「恋は私から願い下げ」


深谷が就職したのは、総合化学の会社なのだが、新入社員はまだ高卒の方が多かった。
特に女子は8割方が高卒であり、残りは四大と短大卒で半々といったところである。

「女子は結婚等で早期に退職するので、男子が三年で覚える程度のことは一年で覚えてください」
新人研修初日に釘を刺された格好である。

今どきそんなに「結婚退職」ってあるのかしら?
常々疑問に思っていた深谷だが、謎が解けた。
女子に限って、「自己都合退職」のうち「結婚退職」だけは退職金が高い。
倍以上もらえる。
かといって退職後の従業員にまで戸籍抄本の提出を求めるわけではないから、何らかの事情で退職することになったら「結婚退職」と言い張るべきなのだ。

私は結婚しないから、終身雇用を目指さないと損だなあ。
陰に陽に「結婚せよ」と掛けられる圧力に屈しないのは大変なことだろうか。

新人研修が終わる前から、高卒の女子が明確に分類できることに気が付いた。
「結婚退職」志願と、「キャリア」志願と、自らの進学資金稼ぎ。

実際、深谷が四年生大学に進学できたのは、弟が1人しかいなかったからであり、しかも彼が学習不熱心であったお陰である。
男の兄弟に掛けられるべき教育費は深谷に転がり込んだ。

資金稼ぎの女の子の1人篠山は兄と弟がいるという。
男兄弟が2人もいては絶望的だ。
ただ、この場合気の毒なことに、篠山は小柄な上に可愛らしい顔立ちをしている。
「結婚退職」志願だったら有利に作用する条件が、資金稼ぎには裏目に出るだろう。

配属が決まり、新しい生活が始まると、新人達もだんだんかたまらなくなった。
深谷は医薬品研究所の化学分析班に配属された。
企業が取りそろえている分析機器はさすがに最新鋭だ。
分光分析のために列を作り、測定中にもどんどん熱を帯び、何度もデータを取り直し、
……大変だった大学時代が嘘のようだ。
そもそも大学時代に使っていた真っ白なメスフラスコなどここにはない。
誤差が大きくなるような器具は使わないのだそうだ。

無給での勉強会も誘われた。
部署内でやるので、勿論応じた。
参加してみれば男子社員は全員出席していた。
女子は深谷以外には今年で12年目だというベテランの大崎しかいなかった。
彼女の横に座ると、小声で
「続けてよ」
と言われた。
どうやら、女子は最初だけ出席して後は出てこなくなってしまうものらしい。
「はい」
女の先輩が「やりにくい」職場は早く改善しなければ、自分たちの代になった時もやはりやりにくいだろう。自分が改善の布石になれば、と思った。

翌日は「お茶当番」に当たっていた。
まだ新人の深谷は上司の指示に従って実験計画を立てるのだが、この日は「お茶当番」の時間も計算に入れなければならない。
卒業した大学の「偏差値」の所為で相当誤解されるのだが、深谷はそう記憶力に優れた方ではない。
誰がコーヒーで、誰が紅茶で、誰がミルク入りで、誰がストレートで、通りかかる女子の先輩に聞きまくって当番をこなす有様だ。
更衣室で「大卒って言っても大したこと無いわね」と陰口を叩かれているのは知っている。
「手伝います」
午後の当番の時に、篠山が来てくれた。
「ありがとう、助かります」
篠山は手早くインスタントコーヒーをカップに入れながら、
「深谷さん、ズルい」
と呟いた。
「どうして?」
「だって、昨日男性だけの勉強会に出させてもらえたんでしょ? やっぱり大卒はいいよね。私なんか終わってからそういうのがあることを知ったんだから」
「私も昨日の朝に言われたよ」
「私はダメってことなのかあ」
「篠チャンは能力あると思うぞ。上司に言ってみなよ」
「何か怖いなあ。生意気とか言われたらどうしよう」
「大丈夫。大崎さんもいたよ」
大崎ならベテランだが、篠山の先輩に当たる。
この地域でも旧の高等女学校であった女子校の出身なのだ。
篠山は深谷にお礼を言った。

翌週の勉強会に篠山は来なかった。
聞いてみると、上司に申し出たら、別の提案をされたそうだ。
深谷が誘われている勉強会は大学の教養部では少々辛いレベルなので、出席するのが辛い男子社員も存在する。
そこで、彼らと女子社員とでもっと基本的な勉強会をすべきだというのだ。
「一理あるねえ」
「ある。でも深谷さんと大崎さんはダブル出席だよ。女子だから」
「いいよ、やるって」
「テキスト選びは男子社員がやるらしいけど、何か不安。だってうちの男子と仲良しの女子って言ったら、IUpacも知らない子ばっかりじゃん」
「お。篠チャンは勉強してあるんだ? 私は大学の教養部で教わった」
「うん、まあね。って、うちの高校の化学の先生が突っ走りタイプで、3年の化学履修者が20人いないのを良いことに、好き放題。お陰で今助かってるけどね」
篠山を見ながら、自分にも弟が2人いたら同じ事を言っていたのだろうかと思った。
「IUpacはともかくとしてさあ、高1か2年レベルだったら、私切れるよ、まじで」
篠山は頬をふくらませた。
深谷は苦笑する。
確かに男子社員とよろしくやっている女子社員と言えば、篠山は遠慮してはっきり言わなかったが、基本的な元素記号ですら咄嗟に分からないような子達だ。
おそらく、高校生向きの学習参考書でも選んでくるだろう。

「基礎」の勉強会がスタートしたのは1ヶ月後だった。
当番が解説をし、質問を受け付ける。
最初の当番が篠山だった。メンバーを考えたらしいのだが、
「篠チャンの難しい」
新人仲間が言った。

翌週の当番は男子社員だったが、そこでも「難しい」と言われた。
その翌週は女子の出席者は4人だった。
深谷と篠山、それに大崎と入社8年目の山本である。
当番は大崎だったので、その週で「残りの全範囲」を勉強してしまうことにして、
「何か質問在りますか?無いでしょう、このメンバーなら」
最年長権限で終わらせた。

更衣室でもこの4人しかいなかった。
「深谷さん、篠山さん、ちょっといいかしら?」
大崎が厳しい声を出した。
「はい……」
正直、女子最年長の大崎は怖い。
2人は体を小さくして椅子に座った。
向かい合うように大崎と山本が座る。
「前から、言おう、言おうと思ってたんだけど。あなた達、きょう来なかった子達を軽蔑してるでしょ?」
「いいえ、そんなっ! みんな、都合が悪いって言ってたし」
篠山が慌てて反応したのだが、大崎は冷笑した。

「どうせ、デートとか、友達と会うとか、きょう勉強会だって分かっていて、わざと入れた予定だからね。
勿論、本当に急用の人もいるけど、それは2,3人よ。
あなた達だって、本気で信じてやしないでしょう。
早く適当な男の人を捕まえて結婚退職することしか考えていない子達だって思ってるの、見え見えよ。
だから、みんな、あなた達を仲間に入れたくないのよ。
自分たちも浮いてることくらい分かってるでしょ、頭いいんだものね。
でもね、
確かに新人にしては仕事ができるかもしれないけど、あなた達が来ると本当に雰囲気が悪くなるの。
はっきり言って迷惑。
深谷さん、
頭とスタイルが良いのはもう分かったから、男っぽくするの、もうやめない?
ばかみたいよ。
何でも、知ってますとか、分かりますとか、随分物知りね。
凄く嫌味。
女の子だけじゃなくて、男の人たちもあなたのことを怖いって言ってたわよ。
大人の女性が男性にまで威圧的っていうのはどうかしらね。
篠山さん、
美人を鼻に掛けてるのよね。
お化粧くらいしなさいよ。
何、学生気取りしてるの?
あなたは社会人なの。
就職したの。
進学できなかったの。
あなたくらい美人なら素顔で十分とか思ってるんでしょうけど、お化粧は身だしなみなんですからね。
……ぐずぐず泣かないでね。
もっとも、あなた達なら私に言われたくらいで、動揺するとも思えないけど。こっちだって、言いたくないよ。
でも誰かが教えてあげなきゃならないんだもの。
まったく、嫌な役回りだわ」

大崎は言うだけ言うと、さっさと着替え始めた。
「あの……嫌な思いをさせて申し訳ありませんでした」
「ありがとうございました」
2人は立ち上がって最敬礼をした。

大崎が帰ってしまうと、山本が
「大崎さん、言い方はきついけど、2人が有望だから言ってるのよ。わかってね」
ととりなした。
「はい。すみませんでした」
「私にまで緊張しなくていいよ。2人とも優秀だから分かってくれるよね。頑張ってね。大崎さんが本当にいびる時って凄いんだから」
「あの……本当にいびる、って?」
「うん。あなた達とは逆のタイプ。仕事そっちのけで男の人に媚びを売ってる人、辞めるまでお説教し続けたのよ。私も仕事を長く続けてくれる女の子の方が好きだから」

山本は唯一の既婚女子社員である。
製剤工場にいる既婚女性達は全員パートであり、正社員はいない。
結婚後半年までは「結婚退職」扱いになるので、既婚者になると半年で退職するのだと言った。
「たとえば大崎さんが結婚しても仕事を続けるなら分かるけど、私みたいなそんなに仕事ができるわけでもない女が頑張ってるなんて不思議でしょ。私にも不思議なの。女の子が1年とか2年で辞めてくと、男の人たちからおばさんのくせに図々しいって言われてるみたいで、……悪いかなーって思っちゃうの。だから、できれば5年くらいは勤めてね。深谷さんは無理でも、篠山さんはまだ18だから、先は長いわよね?」
「私は結婚しません。だから、辞めません」
深谷は断言した。
「そんなに頑なになっちゃダメ。深谷さんより大きい男の人だっているんだから、ちゃんと考えとかなきゃ」

絶対に女が男よりも小さくなければならないのなら、女が大きければ大きいほど選択の余地は無くなるではないか。
それも、体重ならまだ調整の方法もあるが、身長が縮むのは当分先の話だ。
努力の余地すらない条件で決められて、恋愛の落ち零れのように言われ続けるのは不公正だ。
不公正なのだが、世の中そういうものらしい。

篠山も5年と聞いて反論した。
「私は学資が貯まり次第進学するんです。何とか2年か3年で行きたいと思ってます。年数が経ち過ぎちゃうと受験に不利ですよね。この仕事なら幸い数学と英語は忘れないけど、私が貯められる額から考えて国大しか受けられないでしょ、だから古文とか漢文とかも忘れないうちにって思ってます」
山本は目を丸くした。
「そんなことしたら、就職先無くなっちゃうよ。それに周りの男の人がみんな年下なんだよ。いいの?」
「いい。話もしないうちから、無条件でバカだって決めつけられるの、もう沢山」
「気の強い子ねえ」

山本は苦笑する。
この子達が他の女子社員と馴染むはずがない。

翌日、篠山は眉を描いて色つきのリップクリームを付けてきた。
深谷はとりあえずスカートを穿いてきた。


夏休みであっても中野が帰ってこないことは知っている。
工場や事業所が停電になる8月初めと、旧盆で帰省する男子社員が多くなる8月半ば、会社の夏休みは2分されていた。
長期旅行に行くつもりもない深谷は中野を訪ねることに決めていた。

予め電話はしてあったのだが、アパートの前で1時間近く待たされた。
大方、大好きな大学だろう。
勿論、深谷も大学は大好きだった。
新入社員としておかれている現状が、深谷にとってあまりにも理不尽なので、才能と努力だけを問われた大学時代が恋しい。
なにせ大学では、学生用トイレで痴漢に間違えられたことくらいでしか、身長や体型をとやかく言われないで済んでしまった。

中野は待たせた意識はなかったらしく、「早かったねえ」と喜んだ。

中野と連れだって、近所のバーに行った。
中野の大学院生としての生活や研究のことを黙って聞いていると幸せだ。
中野は本当に学問の鬼だと思う。

深谷は中野が自分の「姫」だと密かに思っているのだが、2人とも座っていると、20cmの身長差が10cm程度にしか見えない。
中野と深谷の話の内容は、当然化学のことなのだが、遠目にはBFのことか芸能人のことでも話しているようにしか見えない。
頼んでもいないカクテルが2人のところに運ばれてきて、従業員が「あちらのお客様から」と指し示した。
深谷も中野も面食らったが、とりあえずそちらの2人の男性の方に会釈をした。
彼らは座席を移動してきた。
「いいですか?」と聞いた時には、当然のように腰を下ろしている。
中野は慣れているのか平然としている。
深谷には断る勇気はなかった。
彼らはなぜか深谷に話しかけた。
中野が小柄でややぽっちゃりとした体型で声もハスキーなのに対し、深谷がほっそりとしていて声が高い所為なのかも知れない。
座っているので深谷が長身であることに気が付いていないのは明らかだった。

カラオケをやろう、デュエットしてくれ、という要望を深谷は断った。
何度か断ったのだが、男の方が従業員に頼んでしまった。
彼は深谷が恥ずかしがっているのだと決めたようだった。
イントロが流れてくると、深谷はもう立ち上がるしかなかった。
並んで立ってみると、彼よりも肩1つ分高い深谷に、男は興ざめした。
更に、深谷は音域の最も高い部分でしか喋ることができないので、話し声はソプラノでも歌声はアルトより低い。

歌が終わると、2人とも身体ごと中野の方に向いた。
いつもの構図に深谷はほっとした。
ただ、その後の展開は学生時代とは違っていた。
彼らが「若い女の子なら誰でも乗ってくるはず」と信じていた話には、中野がついていけないのだ。
その点では深谷の方が遙かにマシだった。

彼らが何と言って去ったのかは2人とも気に留めなかった。
彼らが、それでも若い女性達に対して礼を尽くそうとして、出口のところで手を振ったので、2人もにこやかに手を振り返した。
「ナンパされずに済んだのは私のお陰ですからね」
深谷は楽しそうに言った。数十分とはいえ、慣れない扱いを受けて深谷も疲れた。やっといつも通りの「女とは認められない深谷」に戻れてホッとした。中野にはどうでも良いことだったらしく、
「お代わり頼もうよ」
ナンパに失敗した男達のことは忘れていた。


中野に会うと学生時代を思い出した。

しかし、考えてみれば楽しいのは、高校と大学時代である。
男女共学であった小中学校は楽しくも何ともなかった。
特に運動会の「フォークダンス」は苦痛以外の何者でもなかった。
会社で「運動会」があると聞いて、何より競技内容が気になった。
幸い、運動会にそれはなかった。

ただ、労働組合は昔の青年会や娘組の機能をも果たそうとしているのかも知れない。
組合主催の「クリスマスダンスパーティ」への参加が、独身男女に呼びかけられていた。
新入社員である深谷は「もし私だけが不参加だったら」と思うと、怖くて参加したくないとは言えなかった。

中学校のフォークダンスではないのだから、のけぞって踊ることは義務付けられない。
参加したところで、壁にへばりついていれば良いではないか。

本番前に何度か「社交ダンスを踊れない人のための講習会」が開かれた。
篠山を誘って1度だけ顔を出した。
家族に日程を告げると、両親が「パーティ用にワンピースを買いに行こう」と言い出した。
「社会人なんだから、必要なら自分で買います。要りません」
その程度の拒絶を両親が了解するはずもなく、深谷は何着かのワンピースを試着させられた。
全て、膝上丈になってしまい、母が一杯に丈を出してくれるように頼む羽目になった。
そこまでしてスカートを穿かねばならないのはなぜだろう。

当日は、同じ化学分析グループの女子社員達と社員食堂に行った。
自分以外は可愛いと思った。
特に篠山は小柄で美人で綺麗な衣装がよく似合っていた。
深谷と篠山以外の女の子達は、既に意中の彼氏か、少なくとも親しい男友達はいたから、相手に不自由はなかった。
独身者は女子の方が圧倒的に多いので、既婚の上司も多く参加していた。
篠山は上司達にモテモテになっている。
深谷は壁際に移動したかったのだが、そこでは多くのカップルが話し込んでいて、却って居にくい状況を作り出していた。
「踊ってください」
ふいに声を掛けられ、反射的に振り向いた。
深谷のすぐ隣の女性が答えて、声を掛けた上司と踊りに中央へ移動していった。

自分かと思い、振り向いてしまった。
誰も見とがめてはいなかったが、恥ずかしさのあまり、深谷はその場を逃げ出した。


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