党の自由なのです。
皮肉なことに、多様な意思を汲み取ろうとすればするほど、政党のどの政策が支持され、どの政策が「イヤだけど仕方がない」のか、曖昧になってしまいます。
「政治離れ」が言われるようになって久しいのですが、単純に離れたわけではなく、国民の側には手応えを求める心が残っていたとしておきましょう。

二大政党制に向かっていくとして、その二大政党にはリクエストをしたい。

まずは自民。

ややこしくて仕方がないので、党名を変えて欲しいのです。
私としては「共和党」が良いと思います。
ついで、「自由競争」と「時代の流れとともに衰退してきた団体」のどちらをいかすか、はっきりして欲しい。

現在の党名でも民主より自由を先に持ってきているのですから、自由競争重視の方がふさわしいと思いますが、どうですか?
そして規制緩和をガンガン進めてください。
規制緩和だけでは、「今まで事実上競争に参加させてもらえなかった女性や少数民族が大挙して出てくる」という状況にはなり得ません。
ですから、「古き佳き日本人」は護れるはずです。
時代の流れとともに衰退してきた団体を護ろうとすれば、保護と規制しか打つ手がありません。
ややこしいことになるのは、両立し得ないものを、両立させようと努力してきたからです。

日本農業の再生に関しては、流通の方を工夫してしまえば解決です。
「契約農場」ってあれは考えたなあーと感心しているのですが。
流通業界が各農家を傘下に置いていくことによって、土地なき地主制ができあがります。
各流通企業同士が競争しますから、戦前の寄生地主制とはひと味違うものになるでしょう。
……コンビニに似てますね。

それから、民主。

日本人を、経済力の高い方から順位付けしてみた時、共和党は上層1割未満をターゲットにしますから、
民主党はその下位から上6割に入るあたりまでをターゲットにしてみてはどうでしょう。
もう少し下位の方までターゲットを広げるのです。
日本人の8〜9割が中流、などと言われた時期もありましたが、さすがにそれは大袈裟だと、私も思います。
でも、上から6割くらいまでには(あるいはもっと下位まで)その潜在力はあります。

伊達や酔狂で平和を享受してきたわけではありません。
15歳時点でほとんど全ての人が、仮名も漢字も読めて書けます。
絵が無くても、字だけで標識として成り立っているなんて、奇跡のようではありませんか。
さらに英語も使いこなせます。
機会がないから、忘れたり、苦手意識を持つだけのことなのです。

中流をターゲットとし、その階層の力を付けるためには、いままで事実上競争から除外されてきた女性や少数民族が参入しやすいようにしてしまうのです。
共働き世帯を徹底して応援しましょう。
高齢者の運転手や、保育園の待機などで、仮死状態になっている能力を引きずり出すべく「福祉」を組み直すのです。

既得権益を守るための規制は外すけれど、新しい勢力が芽吹くまでの間保護と規制をしておくのも忘れずに。
日本農業で言えば、保護対象を米以外にもすべての農産物に広げ、若い後継者達が農業を再編してくれるように促すのです。
アメリカには叩きまくられそうですけど。

分かり易すぎて、重厚感がなくなりますか?


 

新庄選手を讃えてみました

私はプロ野球ファンではありませんが、昨日の新庄選手、本当に格好良かったですね。
彼の素晴らしさは、プロ意識の高さです。
プロスポーツはショービズなのです。お客様が喜んでなんぼのものです。
野球の技能の高さは勿論、その人なりの個性の味わいがあったり、できればエンターテイメントということを考えて欲しいものです。

日本人の嗜好としては「辛抱」や「努力」「根性」ではないか、という声もあります。
ええ、努力物語にも感動します。
それと同時に、日本人は「ニッポン、チャチャチャ」などよりずっと前から、ショービズとしてのプロスポーツを楽しんできたはずです。
同じプロ野球ですが、長島茂雄氏。
彼も素晴らしいエンターテイナーです。
プロ選手としての技能と言うより、彼のキャラクターにぞっこんだという男性は多いはずです。

やっぱりプロがプロとしての自覚を持つって良いですねえ。
日本人だって「辛抱」「根性」「努力」一辺倒ではないんです、って認めてしまいましょう。

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7月1日

私だけの「常識」

小学生の算数です。
「4×6=12、これ間違いだけど『アリ』だよねー。23だったら絶対許せないけど」
12なら許せるが、23は許せない――が私の感覚です。
ごく平凡というか、当たり前というか、人類普遍だと思っていました。
ところが、あるお母さんに「なぜ?」と問われてびっくりしました。
この時初めて「うっかり公倍数を答えるのはあり得るが、素数を答えることはあり得ない」という感覚以外に、「1の間違いはあり得るが、12もの間違いはあり得ない」という感覚があることを知りました。

60代の男性からかなり前に聞いた話です。
「息子は今でも留学していた頃の友人と連絡があって、時々国際電話をしている。同じ家の中で、親父達は血族以外の人を『カタキ』と呼ぶ」
素晴らしい感覚の違いですね。この時だけは三世代同居が羨ましくなりました。
核家族ではここまでの違いは出ないでしょう。
お互いの感覚がある程度分かる核家族。対して、理想的(お互いの感覚の相違を理解し合える)か最低(「最近の若い者は……」「頑固ジジイ!」と罵り合う)かの大家族。
どちらがいいかは一概に言えませんが。

似通った感覚の持ち主同士でグループを作ってしまうと、自分の感覚が人類普遍ではないことに気が付きにくくなります。
それが企業の中にあると大変なことになります。

「やる気がいっぱいで、真面目で、チームの結束も固い。仕事のやり方も現在のものが唯一絶対と信じ、その信念が揺らぐことはない」……
そんな職場は理想的でしょうか?

マサチューセッツ州ボストン湾に面したナット・アイランドに下水処理場がありました。
ナットアイランドの下水処理チームのメンバーは一所懸命に仕事をしています。
そこには無関心な「勝手にやりなよ」な管理者しかいません。チームは「私達が頑張らなければダメだ」とさらに必死になります。
やがて、チームのルールは一般常識から乖離していきます。
「機械の方が壊れている」「中和さえすれば大丈夫」
こうして37億ガロンもの未処理下水を半年間にわたって港内に放出しました。
(ここは1997年に閉鎖となりました。)

誰かだけの暴走なら、問題が明らかになるのも早いのです。同じ価値観を持ったチームだから、発覚が遅れるのです。
そこには自浄作用など働きようがありません。
メンバーはお互いしか見ていないし、お互いの言うことしか聞かない――そして、全員が一致しているのですから。

「ナットアイランド症候群」を防止するのは、管理者、最終的には経営者の責任なのですが、日本企業はこの問題に対しての対応が異常に甘いと感じるのは気のせいでしょうか?(韓国のゴミ餃子も。)
どういう結果を出したか、があまり問われず、努力していること・真面目に仕事をしていることが免罪符になってはいないでしょうか。
せめて、努力の方向が正しいかどうか、自分の常識は人類普遍か、少なくとも市場で支持が得られるものかどうか、……
きちんと検証していない企業は、本当に三菱ふそうだけなんでしょうか?


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