「吉祥天の正月」


西条淳之助は年末から元旦までを生家で過ごした。
帰ってきて驚いたことに、メイドの顔ぶれが変わっていた。
家の中の雰囲気も随分変化している。
どちらの変化も淳之介にとって大変に好ましいものだが、予想もしていなかったので、面食らった。

義姉の秀子は(予想されたことではあるが)いっぺんに五つも六つも年齢をとってしまったように見えた。
一方の兄も、大変意外なことに落ち着いてきているのだ。
一〇歳以上年上の兄に「大人になった」というのも奇妙なことだが、実際そうとしか言いようがない。

「淳之助、来年はどうするんだね? 豊浜中を卒業する気でいるのか?」
皮肉も棘もなく、兄が普通に質問することなど、何年ぶりだろう?
「できればそうしたいんです。兄上、漕艇は男の浪漫ですよ! この夏は内浦湾を一周しましてね。掌の皮はむけるし、腕も腰もずんと重くなるし、意識も朦朧としてくる。その分、やり遂げた時の感激はひとしおです。僕の手を見てください。ほら、兄上の右手に匹敵するでしょう」
そう言って、両手を兄の前に突き出した。
「ほう。男の手になった。たいしたものだ」
はじめて兄に褒められた。
これなら三人で豊浜に行っても気まずいことはあるまい、淳之助は安心した。
「さて、俺は上官への挨拶に回ってくる」
兄は機嫌良く出掛けていった。
淳之助も秀子と共に玄関まで出て、機嫌良く見送った。

二人で取り残されたので、話題は豊浜の友人達のことに移っていった。
「本郷さんと燿ちゃんに会われたんですよね?」
「まあ。ご存じだったの?」
「主席の主将が学期試験をさぼったので、大騒ぎになりましたから。『この、軟弱者!』って教官の声が校庭中に響き渡りましたよ。ただ、まあ、本郷さんのことだから、硬派連中まで『軟派も極めれば、それはそれで立派だ』などと言ってましたけどね」
「あら、本郷さん、そこまでしてたの? 私ったら燿ちゃんに悪いことを吹き込んだわ。絶望的な気分だったのよ」
「なにかあったんですか?」
「いつもの通り。あの人はお妾さんのところにお泊まりだし、お義父様とお義母様とでお芝居を見に出掛けてしまうし。私がひとりぼっちで取り残されることが本当に多くなりました」
「は? 父と母が、何?」
「お芝居見物」
「誰と?」
「お二人で」
「なんで……?」
「お芝居見物くらいなさるでしょう? お二人ともお好きなんですもの」
「……信じられない」

秀子が兄嫁になる前、淳之助は秀子がひとりぼっちになるのではないかと心配した。
だが、事態は全く違う。
気まぐれで残虐な夫、好色な舅、無関心で冷淡な姑の中、メイド達すら馴染もうとせず、せいぜい松と豊子くらいが公平に接するのではないかと思っていた。

「帰ってきた時、本当にここが西条家か?と思いました。そうか、犯人はお義姉さんだ」
「犯人? 何の?」
「昔の西条家が崩壊したってことです。澄ましてよそよそしかった両親が、社交でもないのに、揃って出掛けた」
「良いことだと思いますわ。それに最近そんな機会も増えたのよ」
「父と兄のお手つきが綺麗さっぱりいなくなった。メイドがメイドらしい仕事をきちんとする状態ってのは初めてです」
「メイドの人選はお義母様です。私は何もしていません」
「兄貴が大人になった」
「………?」
「だから、こんなに居心地の良い生家になったんですね」

西条家にとっては、嫁として吉祥天を迎えた、といったところか。
だが、生身の女である秀子が吉祥天でなければならなかったこの八ヶ月は、どんなに辛いものだったろう?


翌日は淳之助と兄夫婦とで豊浜に向かった。
淳之介は岡宮家へ、兄夫婦は妻の実家である。

三嶋家では嫁いだ娘を今や遅しと待っていた。
女中頭と何人かの女中は新年の休みを返上していた。

秀子は涙に暮れて嫁いでいった。
聡明ではあるが、まだ当時はどこか子供っぽさが残る美少女だった。
時々「元気にやっている、夫や舅姑にも可愛がられて幸せである」という内容の手紙がきた。
もともと弱音を吐く娘ではないので、顔を見るまでは心配である。

娘と婿の来訪が告げられた。
娘は夫の後ろに立っていた。
立ち居振る舞いのしとやかさにそぐわぬほど男勝りな娘だったのだが、すっかり落ち着いた「奥様」になっていた。
父親として、彼女の男勝りな気性を何度叱責したか分からない。
が、それが失われてしまうと、何ともやりきれない気分になる。

女中達は「お嬢様のご主人」を見るのは初めてだ。
最初は二人の姿に見とれた。
ご主人は美男子で、秀子様と並んだところは雛人形のようだ。
すぐに秀子の落ち着きぶりが気になった。
実はおてんばなところもあったのだが、まだ一八歳だというのに、若々しさまでなくなったかのようだ。

「子どもができたのですか?」
誰もが思ったことを、奥方が代表する形で聞いた。
「いいえ」
秀子は即座に否定し、
「早く秀子にも妊って欲しいのですが、こればかりは待つより他はない」
と功喜が言い添えた。

夫の、秀子に「も」という言い方は、非難されるべきである。

昨年の一一月初め頃だったか、大杉栄という人物が仲間の妻を愛人にしたため、妾に刺された。
その間、本妻は当然ながら知らぬ顔を通していた。
男の情を競うような下劣な振る舞いは妾の世界のことであり、本妻の威厳を傷つけるような思い上がった行動にでない限りは放っておけばよろしい。
平松永子らは間違いなくそうしている。
本妻とは権威であるし、家でもあるのだから、妾やら娼妓やらとは無関係な存在なのだ。

然るに「も」とは何事であるか。
功の妾が妊娠したらしいことは、秀子も薄々気が付いていた。
彼の念頭に庶子のことがあっただろうとは想像に難くない。
妻と妾、嫡子と庶子を、同列に言うとは、愚かにもほどがある。

常識から言って秀子はそのことをこそ怒るべきなのだが、妾と「同じ女」として言われたことに大した怒りを感じなかった。
むしろ、結婚前から男女の関係を結んでいた女を「妾」とし、そのような深い愛情がありようもなかった女を無理矢理妻にした、夫の振る舞いは不誠実きわまりないと思う。
また、一度も会ったことはないが、相手の男が長い関係の自分を差し置いて正式な妻を迎えたのに、いつまでもずるずると「妾」としてしがみついているその女にも、言いしれぬ不快感を感じるのだった。

世間話をそこそこに切り上げて、秀子は「女学校時代の友達に会ってきます」と言って出掛けた。
まず、坂の下の幼なじみだ。
女学校に通っていた頃の友達には違いない。
ところが、荘一朗は留守だった。
かわりに桃子が歓迎してくれた。

「おかえりなさいませ、おねえさま。兄は今燿ちゃんと一緒です。暮れからいろいろありましてね。でも、何とかなるかもねえ」
「それは嬉しいわ。結婚する、ってことですね?」
「ええ、たぶん。はっきりとはまだ言えませんけど」
「良かった……。あの子も漸く幸せになれるのね」
「でも、兄もダメですね。まったく、男ってどうしようもないわ。そうお思いになりません、おねえさま?」
桃子は秀子に「事の顛末」を報告し始めた。


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