「神代の家」


三園商会の若奥様が新生児を連れて戻ってからは、燿は女中奉公へ切り替わった。
店で働いていた時に合間に作った芋ガラ(繭を取ったあと、乾燥場に干しておいたもの。産後の回復に効くと言われている)は、若奥様の分はきちんと取り分けて置いてあった。

秋蚕が終わると、奉公人の大半は他の店や工場に移っていった。
従って、女中の仕事もグンと少なくなり、給金も相当下がってしまうことになる。
だが、太助の進学資金は貯めてしまったのであるから、二年後までどんなに苦しくともこれに手を付けなければ良いのだ。
女中の間の給金の全てを仕送りしても構わないと思った。

台所の仕事は耀が主になった。
三嶋家で覚えた西洋料理を出してみたところ、やはり若夫婦は「珍しい、面白い、不思議な味だ」と喜んでくれたのだが、老夫婦や番頭、新吉は「勘弁してくれ」と言った。
そこで、若旦那が「早春にご隠居達が湯治に行くから、そのときにまた作っておくれ」とまとめた。
番頭と新吉は顔を見合わせた。
西洋料理はともかくとして、「冬になって料理人が変わったら食が進む」のは誰もが認めるところであった。
気のいいヨネは感心しているだけで、ヤキモチを焼く気はないらしい。

冬の間、乾燥場は様変わりする。
呉服屋や下駄屋が場所を借りて、店を出すのだ。
食料品以外は一ツところで買い物が済むので、評判は上々だ。
一日の販売と片づけが終わったところで、新吉と燿が点検に回った。


一二月初め頃、射的屋から、燿を店番に貸して欲しいとの申し出があった。

射的屋の旦那が腰を酷く痛めたのでと、若旦那に頼み込んでいるのをヨネが聞いた。
「ねえ、アキちゃん、あんた射的屋さんの看板娘になるんだよ」
ヨネは大慌てで台所に入ってきた。
二人とも二、三度射的屋で仲士の佐助を見かけていた。
ヨネが言いたいことは分かった。
「私には無理よ。お客様がいらしてくださっても、笑顔なんかできない。引きつっちゃうわ」
「そうよ。アキちゃんには向かないと思う」
「きっと若旦那様が別の人を推薦してくださると思うわ」
別の人、と言ったところで、この時点で三園商会にいる娘は燿とヨネの二人きりである。
「そうかな。そうだといいけど」

奥でも意見は同じだった。
「燿なんかダメですよ」
大奥様と若奥様がピッタリと声を揃えて言った。

この嫁姑は、一目会った時から仲が良く、何から何まで意見が合うのだった。
特に子どもが生まれてからは、知らない人なら「三園商会さんでは娘に婿養子を取っている」と思い込むほど、顔立ちまで似てきていた。

「あの子に客商売は無理ですよ」
「そうそう。新吉さんですら、わんわん泣くような子でしょ。まかり間違って、やもめに手なんか握られてご覧なさい。どんな大騒ぎになるのか、考えただけでも、私ゃ頭病みがしてきますよ」
「全くねえ。下駄屋さんだって、呉服屋さんだって、えらい迷惑でしょうよ。燿を出すくらいなら、ヨネの方がよっぽどマシってもんだね。あの子は気は利かないが、愛想がいいよ。燿と並べてみるからおヘチャに見えるってだけのことで、あの子だけで見りゃあ、なかなかどうして可愛いじゃないか。おまえ、おたくさんの商売のためにもヨネをお貸ししますっていっといでよ」

こうして昼の間はヨネが射的屋で働き、万一ヨネの稼ぎが女中の給金を下回ったらその分を補償するということになった。

そんな心配などいらなかったことは、言うまでもない。
世の中は異常な好景気に沸いたまま、年の瀬を迎えようとしていた。
羽振りの良い仲士達ばかりでなく、日銭を稼ぐ労働者達ですら遊びにやってきた。
生来陽気で気さくなヨネは、客の中に佐助を見つけると、とりわけ愛嬌たっぷりになるのだった。


一二月半ば過ぎ、三嶋家に燿宛の手紙が届いた。
女中頭は表書きの文字の拙さが気になり、手紙を受け取ると「ちょいとでかけてくるよ」と言って、坂を下りていった。

本郷旋盤工場の裏の母屋の玄関口で、奥方がちょうど出てきたところだった。
「筋違いとは存じますが」
女中頭は奥方に手紙の件を依頼した。
「いいですよ。今日、明日と学期試験だっていうんで、早く帰ってきますからね。自転車で届けさせますよ」
「あら、自転車? 遠くありませんか?」
「なあに、鍛えてますからね。それにしても、まあ、よくお分かりになりましたね」
今流行の「自由恋愛」が進展していたことなど、と言外に込めた。
「燿はわかりやすい子だからね。お嫁に行かれたお嬢様なんて、結局どちらのかただったのか、分からずじまいでした」

荘一朗は手紙を受け取ると、張り切って自転車を飛ばした。
冬になってからというもの、燿が外に出てくることもなくなった。
こっそり訪ねていっても、見かけることすらできなくなっていた。

三園商会に着くと、番頭に事情を話して面会を求めた。
番頭は彼を帳場に案内し、奥方達を呼びに行った。
奥方達に連れられて、燿が帳場にやってきた。
荘一朗は改めて奥方達に挨拶し、用件を告げた。

手紙は妹の燦からだった。
やはり、何となく気になった大奥様はその場で読めと言った。
内容は、燦が胸を悪くしたので、工場を退職して家に戻るというものだった。

「大変だ。行ってあげなさい」
大奥様と若奥様が同時に言った。
燿の身の上を知っているわけではないが、カタカナだらけの手紙にただならぬものを感じたのだった。
「でも……」
「女中の仕事だけなら、冬は何とかなるんですよ。安心して行きなさい」
「僕の自転車に乗ると良い。乗り心地は悪いが、馬車を待つより早いだろう」
「ああ、それはいい。乗せてもらいなさい、燿」
燿は何も言わせてもらえず、外套を持たされて、荘一朗の自転車の荷台に乗せられてしまった。

荘一朗の腰に手を回し、背中にピッタリ頬を押しつけた。
荘一朗が飛ばすので、そうしなければならなかった。
必死でつかまっているうち、豊浜の荘一朗の家に着いた。
「怖かっただろう。相当飛ばしたからね。君はしばらく休んで、それから切符の手配に行こう」
燿は彼のいうことがもっともだと思ったので、勝手口から入らせてもらいそのまま台所に座っていた。
荘一朗はまず工場の方に走っていき、今度は母屋に戻ってくると、自分の外套と鞄を抱えてきた。
「待たせたね。停車場へ行こう」

豊浜停車場に向かう道すがら、燿はもう荘一朗が彼女に付き合う必要がないことに気が付いた。
「あの……切符なら自分で買えます」
彼の親切に感謝しながらも、やんわりと帰宅を促したのだった。
「お宅まで送るよ。東京からは夜行になるだろう、君が心配だ」
「夜行なんか平気です。本郷様、明日も学校ではないですか」
「手紙の内容から察するに、男手が必要になるかと思うんだ。君を楽にしてやりたい」
「私にはそんな値打ちはありません。私が生まれた家をお見せしたくないんです。……きっと、私を軽蔑なさいます」
「君を軽蔑するなんてことはあり得ないよ」
荘一朗は慌てて付け加えた。
「でも、君が家を見せたくないなら、尊重します。君が待っていろと言う場所で待っているから、必要なところで呼んでくれたらいい。とりあえず、最寄りの停車場までくらいは送るよ。それとも、僕は信用ならないだろうか?」
燿は悲しげに目を伏せた。

こう仰るのだから、いっそ正直に、私がどんな卑しい素性であるのかお見せしてしまおうかと考えた。
そうすれば、もう二度と私に関心を持つことなんかないだろう、
そして私のことなど忘れてしまうに違いない。
「ご案内します」
彼女はささやくように言った。


豊浜から東京までは、誰も若い二人連れに関心を持たなかった。
あるいはチラと不審げに見た人はあったかも知れない。

だが、汽車を乗り換えてからは、同じ「日本人」とは思えない車中となった。
乗り換えた汽車には「人なつこい」性格の人が大変に多かった。
「おっ、かけおちか?」
二人は何人もに同じ事を言われた。
「違います!」
焦って否定するのだが、相手はにやりと笑って
「がんばんな」
とか
「うまくやれよ」
などと言い置いていくのだった。

荘一朗は単純に照れくさいのだが、燿は複雑な気分である。
妹が大変なことになっているというのに、どうしてかけおちになど見えてしまうのだろうか?

交代で眠った。
汽車は午前中に麦束村の最寄りの停車場に着いた。
馬車に乗り換える。
「最寄りの医者は?」
「終点の小学校の近くにいらっしゃいます」
「往診してもらおう」
「無理です。うちはそこから山道を一時間も歩くんですもの」
「それなら、診てもらうようにお願いしておいて、君の家に行こう」
「はい」

医師の家で用件を話そうとした荘一朗だが、相手のいうことが一向に分からないので諦めた。
「頼むよ、可愛い通訳さん」
荘一朗の言うことは、西洋文学の影響だろうが、時として酷く気障に聞こえた。
燿は自分の妹のことを説明した。
しばらくたって、医師は漸く彼女が地元出身の娘であることに気が付いた。

医師に昼食をご馳走になった後、細い山道を歩いた。
子ども達が朝踏みつぶした霜柱のせいで、ぐしょぐしょにぬかるんだ道である。
こんな悪路は知らないはずの荘一朗が心配になり、耀は何度も彼の足元を見た。
彼は体力に任せて歩いていた。

集落に着き、燿は覚悟を決めた。
彼の表情を見る勇気などとても出なかった。
ここの風景そのものが、十分彼の度肝を抜いているらしい。

確かに、荘一朗は汽車を下りてから、まるで歴史の教科書の中を歩いているような奇妙な感覚にとらわれていた。
「あれが私の家です」
と燿が示した建物がその仕上げだった。

それは廃屋にしか見えなかったのだが、何に似ているかと問われれば、神代の時代の人が住む家と答えるより無かった。
感想の持ちようもないほど、彼女の実家は彼の知識や常識の枠から大きく外れていた。
そこで、自分たちがやるべき事を進めようと考え直した。

「行こうか」
荘一朗は燿の背中を軽く押した。

家の中で起きていたのは母と小学一年生のサクであった。
父と燦は伏せっていた。
二歳半になるはずの弟、市蔵の所在を尋ねると、先月死んだという。
何故知らせなかったのか、と言いかけて、燿ははっとした。
母は字を書けない。
父の痩せこけた様子は、かなり前から動けなくなったことを示しているのではないだろうか。
残された子どもの中で比較的年長の太助と春吉には過大な負担がかかったに違いない。

暗い家の中で漸く目が慣れてきた荘一朗は、燿の母に挨拶をして何か包みを渡した。
いつの間に手土産など用意していたのであろう?
「燿ちゃん、お父さんも医者に連れていくべきだ。人手が足りない。ご近所に手伝ってくれそうな若い男がいないか?」
そこで、燿は母に聞いてみた。
何かというと酒を振る舞っていたのだ、このくらいの親切は期待しても良い。
ところが、母は、どこの家でも子ども達は尋常小学校を出るかでないかのうちに麓の工場に働きに出てしまい、残った長男達は今は地主の畑に行っていると、涙を流して答えた。

「人手はないんです。今この集落にいるのはお年寄りと小さな子ども達と病人だけ」
「僕がお父さんをおぶって運ぼう。君、妹さんに肩を貸して歩けるかい?」
「燦は私が負ぶいます。本郷様の鞄と私の手荷物はサクに持たせます」
「そんな小さな子に?」
「毎日学校へ通う道ですもの。母に説明します」

耀は、最初燦を背負った時、あまりの軽さに驚いた。
成長盛りの筈が、全然大きくなっていないのだった。
それなのに、道程の三割ほどしか歩かないうちに、足取りが重くなった。
時々荘一朗が立ち止まって待っていた。
「ねえちゃん、おら……歩く……おろして」
燦が喘ぎながら言った。
「大人しくしてなさい。ねえちゃんなら大丈夫だから」

負われている燦は気が気でない。
ほぼ一年前でも、姉は驚くほど綺麗で、とてもこの村にいた人には思えなかった。
今はもっともっと垢抜けて美しくなっているだろう。
負われて手に当たる姉の乳房は、母よりもふっくらとして丸い。
足取りも何だかおぼつかない。
姉はもう町の女なのだ。

「ねえちゃん、肩貸して」
燦は懇願した。
このままでは姉が倒れると思った。
漸く燿は燦を背からおろし、妹の背中に腕を回して支えた。
この様子を見て、荘一朗が
「燿ちゃん、悪いが先に行くよ」
と声を掛けた。
サクは荘一朗の後を追った。

姉妹がもう一歩も歩けなくなって座り込んだところに、荘一朗が戻ってきた。
彼は有無も言わさず燦を背負った。
燿に声を掛ける。
「動けるか?」
「はい。自分一人なら」


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