「マドンナ」


約束が違う。

確かに、日本女子大学校の受験を認めたのは岡宮雅之であり、西条功喜のあずかり知らぬことだ。
だが、秀子にとっては結婚を決意するに当たっての重要な取り決めだったのだ。
彼女は何度か手紙で婚約者に懇願したが、返事は常に否定的だった。


大正五年三月。
卒業式を終えると、秀子と両親は先方の邸宅を訪問した。
この半年、秀子は婚約者をよく知ろう、怖がらずにいようと努力してきた。
その努力の甲斐無く、秀子には彼が怖い存在だし、彼の結婚の申し込みそのものが腑に落ちない。
ただ二回会っただけ、それもその時点で彼女は彼の従弟の婚約者であった。
両親と共に先方の家族に会っても、謎は深まるばかりだ。

父親も戸惑っていた。
自分自身、妻を大切に扱ったわけではない。
妻もすぐに芝居見物やら社交やらの他愛のない遊びの方に夢中になった。
相手を大切に思わぬ点ではおあいこであったし、子ども以外の目的はなかった。
しかし、この娘は違う。
婚約者殿は何故ああも無表情な目でこの娘を見るのか?
それも彼のたっての希望での結婚だというのに。
しかし……
父は希望的観測をすることにした。
彼が惹かれたのは娘の容貌なので、一時的に情が冷めているのだ。
夫婦として生活するようになれば、娘の聡明さや情の細やかさがすぐにもわかるだろう。
そうしたら、あらためて娘を愛しく思ってくれるに違いない。

秀子の方は父ほど楽観的になれなかった。
彼との結婚を考えるたびに気がふさぐのだが、家にとっては名誉なことなのだ。
今さらいやだと泣くわけにはいかない。
秀子は他のことを考えることにした。

「ねえ、お父様。あのメイドの衣装、燿ちゃんに着せたらどんなに可愛いでしょう」
「あの小間使いかね。似合いそうだ」
「カフェーの女給の衣装に似ているのですか?」
「白いエプロンが同じだ」
「よく行かれるのですか?」
「何が?」
「カフェーです。私は行ったことがないのですもの」
「行くことは行く」
「お母様と?」
「何を言い出す?」
「だって、連れて行って欲しいんですもの」
「そんなものは未来の夫君に頼めば良かろう」
「いやです。娘のうちに行ってみたいんです」
父が言いよどむと、珍しく母が口を開いた。
「それなら、私が連れて行ってあげましょう。でも、母親とカフェーに行く娘なんてあなたくらいでしょうけど」
「お母様と一緒ならよろしいですか、お父様?」
「反対はせぬ」

主人の一家がお留守なので、女中頭は家へ帰る者は全て帰した。
燿だけが残ったので、二人で働いた。
「私らも不安なんだよ。あんまりお嬢様頼りだったから」
家の中のことは奥方の支配下であり、主人は口出しできない。
それは三嶋家においても然りなのだが、この一、二年お嬢様がしっかりしてきたので、自然彼女の指示を仰ぐ形になったという。
「お嬢様ならすぐあちらにも馴染まれるとは思うけれど、最初は心細いだろうね。きっとおまえを連れて行きなさるだろうから、しっかりお仕えするんだよ」
「はい」

柱時計が時を告げた。
休日ならちょうど秀子が帰ろうと言う頃だった。
「何だい、急にそわそわして、切なさそうな様子でさ。……ここだけの話、お嬢様にいい人がいなさるのかい?」
いるといえばいるし、いないといえばいない。
どうにも答えようが無く、燿は俯いた。
「そうか、何となくそんな気がしてたんだよ。お嬢様はその方にお心だけを捧げなすったんだね?」
「はい……」
「可哀相に。可哀相にねえ……娘盛りだというのにさ……ああ、そうだ、おまえはいっといで。おまえとて名残は惜しみたかろう」
「私は……そんな……」
「いいから、行きな」
「ありがとうございます」
耀は一礼して立ち上がった。
勝手口を出た瞬間、彼女は走り出した。

堤防の上では、多くの中学生と行き交った。
着替えて帰るところなのだろう。
「燿ちゃん、本郷さんなら艇庫だよ」
淳之助が帰ってくる時、反対方向に向かう燿に気が付いた。
「ありがとうございます。艇庫ってどちらでしょう?」
「橋を渡って、川上に向かって三百米くらい。見れば分かるよ」
淳之助はバイバイと言って手を振った。

艇庫はすぐにみつかった。
荘一朗が錠前を下ろしているのが見えた。
燿は無言で堤防を降りた。
荘一朗は振り向いた。
彼は信じられないものを見ているかのような表情だ。
それから、少女の方へ駆け寄り、両腕を広げ、しっかと彼女を抱きしめた。
少女の方も素直に彼に抱かれていた。

俺は何をやっているんだろう?
荘一朗は頭の隅で考え続けた。
俺はこの頑是無い少女を好いているのか?
この幼い無垢な瞳を愛しく思っているのだろうか?
それでも、何かを口に出したくはなかった。
何か言葉を発した途端、この羽根のように軽く頼りなげな娘は飛び去ってしまうにちがいない。

燿が静かに泣いているのに気が付いて、荘一朗はそっと腕を外した。
「ごめん、驚かせたね」
「はい……いいえ、いいえ……驚きました。でも、悲しくないんです。私、誤解してしまうところでした」
「誤解って何?」
「そんなこと言えません」
「言ってくれないと分からない。君のことを分かりたいんだよ」
「いいえ。お聞きにならない方が良いと思います」
「燿ちゃん」
荘一朗はもう一度燿を抱きしめた。
今度は彼女は荘一朗の胸をそっと押した。
「いけません、恋人になさるようなことを私にしては。本郷様が嗤われます」
「嗤いたい奴には嗤わせておけばいい。それに僕は君の恋人にはなれないのだろうか?」
「どうか私をそんなに苛めないでください。……お願いです、私もう行かなくては。ここに来るのではなかったと思います。本当に恥ずかしいわ」
「……君の言うことが僕にはさっぱり分からないよ」
「……ごめんなさい」

燿が走り去っていくのを、荘一朗は茫然と眺めていた。

そうなのだ。
あの子がどのような境遇にあるとしても、あの子こそ僕のマドンナであったのだ……。


翌々日、秀子は母親とカフェーへ繰り出した。

母が自分に何かを、それも家の者が聞くことがない場所で、伝えようとしていることは分かった。
とはいえ、非常に言いにくい話であるらしく、他愛もない話をしては言い澱み、世間話をしては言いよどむ、という具合であった。
秀子は無理に促しもせず、母の話の調子に合わせた。
カフェーの洒落た雰囲気が気に入ったのである。

ついに母は決意を固めた。
「あのね、秀子さん。来月お嫁に行くことが決まっているあなたにこんな事を言うのも気が重いのだけど。本当はもっと早くに言っておくべきでした」
「はい。嫁としての心得でしょうか?」
「そのようなものね。……妻として、と言った方が良いかしら。嫁して最大の務めは、世継ぎを生むこと。分かりますね?」
「はい」
「世継ぎを産むためには、その前にやらねばならぬ仕事があります。身の毛もよだつようなことです」
「そんな怖いことが? どういうことです?」
「その場になれば分かります。夫に従うこと。いいですね?」
「はい」
「大変な苦痛を伴いますが、逃げてはなりません。舅姑のみならず、小姑がいれば、あなたを敵のようにして辛く当たるでしょう。それでも逃げてはならぬのですよ。
私はあんまり辛くて逃げてしまったの。
実家にね、逃げ帰りました。すぐに戻ったのだけど、わだかまりは残りましたね。夫婦だけじゃない、奉公人どもも結局私に従うことはなかったのです。
あのことはもう知っている者も少なくなったけれど、それでもわだかまりは残り続けるのです。
今でも、実家に帰りたいと思いますよ。今は兄の代になっていますけど、それでも私が豊浜に馴染むことはないでしょうね。
……ただ、私も若かったから、後先も考えずに逃げ出してしまったのだけれど、今になって考えてみれば何もあの時慌てて逃げる必要など無かったのです。
何故って、舅姑はいずれ亡くなるのだし、小姑もすぐに片づきます。
あのぞっとするような仕事とて、子ができるまでの辛抱なのですから。その頃までには、女中の何人かが旦那様の愛人代わりになっていますし、世の中にはそのような仕事を生業としている女もいるのです。
器量の良い娘を連れて行かれるといいわ。この時ばかりは気が利くよりも器量のいい女中が役に立つのです。
……短気をおこさぬように、賢く振る舞うのですよ。
あなたは、学問はできるけれど、肝心なところがバカ正直だから心配になってしまいます」

母の苦しい人生が秀子に覆い被さってきた。
奉公人達は、いつまでも自分たちを信じようとしない奥方を煙たく思っていただけだった。
母の後悔は「賢く立ち回らなかった」ことに尽きる。
そして、娘には同じ愚を繰り返させまいとしているのだった。

この時、秀子は単身で西条家に嫁ごうと決めたのだった。


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