「良妻の実力」


結婚式まであと一ヶ月もない。
秀子は早速父に燿の働き口を世話してくれるように頼んだ。
「あの子はまだ一四歳です。できれば慈善のお心であの子を女学校にやっていただきたいわ。
それができなければ、どこか、信用のおける、あの子のためになる働き口を見つけて、あの子の保証人になってやって欲しいのです。
一年間。何とか、あの子が立ちゆけるようにお願いします。一年すれば、あの子を迎えにいらっしゃるはずだから」
「何だかよく分からないが、入学式も終えて今から女学校は儂でも無理だ。働き口なら、三園家がいいだろう。繭の仕事がある時期は、別途で給金を払うように言っておこう」
「ありがとうございます」
「あの子を連れて行くのではなかったのかね?」
「いいえ、お嫁に行くのですから。誰か人を連れて行っては、いつまで経ってもあちらの家に馴染まぬでしょう。西条の嫁になるという覚悟を示す所存にございます」


四月半ば。
帝国ホテルで盛大な結婚式が執り行われた。
まだ一七歳の花嫁はこの上もなく美しかった。
一族の者が揃っているのだから、出席者の中には岡宮雅之がいた。
彼は、自分のものにならなかった花嫁を見つめていた。
花婿は、美しい花嫁よりも、むしろ従弟の苦悩に満足を覚えた。

一七歳の新妻は舅姑に手を付いて挨拶をした。
さすがに日本女子大学校に行かせろと言うだけのことはある、立派だ、と夫は思った。
美しく「御清潔な」親好みの嫁である。
地方都市の出身とは言っても、政府の要人や軍の上層部の人間が別邸を持っているところであり、片田舎ではない。
その呼称がないというだけで、上級の士族の娘であり、その生まれに相応しい教養を身につけている。
まずは及第としていいだろう。
功喜はそうした両親の思惑を嫌悪していた。

秀子は、心細さと戦いながら、儀式を次々とこなしていった。
舅姑は少なくとも形式的には秀子を受け入れた。
奉公人達は、不満はあろうとも文句の付けようもなく、黙らざるを得なかった。
当面の最難関は、はじめて夫と二人きりになってからのことである。
母や女中頭から、さんざん脅されたが、それが何か問うと、どちらも「その場になればわかる」としか答えてくれなかった。

功喜が秀子の手を取って夫婦の寝室に連れて行ったところを見届けて、若いメイド二人がささやき合った。
この二人は普段仲が悪いのだが、このときに思うところは同じだったようだ。
「若いといっても、限度がありますよ。あれでは、ままごと。あんな子どもに指図されるのかしら。情けないったら無いわよ」
「見目形だけに殿方が惹かれるものだと思ってるんでしょうよ。でも、女らしさには欠けますね」

脅しが脅しではなかったことを、秀子はすぐにも思い知らされた。
彼女は最初震えていた。
着物を剥がれた時には、不安と恥じらいとで涙ぐんでいたが、尚も何が何だか分からなかった。
よもや既に雅之が手を付けたのではないかと疑っていた功喜は、秀子の様子を見て安心した。
彼女は紛れもなく、無垢な乙女だった。
彼女を可愛く思ったのはこの時が初めてだった。
ところが、赤子のような相手に、功喜は次第に苛々してきた。
秀子としては、夫の気に入るように、言うとおりにしていたのであるが、恐怖心が先に立っている。
苛立ちはついに怒りに変わった。

秀子はいつまでも夫婦の布団の中で泣いていた。
酷い虐待だと思っていた。
私が何をしたというのだろう?

「おまえは顔が綺麗だという以外、何の取り柄もない女だな」
功喜は鋭く決めつけた。
「鼻っ柱が強く、分際というものを知らず、主人を見下しているのだ」
「誤解をなさらないでください。本当に何も知らなかったのです。優しく教えてくださるものと思っていました」
秀子は涙声で言い返した。
「ほう。俺が悪いというのか?」
そして、功喜は狂ったように笑った。
「ああ、やめて。やめてください、私もどうにかなってしまいそうです。私の何がいけなかったのでしょう?教えてくださいませんか、改めますから」
「偉そうなことを言うな」
「お願いです、教えてください。どうしたらお怒りを収めていただけるのでしょうか?」
「帰れ。今すぐ実家に帰ってしまえ」
「後生です、そんな怖いことを仰らないで。嫁いできたのですから、もう帰る家はありません」
「俺の言うことを聞くのではなかったのか。おまえはいちいち逆らうのだな」
秀子も彼に何を言っても無駄であることを悟った。
「私を嫁に欲しいと思った時のことを思い出していただけませんか。悪いところは改めますから、きょうだけはお許しください」
「学のある者はろくでもないのだ。おまえに改められるものか。俺など簡単に騙せると思っているのだろう。女子大学校だと? 生意気を言っていたおまえが随分としおらしい演技をして見せるものだ。まったく、感心する。……おまえなど見ていたくない。出ていけ。帰る家が無くても、この家の中に空き部屋などいくつもある。好きなところで寝るがいい」
「お腹が痛くて、とても動けません」
「それなら、俺が出ていく。おまえは動けるようになったところで出ていけ。俺が帰るまでに出ていかなかったら、承知しないぞ」
彼はそう言い捨てて本当に出て行ってしまった。

残された秀子は泣き続けた。
そんなに悪いことをしたのだろうか?
何がそれほど癇に障ったのか?


秀子が嫁いできた時に快哉を叫んだのは、女中頭の松であった。
松は亡くなった先代の奥様の代から仕えている。
松の強い力で、大きなふっくらとした掌で、按摩をしてもらうと「天にも昇る心地」というのが、先代の奥様に気に入られた最大の理由である。
今の奥様も同じ理由から彼女を手放したがらなかった。
もっとも松もお暇をもらうわけには行かないのだ。
彼女は陰で「マツヤニ」と渾名されるほどの不器量な女性であった。
あまりの不器量で「もらい手」が付かず、四〇を目前とした現在に至る。
「私くらい凄いのになると、どんな美人を見てもビクともしないものさ。
でも、あんた達は心穏やかならずだろうねえ。
器量のことで何を云々したところで、あの若奥様の前じゃ、あんた達も私と似たようなものだからね!」
たいていのメイドは納得しないわけにはいかなかった。
ところが若い二人のメイドは納得しなかった。
松も承知はしていたが、二人とも若旦那様のもとからの「愛人」だったのだ。
この二人だけがことごとくに若奥様に逆らった。
松が注意しても、とぼけるばかりで反省がない。
メイド達も若夫婦がぎくしゃくしているのはうすうす感じていたから、彼女達も強気だったのだろう。

彼女達の態度が二週間変わらなかったので、松は大奥様に彼女達の解雇を進言した。
「まだ子どもとはいえお嫁様には変わりはございませんのに、素直に従わぬメイドなどを放置しておいては奥様が物笑いの種となりましょう。どうか、ご決断をお願い申し上げます」

そこで奥方はとりあえず息子を通じて「愛人」達に注意をさせようとした。
ところが、意外にも息子は母に解雇を勧めたのだった。
「使用人の分際で秀子に従わないとは放置しておけないでしょう。このままではしめしがつきません。
上下の関係はきちんとすべきですね。僕としては、あの二人をどうなさろうと、異存はありませんよ」

メイド達もあの二人に関しては「私が若様の本当の妻なのよ」と言わんばかりの態度が悪いと思っていたし、解雇は当然の処遇だろうと思っていた。
だが、功喜も解雇を勧めたと聞き及び、ようやく女の武器が主人達には全く無効であり、喜んで利用されるだけなのだということが分かった。


平松永子からの電話があったのは、梅雨に入ろうかという頃だった。
秀子にはその名に心当たりがなかった。
「突然で驚かれたでしょう。私、陸軍士官学校二六期生・平松少尉の妻で永子と申します」
夫の同期生であった。
「ご挨拶が遅れ、大変失礼致しました。西条の妻、秀子と申します」
「いらしたばかりですもの、仕方のないことですわ。二六期生の本妻達の間で交流がございましてね、今お近くのプラージュで三人でいますの。出ていらっしゃらない?」
無理矢理奪うようにして結婚した妻をぞんざいに扱う夫には鬱々としていた頃でもある、秀子は即座に応じた。
「はい。伺います」

女中頭の松に「プラージュ」の所在地を聞くと、本当に近くである。
「若奥様のようなお若い方には好まれそうな洋菓子店ですよ。いってらっしゃいませ」

松は大変に愛想がいい。
笑顔でなくてもつい「恵比寿」を連想してしまう。
笑うともう本物の福の神様だ。
「ありがとう。いってきます」

一階では洋菓子を販売していて、二階で店の菓子と珈琲などの飲み物を出している、といったつくりの店である。
酒類を置かないので、確かに女性客が多い。
女給に聞くと、早速平松永子らのいるテーブルに案内された。
「お待たせ致しました。西条秀子です」
三人はしばらく秀子を見つめていたが
「まあ、本当に綺麗な方ね」
「松井須磨子がいらしたのかと思ったわ」
溜息を吐いた。
「私がお電話をした平松永子です」
落ち着いた雰囲気の永子が先ず自己紹介をした。
「こちらは佐野節子様、こちらは新橋孝子様よ」
「よろしくね」
「あら、立たせたままでしたわ、こちらへどうぞ」

二六期生の夫達は本妻の交流に別段関心を示さなかったが、この春彼女達が庭球を始めると聞いて目をむいた。
「つべこべ仰ると、私、婦人運動の方へ走りますよ」
永子が澄まして答えると、夫は言葉を失って真っ青になったという。
「陸軍少尉の本妻が婦人運動! もうあの顔ったら! みなさんにお見せしたかったわ」

しかし、三人で庭球を始めるとどうしても一人余ってしまう。
「そんな折りに、二六期生出世頭で、庭球を大の得意としておられる西条様がご結婚なさったと聞きまして、これだ!と思いましたね」
「あなた、庭球のご経験は?」
「全くありません。でも、やってみたいとは思っていました。お仲間に入れていただけますか?」
「よろこんで。大歓迎よ」
「嬉しい! それなら主人に少しは教わって参ります」
その言葉を聞くと三人の表情がこわばった。
「ご主人に教わっていらっしゃるって、白昼堂々仲むつまじくなさるの?」
「およしなさいよ。妾に間違えられますよ」
「そうよ。それでなくとも西条様のところは妾よりも本妻の方が若くて綺麗なのだから、余計に間違えられやすいじゃないの」

豊浜で本郷荘一朗などと一緒に遊んでいた頃のような考え方は、確かに普通の人には馴染みにくいのだった。
女学校でキリスト教徒に間違えられたこともある。
経緯はどうあれ、夫婦となったのも縁があったからだろう。
縁があったなら、良い縁にしていきたいと願うのは、それほど突飛でもないと思うのだが?
「ご心配をおかけしてしまいました。でも、妾に間違えられるほど睦まじくなんかありませんから、大丈夫ですわ」

夫からテニスの話など一度も聞いたことがなかった。
騎兵中尉だから乗馬もする。
こうして並べてみると、夫は随分西洋好みのようだ。

秀子は結局夫婦の寝室の隣室で寝ている。
たまたまここまでしか動けなかったので、何となくここにいることに決まってしまった。
二室を隔てる襖が一寸ほど開くと、「入ってこい」の合図だ。
遊びに出ない夜は大抵こうして秀子を抱くのだから、妻を夫婦の寝室から追放したままにしている理由は何なのか?

布団の脇に座ると、功喜はいつものように乱暴に秀子の帯を引っ張った。
「きょうはお願いがあるんです」
秀子は「虐待」される前に言ってしまおうと考えた。
「手短に言え」
「庭球を教わりたいんです」
「庭球?」
功喜は妻を抱き起こした。
「どういう風の吹き回しかね?」
そこで、秀子は昼間に平松永子らと珈琲を飲み、その時に、功喜が庭球を得意としていることと、女四人で遊ぼうという計画を聞いたことを話した。
「ふむ。そうか。俺は女が庭球をやることに反対はせんぞ。大いにやりなさい」
彼の表情は今まで秀子が見たことのない活き活きとしたものになった。
「ただ、俺の庭球は競技だから、女向きじゃないんだ。おまえ達も競技をやるのか?」
「まだ詳しい相談はしていませんの。私なんか女学校でお友達がやるのを見ていただけ」
「ラケットを持ったことは?」
「ありません」
「やってみれば楽しいものだよ。で、おまえは何をやっていたんだ?」
「陸上競技」
「ほう。すると……」
功喜は秀子の浴衣の裾を捲り上げた。
「きゃっ!」
「何を今さら恥ずかしがることがあるか。……この脚は陸上競技の賜物であったか」
それから、秀子の腿を軽く叩いたり撫でたりした。
「随分とかたい脚だ。まるで男だな。腕は……棒っきれか。驚いた」
功喜があまり物珍しげに見つめるので、秀子も彼にしたいようにさせておいた。
「子どもの頃使っていたラケットが取ってあったはずだ。明日の朝捜してやる」
「ありがとうございます」
「本妻の会とやらは、平松と、あとは誰だ?」
「佐野様と新橋様です」
「面白い取り合わせだ。おまえ達が庭球を始めるなら、夫婦の対抗戦というのも面白そうだな」
「すてき!」
秀子は心からそう思ったのだ。
功喜は面食らった。

功喜は秀子の帯をゆっくりと解いた。
「どこもかしこもかたい。気が付かなかったな、何故分からなかったんだろう?」
功喜はずっと秀子を調べていた。
気が済むまで調べると、我知らず秀子をかたく抱きしめていた。

ここは俺の家で、貸座敷じゃない。
相手だって本妻ではないか……。
俺は何をやっているのか?

妻に庭球を教えるのは思いの外楽しかった。
秀子もすっかり地金が出ていて、ムキになって言い返したり、怒って頬をふくらませたりした。
親や雅之が好む「良妻賢母」のインテリ女は、彼女の一面でしかないらしい。

しかし、夫婦の対抗戦は止めておこう。
平松は「妾ならともかく、なぜ永子と庭球などせねばならんのだ?」と叫ぶだろうし(妾がこんな男勝りなことをするものか)、佐野は「拒否する」と一言で片付けるだろうし、新橋は「妾よりも本妻の方が若いという特殊事情を持つ貴様に有利すぎる」とくるだろう。


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