「15・トラ縞の子犬」


龍が帰ってこない。

もう半月経つ。
おそらくは須磨で歓待されているのだろうが、帰ってくれないと困る。

最初は五郎が風綬を慰めていた。
風綬が怒ったり、何とも思っていない振りをしたりしている頃は、まだよかった。
風綬の感情だけを問題にすれば良かったのだ。
実際、龍太子を浅海の神霊一族があっさりと帰すはずがない。

「そんなに嫌がられるようなことをしたのだろうか? 俺には覚えが無くて……」
五郎に本音を洩らす頃になって、そのことを考慮しなかったと知らされた。
通力が龍に与えられることなく、風綬の内に溜まってきているのだ。
五郎を空腹にすることはないのだが、五郎に余裕が無くなってきた。
目の前に極上の餌をちらつかされて、悩みを聞くどころではない。
ある時、鼻血が止まらなくなった。
それ以来、五郎も風綬を避けている。
誰が五郎を責められるというのだ?

その極上の餌が全くの無自覚である。
五郎にまで避けられるようになって、すっかり落ち込んでしまった。
その風情がまるで「食ってくれ」と言わんばかりなのが、始末に負えない。

人間共は摂津達の苦労も知らずに、厄介事を起こそうとする。
威尊親王は風綬を使いに出すつもりでいたのだ。
あんなものが摂津の結界の外を歩き回れるわけがない。
1歩出れば、たちまち魑魅魍魎の類が群がってくるだろう。
畿内の神霊が龍に遠慮していると言ったって、今や理性で抑えきれるようなものではない。
もともと質は極上だったところにもってきて、量の方も申し分なくなったのだ。
理性に乏しい下等なものから抑えが効かなくなるに決まっている。
石段を下りかかった風綬の袖を引いた時、摂津でさえ生唾を呑み込んだ。
どうにも仕方なく、親王に事情を話して淳良を代わりに立てさせた。

「ああ、もう我慢できない! 龍を迎えに行ってくる!」
摂津がしびれを切らした。
五郎は慌てた。
第一に、このような強力な鬼が動けば、須磨に行くまでの間様々な神霊に挑みかかられるであろう。
第二に、五郎一人残されても、大人しく待っていられる自信など無い。
「自分の理性がこんなにもか弱いものだとは知りませんでした」
と言うのだが、実際には五郎が悪いのではない。
第三に、人間共である。
何をどう言い含めたところで、淳良の厄介体質は変わらないだろう。
五郎に摂津のような対応ができるとも思えなかった。
「御前、お待ちください! 今、しばし」
「このままではそなたが失血死するではないか。大事な従者だ、我に行かせ!」

2人がもみ合っているところに、のんびりした顔で龍が帰ってきた。
「やれやれ、須磨で思いも寄らぬ歓待をして貰った」

殴ってやろうと思った。
それができなくても、せめて嫌味の一つは言おうと思っていた。
だが、半月ぶりに風綬の前に現れた龍は、摂津と五郎にさんざん殴られた後だった。
仕方なく手当をしてやる。

2人の様子を見て、摂津と五郎も漸く安心した。
地獄の責め苦は夕刻で終わる。
夜には龍が風綬の通力を喰らい、むやみやたらに美味な気配がまき散らされることもなくなる。

「腹減った」
「他に言うことはないのか?」
風綬は苦笑した。須磨まで行って来て、話すこともないのだろうか?
「ない。とにかく風綬に会いたかった」
「俺じゃなくて、俺の通力なんだろ?」
「うまそー!」
龍は食事を済ませてしまうと、そのまま寝てしまった。
「通力がなければ、俺は誰にも好かれぬ男か……」
風綬は呟いた。


淳良が算博士に乞うてトラ縞の子犬を貰ってきてしまったのは、その翌日のことであった。

後ろ姿は巨大なトラ猫、だが紛れもなく犬である。
名を「コトラ」という。

変わった容貌であるのに、ひ弱なところはなく、淳良が投げる小枝を何度も拾いに行っている。
本物の口があるからくわえて戻ってくる。
本物の尻尾を振って、「撫でてくれ」と全身でねだるのだ。

淳良がコトラと遊んでいる様子を眺めていた威尊親王が、そわそわし始めた。
「俺にもやらせろ!」
親王まで庭に飛び降り、五郎に龍を呼んでくるように言いつけた。
「淳良、龍が足が速いと言っていたな」
「はい」
「こいつとどちらが速い?」
「龍」
「試そう。摂津、そちの従者はどうだ?」
「速い」
「淳良、おまえは?」
「逃げ足ならお任せください」

神霊に鬼、若者と子犬が寺の隅の庭を走り回る。何度やっても龍が小枝を掴んでしまう。
「龍、そなたが小袖袴ではいかん。着替えてこい」
親王が面白くなさそうに言い渡した。
龍が着替えて出てきたところで、また走り回らせる。
日が傾くまで遊んでいた。

淳良が急ぎ作らせた犬小屋にコトラを連れてきた。
トラ縞模様が変わっているが、可愛らしい顔をしている。
淳良は何度も抱きしめ、頭を撫でた。コトラの方も淳良の顔を舐め回している。

そこへ、ガチンと堅いものが当たった。
「キャイン!」
「痛っー!」
見ると犬枕である。
「コラ、ダメじゃないか!」
淳良に叱られるとは思っていなかったらしい。
尻尾があれば目一杯垂れさせたであろうに、それすら叶わず、犬枕は引き返していった。

温かく、柔らかいコトラは、人にもよく馴れている。
聞き分けも、子犬とは思えぬくらい良かった。

翌日は犬枕も遊びに加わろうとした。
だが、口がないので、くわえることはできない。
誰かが何かを言ったわけでもないのだが、何度か走ると犬枕は中に引込んでしまった。
「親王様」
摂津が声を掛けても、威尊親王は夢中で遊んでいる。
全員が童心に返ってしまったかのようだ。
「風綬にも、仕事は後でいいからこちらにおいでと、声を掛けておやりなさいまし」
返事はない。
「親王様! 親王様ったら!」
摂津が苛立ってきたので、龍が返事をした。
「今朝、俺も声を掛けたのだが、仕事があるから、って」
「あの木っ端役人! だから、親王様の命令じゃなきゃダメなんだってば!」
「煩い、摂津。仕事は後でいいなんぞと言ったら、かえって怒るぞ、あやつは」
やっと返事をしたものの、親王の答えは素っ気ない。
「じゃ、俺が……」
「龍が抜けたら面白くない。そんなに風綬が気になるなら、摂津が様子を見てくればいいだろう? 写経をしているだろうからな」
「写経……って、本来親王様の修行ではありませんか!」
こういう都合の悪いことに返事が返ってくるはずもない。

仕方なく、摂津が風綬を迎えに行くことにした。

写経をしている様子はない。
彼の指示を下人が聞いている様子でもない。
声を掛けるのも躊躇われ、摂津は黙って中に入った。

風綬は犬枕を抱きしめていた。


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