「バイバイ、結婚ブーム」


女の子が移動を申請したところで通るはずがない、と課長に叱られた。
女子社員は自宅通勤が大原則であり、従って独身寮は男子にしか存在しない。
餓死しても良いから、合法的に家を出たい。
深谷も必死だった。

居場所がない。
弟が同居しているわけではないのに、これほど居場所が無くなるとは思わなかった。

家事仕事など、女系で伝わるのである。
母の家事のリズムを若い嫁が承知しているはずがないではないか。
台所仕事を深谷がやると、「絵里香を客扱いにした」と弟に恨まれた。
絵里香に任せると、彼女も戸惑い母も戸惑う。
何をどうしてみたところで深谷は「底意地の悪い小姑」である。

深谷が痴漢に対しての怒りを引きずって帰ってきた時にそれを深谷の「自慢」だと言ってのけ、男友達から電話があったくらいのことで「淫乱」と決めつけた同じ人物が、姉娘が嫁かず後家で面目を潰されたと日々嘆く。
父の感情は分からぬでもないが、それを娘にぶつけられたとて、やはり父の気に入るように振る舞うことは不可能だ。

母は深谷が結婚しないことに理解を示していた。
それは有難いが、だからといって嫁に慣れていないことを相性の悪さだと思い込む手助けをしたくはない。

そのうち、父方の叔父が老後は姪の深谷に面倒を見て欲しいと言いだした。
妻と死別した彼の世話は、身軽だという理由で深谷の役になるのだろうが、最初からその予定でいられるのには反発を覚えた。


その辞令に我が目を疑った。

4月1日付で、深谷は東京研究所に転勤するのである。

女の子が親元を離れ、転勤するなど前代未聞の悪事だと父は喚き立てた。
父の友人達も同じ意見だった。
深谷が25歳というのを聞いて「もう定年だろう」と不思議がる人もいた。
勿論、深谷は父の言うことを聞いて退職する気など、毛頭無い。

母は、女子でも働き続けることがあると承知していたし、男女で定年を20年も30年も差を持たせたりしたら、それを不審に思う女子が1人や2人でないことも知っていた。

姉の転勤の話を聞いた良一は「姉貴はもうダメだ」とぼやいたそうである。

現代を生きられない、まだ戦争に負けていない家族に理解して貰う必要はない。
深谷は中野に電話を掛けようと思った。

何度かけても出ない。
念のためコール10回でなく、20回まで待ってみた。
「はい……」
男の声が出た。
「こんばんは。宮田さんのお宅ですか?」
「はい」
「私、奥様の大学時代の友人で、深谷久美子と申します。美香さん、いらっしゃいますか?」
「いません」
伝言を頼もうと思う間もなく、電話は切られた。

嫌な感じがしたので翌日に中野の実家に電話をしてみた。
そこで初めて中野が離婚したことを知らされた。
「ごめんなさいね、深谷さん。先週バタバタと片付けたの。落ち着いたら連絡が行くと思うけど、新住所と電話番号、言っておこうか?」
「はい。お願いします。私も4月から東京ですから」
「あら? ご結婚?」
「まさか。転勤です」
「そう。最近の女の子ってそうなのね。いつまでも落ち着かなくて。昔の20歳は今の30歳くらいに相当するのかしら」
「さあ。昔のことは分かりません」
中野の母親はまだしばらく嘆いていた。
「女だからといって泣き寝入りをしない」ことはそんなに罪悪なのだろうか。


化学分析グループの送別会は3月中、工場付属の研究所は歓送迎会の形で4月に入ってから行うという。
深谷はどちらでも「お客様」だ。
定年退職あり、自己都合退職あり、転勤あり。
その中でも深谷の場合、「能力と気力があるのなら、女の子でも挑戦させてみよう」という趣旨での転勤だ。
ただし、仕事のチャンスは貰えるが、待遇については未定である。

酒が入ってくると、中高年の男性が深谷に大変好意的だったことが分かり、意外だった。
「俺はねえ、今度のことでウチの会社を見直したよ」

彼らは地元の工業高校を卒業して、30年以上真面目に勤めてきた。
彼らの時代には、大卒に変わらないように自分を鍛えたことを、証明するチャンスすら与えられなかった。
賃金差よりもその方が遙かに辛かったはずだ。
深谷も同じだからよく分かる。
彼らの青春時代なら、男だって女と同じ状態に置かれてきたではないか。

「次男だったから進学を許された。俺よりずっと優秀だった兄は、家を継ぐ長男が東京へ出てはならないという理由で、進学させてもらえなかった」
としみじみ語っていた教授を知っている。
彼らからすれば、「偏差値」という、人為的操作が困難な数値をもとに進学できる現代は「結構な時代」なのだ。
別の男性は
「偏差値でなければ、また昔のように本人の努力が入る余地のない条件で決めるつもりかね?」
と溜息を吐いていた。
偏差値だけで勝負できるなら決して負けなかった、彼らの無念さは若い世代なら女にしか分からないだろう。

だが、そこからの主役は大崎に移った。
「私も6月から東京です」
転勤ではないだろう。
「結婚します。だから、5月で退職します」
大崎は32歳であり、誰も彼女が結婚するとは考えていなかった。
まして、大崎に「結婚退職」があるとは夢にも思わなかった。
特にバリバリ働こうと考えていなかった山本が2人目を妊娠しながら正社員を続けていることも意外なのだが。

篠山はやや不機嫌な顔になった。
「山本さんのような普通の女性が、結婚しても子どもができても頑張ってくれてるのって、凄く心強いじゃないですか。でも、一方で、大崎さんみたいに高卒女性としては例外的なくらいの“できる女性”が結婚退職なんかすると、やっぱり、それ見たことか、とか、差別論者が喜びそうで口惜しい。男の人は仕事ができなくても、『あいつはダメだ』って言われるだけで済むけど、女は一人でもそういう人がいると、他の人がいくら頑張ってても『女はダメだ』って言われるじゃない? せっかく小松さんを辞めさせたのに、大崎さんに辞められるなんて。女はどんなに仕事に頑張ってるように見えても、所詮結婚で辞めるんだって決められちゃう」

小声でぼやいた。
小松というのは、仕事上でミスをした時に、相手が男性である時に限って泣いてみせる新人だった。
篠山ばかりでなく、全ての女子社員に疎まれ、憎まれて、自己都合退職していった。
学生なら、泣いてみせても本人だけが「あの子は子どもっぽい」と言われるだけで済む。
小松は気の毒だった。

「篠チャンは進学するんだから、どうでもいいじゃない?」
「何だか最近、このままでいいんじゃないか、あんまり我が儘を言ってはいけないのじゃないかって気がしてきたんです。私が進学したら、お母さんが好きなことをするチャンスがますます遠ざかるじゃないですか。親に学費を出させるつもりはないけど、ただでご飯を食べさせて貰うことになるんだし‥‥。4年分の生活費が貯まる前に学費が値上がるだろうな。口惜しいけど、親がかりでない者は進学するなと言われてるみたい」
「うーん。でも、それでいいの? そのまま自分を殺して、流されるままに結婚して、成り行きで子どもができたら? 今思い出したけど、中学のクラスの男子に、勉強嫌いで、不向きなのに、ひたすら勉強に縛り付けられてた子がいた。あれってむしろ親の夢だよね。夢を相続しろっていうのは横暴だよ。自分にはできなかったからせめて子どもには、っていうのは綺麗に聞こえるけど。子どもに別の自前の夢があったら、その子の子どもに、親の夢を叶えるのに忙しくて自分の夢を叶えられなかったから、今度はおまえが、ってやるのかなあ? それって、伝統? 悪循環?」
「うん。分かるんですけど、でももう21じゃないですか。もし来年受かったら22から4年間ですよね。26の女に就職先なんかあるのかなあ。家事手伝いなんか絶対嫌ですもん。賭に出て、その結果が万年失業者だったらと思うとゾッとします。……でも、今逃げたらチャンスは永遠に来ないと思う。再来年もその次も理由を付けて逃げまくって、私の恨みを肩代わりしてくれる人を捜すことになると思う。……そうですよね、餓死以上の怖いことなんかないんだもの。……何か応援して貰えますか? 私を追いつめるような」
「東京住まいになるから、母校に行って共通一次の願書を取ってきてあげる。2部あればいい?」
「お願いします」


中野美香の近所は楽しかった。
離乳食が始まって、子どもは中野の実家に行ったそうだ。
「親もねえ、複雑なのよ。ま、私が厄介ごとを持ち込んだんだけどね」
中野はさすがに少しやつれていた。
「もう二度と嫁に行かなくていいって叫んでみたり、やっぱり子どもに父親は必要だよって涙ぐんでみたりね。なるようにしかならないじゃない? 別にこっちだって尼さんになるって言ってるんじゃないんだし、裕太の父親探しに血眼になる気もないしねえ」
「うーん」
深谷は何と言っていいやら見当も付かず、ひたすら相槌を打ち続ける。
「かと思うと、新しい恋を見つけろなんて言うバカもいるね。人を何だと思ってるのかしらん? そんなにパッパと乗換が効くものなら、結婚も離婚もないよ」
「……私には分かんないや。乗換の効かない恋なんか経験無いから。でも、随分といやらしい人だよね」
「もとカレ。深谷チャンに言われて納得。そうか、奴はいやらしかったのか。それじゃ仕方ないや」


やや長い休暇には一緒に郷里に帰った。
夏休みには篠山に願書を渡してやれた。
東京の職場はどうか、と聞かれて、「心地よい」と答える。

驚いたことに、30代の女子社員の殆どが未婚であり、20代後半の男子社員の殆どが既婚である。
職場だけで平均初婚年齢を取れば、男が24〜25、女が30前後になるだろう。
このような環境では、有能な女は結婚しないのが当然である。
25の深谷が「結婚退職」どころか「恋人はいるのか?」すら聞かれずに、快適に過ごしている。

郷里に帰った途端に「いい人はできたか」の質問攻めに遭う。中野には悪いのだが、
「嫁き遅れと出戻りとどっちがいい?」
と笑顔で問い返すことにした。


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