「父の告白」


医師が栄養剤を注射した時、父親は目を覚ました。

山道を、ごく若い紳士が自分を背負って歩いていたのは覚えているのだが、それからは気を失っていた。
あの男は何者であるのか?
燿と共に来たのだから、燿に関わる誰かには違いない。
しかし、燿を妾にした男にしては若すぎるし、第一こんな貧しい村に足を踏み入れるわけがない。
かといって、娘の夫とも考えられない。
若者の服は地厚で上等なものであった。

彼は突然、自分には言い残しておくことがあるのだと、思い出した。
大抵は、農作業か、さもなくば酒を飲むので忙しかったので、そのことについては切れ切れに燿に話したことがあるという程度だったのだ。
燿と燦、そしてあの若い紳士に伝えねばならぬ。

注射を終えて立ち上がろうとする医師の袖を引っ張った。

彼の語るところに依れば―――

彼の父(燿や燦の祖父)の代までは殆ど自作地で生計を立てていた。
家には彼より年下の下男がいて、農作業に従事していた。
この下男は元は捨て子で、彼の父母が育てたのである。
彼の父は徳川時代の生まれであるが、まあまあ読み書きができたのだ。
この貧しい集落にあって、何故か本百姓として維持されてきた貴重な家だった。
明治の世になって、小学校や医院のあるこの集落の地主が少しずつ土地を買うようになったが、まだ彼の家は頑張っていたものだ。

ところが、明治三八年、大凶作に襲われた。
どこの家でも食い詰めたし、小さな子ども達はばたばたと死んだ。
燿も燦も奇跡的に生きながらえたのであるが、小さな子が二人も生き延びたのはこの家だけであった。
しかし、その年に生まれた子は助からなかった。

自作地と家屋を売り払って以来、彼の両親は絶望して亡くなった。
彼自身も全うに働く気を失った。
それでも、昔日の繁栄を知っているだけに、隣近所には虚勢を張るのだった。
酒を振る舞われる隣近所が次々に家屋を取り戻す中、彼の家族だけは倒れかけた家に住み続けなければならなかった。
地主が彼らの元の家を買い、使用しているのだった。
こうして彼の家は落ちぶれに落ちぶれて今に至るのである。

燿も燦も記憶はないだろうが、二人の娘だけはまともな農家の娘として生まれてきたのだ。
しかも、この二人だけは真の名付け親はお寺さんの息子だ。
教養のない親は単に音を与えたのであるが、お寺さんが立派な漢字を授けたのだった。
彼は遂に生涯娘達の名をきちんと書くことができなかったのだが、とにかく、少なくとも燿と燦に関しては、まともな農家の娘としての誇りを持って良いはずだ。

彼が再び気を失ったので、医師は患者の指を袖から外した。
娘達の稼ぎを殆ど飲み潰してしまった飲んだくれ親父はすっからかんであった。
しかし、彼を運んできた若者が十分な「治療費」と「心付け」を払ったのだ。
この医師が現金収入を得るのは滅多にないことなので、大変ありがたかった。
医師は奥方兼看護婦にもう一組布団を用意するように言いつけた。
奥方は押入から布団を引っ張り出して、病室へ運んでいった。
これでこの家にある布団は全て使ってしまうので、入院できる患者はここまでである。
鞄持ちをしてきた少女はへばっていたが、これを見て、押入に残った枕を抱えて看護婦に付いていった。
奥方は悦び、この少女に飴玉を与えた。
それから奥方は栄養士になった。


医院にたどり着いた時、荘一朗も燿もくたくたになっていた。
が、奥方兼看護婦の栄養士が患者のために重湯を作っているので、燿は台所へ手伝いに行った。
医師は燦の診療に取りかかった。

医師の好意で宿泊もさせてもらうことになった。
夕食を食べ終わるや否や、サクはその場に突っ伏して眠ってしまった。

医師は先ず二人の患者の病状について説明をした。

燦は肺ではなく、単なる気管支炎だということだった。
咳が酷いので、工場側でも慌てて解雇したのだろう。
十分な睡眠と栄養さえとれば、間もなく快復するだろうと、医師が請け負った。

父については既に手遅れであるとのことだった。
手の施しようがないので、せめて最期を自宅で過ごさせてやった方が良いであろうというのだった。

燿は頷き、医師の言ったことを書き付けた。
いくつか漢字をカタカナに改め、書き直した。
ついで医師は、彼らの家系について、患者から聞いたことを「忘れぬうちに」と全部話した。
それについては燿は何も書かなかった。
荘一朗がそちらについても書いておくように勧めると、燿は溜息を吐いた。

「私と燦が、生まれた時はまともな農家の娘だったとして、今さら何の意味があるでしょうか?
でも、燦には何か役に立つことがあるかもしれないから、あの子が元気になったら話してみます」

さて、寝ようという段になって、医師も奥方も子ども達もみな着物を脱いでしまった。
訳が分からず呆気にとられている荘一朗に燿が説明した。

「この村には寝間着なんかないんです。
だって、ハダカでかたまって寝る方が温かいし、寝間着や一人一人に布団を作るほどの布や綿なんかありません。
私は三嶋家に奉公して初めて、寝間着の習慣を知りました」
彼女はそう言いながら、着物を脱ぎ始めた。
「冷え込みますよ。さあ、本郷様も脱いでください」

「待て、燿ちゃん。頼むから、そこでやめてくれ」
燿が肌襦袢と裾除けだけの姿になった時、荘一朗は懇願した。
「僕はこの村の人にはなれない。ハダカの君と抱き合って、人間の理性を保っていられるとはとても思えないんだ」
「あなたがやめろと仰るなら、肌着は着たままにします。でも、本当に何も着ない方が温かいんですよ」
「残酷な風習だな」
「よく分かりません」
「嫁入り前の娘が分からなくてもいいんだよ」

もし、両親や友人達が知ったら卒倒するだろう。
いかに豊中漕艇部始まって以来の「軟派」主将を自他共に認める荘一朗といえど、未婚の男女がハダカで抱き合うように勧められるとは思ってもみなかった。
二人はサクを間に寝かせ、ささやかな堤防とした。
両側からサクの小さな身体を抱くのだが、どうしてもお互いに触れ合ってしまう。
遂に荘一朗は起きあがって、自分の服を身につけた。
外套を持ち
「僕は君の父上と妹さんに付き添うよ。君は来るな」
病室へと行ってしまった。

翌朝、サクに書き付けを持たせて、学校へ送りだした。
書き付けは太助に渡すように言い含めた。
ついで、地主の畑に行ってみると、見知った男達が来ていた。

「おはよう、源ちゃん、文太君」
燿は近所の「長男」に声を掛けた。
彼らはいきなり「見知らぬ美人」に名前を呼ばれ、お互いに顔を見合わせた。
「燿よ。もう忘れたの?」
「本当に……?」
二人は半信半疑で近付いた。
確かに、幼なじみであった。
「おめ、町へ行って、出世したとおっ父が言ってた」
そこで、燿は困ったことがあって、前日だけ実家に戻ってきたのだが、今日は帰りたいのだと言った。
「おめの家ぁ、困ったことだらけだぁ」
幼なじみの冗談にならない冗談を聞き流して、燿は重ねて頼んだ。
仕事が終わったら、医院に寄って、燿の父を交代で背負って帰る、
二人は鼻の下を伸ばして請け負った。

馬車の時間まで未だあるから、燿は病室へ顔を出した。
荘一朗もここに来て燦と何事かを話していた。

父は気持ちよさそうに眠っていた。
重湯すら満足に食べられなくなっていたが、畳の感触が嬉しいらしかった。
彼にとっては一一年ぶりだ。
家に帰れば、筵の上。
また性懲りもなく父は「酒が欲しい」と言い、考え無しの母が酒を与え、吐血するのだろう。
いや、きっと畳の夢を見ながら、眠り続けるのだ。

燦の頬に微かに赤味が戻ってきていた。
「本郷様って、ねえちゃんのいい人?はぐらかされちゃってわかんね。でも、なんかそんな気がするの。
おぶってもらたども、お義兄さんならいいよね?」
「バカなこと考えないで」
燿は仕方なさそうに言った。
「あのかたは三嶋家のお嬢様のお友達で、私やあんたが近付けるお人じゃないの。物珍しくてついてきてくださっただけ。
思いがけなく、ご親切におすがりすることになったけど、お父っつあんとあんたの治療費はねえちゃんが働いてお返しするんだから」
「そうかなあ。ねえちゃんにはちとご立派すぎるだども、バカなことだとは思えねんだぁ。ねえちゃんは麦束村一の才女だもん」
「ば、ばかっ!」
燿は真っ赤になった。
なんて恥ずかしいことをいうのだろう、この妹は。
荘一朗は村の方言を話せこそしないものの、だいぶ耳が慣れて会話の半分は意味を取れるようになっているのだ。

荘一朗はむしろ燿の言い訳を悲しく聞いていた。
荘一朗は秀子の友達であって燿には関係しないとか、
好奇心だけで燿の家族に会ったとか、
治療費は返すとか。
彼は立ち上がって病室を出ていった。
「ねえちゃんもバカだ。あの人怒っちまったよ」


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