「赦し」


松川と伊藤がよく遊びに来るようになった。
よく似合うな、と深谷は2人を見ていた。

楽しい。

30歳の誕生日は、松川と伊藤が祝ってくれた。
中野からはお祝いの電話を貰った。
両親からは早く帰ってこいと言われたが、言葉を濁した。
25歳も結婚式が目白押しだったが、29歳はもっとたてこんだ。
伊藤の拘りを聞かせたら、彼らは一様に怒り出すに違いない。

お見合いは人間を数値化して判定する最たるものだ。
男なら高身長・高学歴・高収入はそのまま及第点になるだろう。
だが、女の場合、高くても低くてもダメなのだ。
「話を持っていくだけでも相手に失礼。こちらもお見合いで結婚できるとは考えられないから、お話しには乗れません」
29歳であった1年間に何度言わされただろう。
怒られ、泣かれ、罵られた。
「こんなにでかい女が恋愛なんかできるわけがないから、お見合いしろと言っているのに。人の親切を無下にして。思い上がった子だよ」

頑張って働いて、お金を貯めて、退職したら、中野と一緒に暮らしたい。
そんな夢を打ち明けたら、中野は大笑いした。
「もう律儀に死ぬまでの人生設計してあるの? 深谷チャンらしいや。私は出たとこ勝負だから、何とも返事できないよ。深谷チャンが家を買う時に、私も独身だったら、お願いするね。再婚するとも、しないとも、決めてないよ。ただ、裕太のことがあるから、こいつが親の保護を必要とする間だけは、損な結婚は止めとくよ」

損な結婚というのは、経済的にも精神的にも一方的な損失を被る結婚である。
結婚しさえすれば何でも良い、というものではないそうだ。
当たり前のことなのだが、「結婚」ということだけに拘っていると、見過ごしてしまう。

嬉しい。

その29歳の危機は乗り越えた。


この2人は何かを勘違いしていると思う。
1週間後、松川の27歳の誕生日を3人で祝った。
ご機嫌な2人の女性を眺めていると、苦笑が漏れる松川だ。

いくら理系と言っても、「蓼喰う虫も好き好き」くらい知っていても良いのではないか、深谷。
29歳に拘りすぎだ、伊藤。
松川としては、彼女達のように何が何でも美しい友情を貫こうなどという気構えはない。

珍しく伊藤が先に帰った。
松川はタクシーが来る間、大人しく待っていた。
「今女性と2人きり、しかも彼女のアパートにいるのか」
とふいに認識したのだが、深谷が「今さら気持ち悪い」などと言いそうなので、黙って置いた。
「遅いねー」
お茶を煎れながら、本当に何も気にしていないらしい深谷が呟いた。
「金曜の夜ですからねえ。こんなに飲むんじゃなかったな」
「少なければ、運転して帰るの?」
「うん」
「ダメっ! うちから酔っぱらい運転の車が出てくなんて許さない」
「深谷さんは警察屋さんですか?」
「違うけど、ダメ。絶対ダメ。何と言ってもダメ。泣くぞ?」
「分かった、分かりました」

更に30分過ぎた。
やはりタクシーが来ない。
「終電無くなるんで。運転して帰ります」
「だからー、飲んでるからダメ!」
「ダメって言っても、帰れなくなりますから。それとも、泊めてくれますか?」
「いいよ」
「は?」
「松川クンなら安全だもんね」
松川は脱力した。何という信頼感だろう。

やはり終電を逃した。
松川は「酔いが醒めたら帰る」と宣言したものの、やはり深谷に文句は言えなかった。

深谷や伊藤がどういうつもりでいるのかは分かる。
だが、自分は同じではない。
友情ごっこを続けるつもりはなかった。
友人ではあるが、同時に思い人なのだから。
このままではまずい、それなりに心地良くなってきた、変えるつもりならラストチャンスだと思う。


いつものように3人で飲み、伊藤が早めに帰った。
その日も当然のように、深谷は同性のようなつもりである。

深谷を送りながら、松川はラストチャンスを探った。
「深谷さんは誤解してますよ」
「誤解って何?」
上機嫌の深谷は屈んで、松川の顔を覗き込んだ。
「こういうこと」
松川は深谷の腰に手を伸ばし、引き寄せた。


ちょっと、待て。

深谷は酔いの回った頭で考えてみた。

こいつはナニをしているんだろう?
ああ、そうか、私を抱きしめてるのか。
何考えてるんだろう?
バカな奴。

松川が「男」であることには賛成する。
身体的には小柄で女の子みたいだが、内面が男だ。
理性的で、懐が深い。
本当に「強い」というのは、松川のような男だと思う。

問題は深谷が「女」ではないことだ。
「女」だという認識は迷惑である。

つきとばしてやろうか?
身体的にはこちらは女だが、身長差もあるし、体力にも自信がある。
……でも、「女」として、男に抱かれるなんてことはもう2度とないだろうし、しばらくは見逃してやってもいい?

迷っているうちに、松川の方が手を離した。
「こういうつもりなんです……」
深谷が黙ったままなので、松川はアパートの前までいつも通りに送り、いつも通りに帰った。他にどうしようもなかった。


翌日、深谷は急遽年休を取り、飛行機に乗った。
中野に会いたかった。
会えればそれでいい。

中野の仕事が終わるのを待つ。
一緒に保育園に行く道すがら、やはり松川のことは笑いながら話した。
「結婚しないことをテーマに生きていくつもりなら……」
中野はちょっと考えた後呟いた。
「それを貫くのが潔いかも知れない。でも、結婚がどうでもいいことなら、文句を言われないようにしといた方が楽だよ。相手に依るけど、……失敗だと思ったら、やり直しがきく時代だし。結婚すると、いろいろ楽だよ。少なくとも、そのことばかり追求されて煩わしいことはないよね」

深谷にとってみれば、中野は信じられないことを言うのだ。

「私は結婚そのものに後悔はないよ。相手選びには失敗したけどね。相手に頼って生きていく女なら、たとえば収入とか学歴とか、そんなことも考慮しなければならないんだけど。でも、あんたも私も、親の世代が考えないことの方が大事なんじゃない?」

会って顔を見られれば、それで良かったのだ。
結婚も悪くない、等と言って欲しかったわけではない。
深谷としては、友情に留めてくれないなら、男友達など要らないと言い渡すつもりだったのだ。
もう、決めていたのに。

結婚しないことを一生のテーマにするつもりなど、毛頭無い。
それは結果であるべきなのだ。
谷として懸命に生きて、それで結果として独身を貫くべきなのだ。
自分自身のための時間もエネルギーも、根こそぎ「妻」であることや「嫁」であることにもって行かれるだろう。
子どもでも生まれ、「母」になれば自分自身として生きることは否定されるのではないか。
夫や家族のために尽くすことこそ本分で、自身の生き甲斐や業績などを求めるのは妻として許されないのが、日本社会というものではないか。
男が研究テーマを追い求めれば「男らしい」と賞賛され、女がそれをやれば「いつまでも半人前」と弾圧されるものではないか。
女と生まれた者が結婚などしたら、人間としては終わる。
人間であり続けるためには、「妻」となってはならない。
人間であろうとすれば、「女」であることは頸木でしかない。


あの翌日に深谷が欠勤したからだろう、松川は決まり悪そうな顔をしていた。
「おっはよ」
だから、深谷としては「気にしていない」ところを見せたかった。
2人きりになった時、
「あれは忘れてあげるから、友達でいよう?」
と提案した。
松川はこの提案には応えなかった。


伊藤が遊びに来ても、松川は来ない。
伊藤の方が何か気が付いた様子だった。
「松川クンと何か、ありました?」
「あったような、なかったような」
「と、仰いますと?」
「端的に言えば絶交宣言だね。私は友達でいたいんだけど、松川クンはそのつもりないみたい。恋愛ならちゃんとした女とやってよ」

伊藤は何と言っていいものやら困ってしまった。
伊藤は、松川が純粋な友情だけで付き合っているとは考えていなかったし、深谷の方も松川を特別に考えていると思っていた。
似合う、と思う。
2人とも年齢や身長に拘っていないではないか。
あるいは、「拘らない」ことに拘っているのかも知れないが。

「ちゃんとした女…って?」
「伊藤ちゃんみたいな、小さくて可愛い人」
「私、小さいけど、可愛くありません。それに、男の人もそうバカじゃないですよ。頭の中空っぽで、胸が大きくて、幼い女の子が好きだと言ってる人も、結局はそういう人とは結婚したがらない。あくまでも一過性の遊びじゃないかな」
「結婚そのものをしないと思うけど」
「そうですね。だから、女が結婚対象外の男性の価値基準に振り回される必要はないと思います」
「そうかもしれない」
「そうです。とりあえず付き合ってみては如何でしょう? ダメなら友達に戻って貰えばいいんだし。それがダメでも、今別れるのも、後で別れるのも、一緒じゃないですか」
「……伊藤ちゃん、好きだー!」
「私も、深谷さん、好きー!」
深谷と伊藤はひしと抱き合い、笑い転げた。伊藤は柔らかくてぷにぷにしていた。


最初に松川に言わせたから、今度は自分の番だと思った。
「印象派展、見に行こうよ。嫌いじゃなければ」

何度か昼間のデートをしたが、何の噂も立たなかった。
冗談めかして伊藤に聞いてもみたが、何の憶測も飛び交ってないらしい。

特定の男と付き合うとは、こういうことだったのか。

相手が既婚男性であろうと、独身男性であろうと、何の意識もせずにふれ合える。
色気のない気さくな人物そのもので居られる。
年上で、比較的長身の独身男性の何人かと噂が出たようだ。
付き合っているわけではないので、それらはすぐに消えた。
彼らの何人かは舌打ちをしていたようだが、不思議と怒りもなかった。

付き合いはじめた以上は肉体的な交友も求められるのだろう。
伊藤がいたりいなかったりするものの、何ヶ月も「付き合う」前と変わらない交友が続いている。

こんなことでよかったのか。
友達と同じじゃない。

ただ、伊藤が同席しない機会が格段に多くなったというだけの、それだけの変化。
まんざらでもない、と思う自分が可笑しかった。


実のところ、きっかけはよく覚えていない。

自分の女としての肉体に執着がなかったこともある。
筋肉を美しく整えておくことに興味はあるが、男を引きつける目的はない。
尼寺に行きたいと何度も思った。
それでも、一族郎党にこぞって反対されてまで、押し切るだけの勇気はない。

どうでもよかったが、誰にでもくれてやるという程でもなかった。
ある程度の条件はある。セックスをすることが目的ではない。
しても、しなくても、どちらでも構わないことに変わりはない。

何の限定をするではないが、松川にならくれてやってもいい。
説明抜きで、そう答えた。

予想よりは痛くない、というのが「初体験」の感想だった。

優しいね、
好きだよ、
私のことを思いやってくれてるの伝わってるよ……、
でもやっぱり
「オトコ」なんだね……。


1度デートにセックスが入り込むと、そればかりが目的になってしまって面白くない…
何人かの女友達が零していた。
「結婚しよう」と言われ、呆気にとられているうちに話は進んでいった。
その頃にふと感じた。忙しくなると、セックスが休憩代わりになってしまう。

田舎の深谷の実家では
「年下の小さい男が相手だなんて、久美子の方が相手を騙したと、世間様に後ろ指さされるようなことをして」
と騒いでいたらしい。
寝耳に水、の出来事で、錯乱したのだろう。

結婚披露宴が終わり、その足で婚姻届を出しに行くことにはしていた。
「もし、妊娠したら、どうするつもりだった?」
「別れるつもりだったよ。女が妊娠するまで平気でいて、結果責任だけ取ろうとする男と一緒にいたくない」
松川は黙り込んだ。(もっとも、この紙切れが受理された時点で、松川久美子という人物が誕生するのだが。)
「本当に『松川』で良かった?」
「うん」
「『深谷』の方がカッコいいのに?」
「うん。私の実績は大したこと無いし、松川クンが深谷になる方が嫌だ。思ったより頭の悪い人間だよ、私。若い男を騙した上、男に苗字を変えさせて夫の面目を潰したとまで言われるのは嫌なの。田舎者をバカにしてるくせに、田舎者は怖いの」
「そこまで言わなくても」

結婚して、一緒に生活するようになって(当初は夫が妻のアパートに転がり込んだ)、待ち時間が増えたことに苛立った。
それでも、思ったほど不快ではない。
いい加減な気持ちで結婚したからか?
結婚に期待していなかったからか?


新居への引っ越しが決まり、買い物などの用事で出かけることが多くなった。
中野が東京に現れた時は一緒に飲みにも行った。夫が一緒であることもないこともある。
「どうですか、結婚生活は?」
「まんざらでもない」
「やだなー、深谷チャンは! ひやかす気もなくしたよ」

伊藤に誘われる時も同じ調子だ。
ただ、あきらかに結婚前と違うことがある。
結婚してからというもの、わざわざ追いかけてきてまで
「ねえちゃん、でっかいなー。男日照りだろう?」
と叫ぶ酔っぱらいに会っていない。

酔っぱらいだけではない。素面であっても、平均的な身長の中年男性にとって長身女は許すべからざる存在であるはずなのだが、擦れ違うばかりで、なんら攻撃を仕掛けてこなくなった。
結婚式と同時に世の男性という男性が大人しくなってしまったのか?
そうかも知れない。


それからの松川久美子は決して結婚指輪を外さない。
妊娠した時に体重管理に気を遣ったのは、正確には子どものためでも自分の美容のためでもない。
結婚指輪を外したくなかったからだ。

見てよ。
私はどんなに大きくても、特定の男の「モチモノ」なんだよ。
どんなに規範から外れていても、私の「主人」が存在する限り、私に制裁を加えることはできない。
だって、「免罪符」を左手の薬指に嵌めているんだから。
社会の理屈ってそうなんじゃない?

社会(=男の好み)の規範から外れる女には社会的が制裁が加えられる、たったそれだけのことだった。
ただ、その適用は資源としての女に限られる。
本人がどんなに人間として生きたいと望んでも、第二の性に生まれた者は資源である。
資源としてあるべき存在は、姿形にしろ、言動にしろ、資源でなければならない。
純潔が求められた時代にはそれらしい小ささと従順さが。
無料の性資源の供給が必要とされる現代では、それらしい小ささと思考力の欠乏が。
しかし、資源として誰もが利用できる状態でなくなったら、誰か人間(=男)のモチモノになったのならその限りではない。

男が女を「守る」というのは、経済的に養ってくれることや、物理的に暴漢の手から「守って」くれることではない。
規範からはみ出した性資源を「モチモノ」と主張し、資源でなくしてくれることによって、生存権を保障してくれる。

人間にはなれなくても、人間のように安全な生活ができる。楽だと思う。

----------

完結です。しんどい話でしたが、読んでくださった方には感謝申し上げます。
ありがとうございました。
作者も既婚女性ですが、免罪符のお陰で日々快適に過ごしています。今度は、自分の能力を生かして、社会に貢献していきたいなと思っています。


HOME小説トップ「赦し」1へ

inserted by FC2 system