「事の顛末」前編


大正五年の暮れ。
燿はその月の給金をもらって実家に帰る前に、本郷の家に立ち寄った。

彼の家族は彼女の置かれている状況を知っていた。
「もしかしたら、お別れのご挨拶のなるかもしれません。そんなことにならなければいいんですけど。でも、こちらで受けたご恩は決して忘れません。本当にありがとうございました」
彼女のいうことがあまりにも唐突であったので、家族一同で何があったのかと問いただした。
「昨日、父が危篤だという手紙を受け取りました」

燿は燦に三園商会の住所を教えておいたのだという。
「今から行って間に合うかどうかは分かりませんが、これから帰ります。その後のことが……。
父のいない家族を守る者が必要なんです。
私か、燦か、どちらかがいないと、太助も春吉もサクも、学校に行かせてもらえないで、農作業をすることになると思うんです。
母は一度も学校に行ったことがありません。それでも何とか生きてこられたので、読み書きができなくても平気なんです。
だから……とにかく帰って妹と相談します」

本郷のご主人と奥方、それに桃子がその場を立った。
荘一朗と二人きりになると、燿は懐から何かを取り出した。
「図々しいお願いだとは分かっているんです。でも、他に頼るかたがないんですもの。恥ずかしいけれど、お縋りします。
……これ、私の預金通帳なんです。太助の進学資金です。
これを持って帰ったら、絶対に使われてしまいます。どうか、二年間預かっていただけませんか?」

「燿ちゃん……」
「お願いします。この通りです」
荘一朗は手を付こうとする燿を止めた。
「僕の妻になってください」
「……え?…」
耀の驚いた顔にひるんではいられない、荘一朗は畳みかけた。
「君がいなくなってしまうなんて我慢できない。何度も僕は意思表示をした。君が好きだ」
燿は俯いて、か細く「はい」と答えた。
「結婚しよう。そうすれば、君の弟妹は僕の弟妹でもある。二人で働けば、三人の子を学校にやることも可能じゃないか」
燿は肩を震わせて泣いた。それから
「いけません……いけません……」
と繰り返した。

「あなたも東京へいらっしゃるのでしょう? 株式会社にするんだって、とっても難しいことを沢山仰ってたじゃありませんか。大切なあなたの将来を私なんかのために棒に振るなんて、あんまりです」
確かに荘一朗は燿に将来の計画を語って聞かせていた。
東京高等商業学校に進学し、学び、この工場を株式会社に再編し……。

「学校に行きながらだって、君に仕送りくらいできるよ」
「私、そんなのいやです。同情を買いたくてお話しした訳じゃありません」
「君がいなくなるのが、我慢できない。僕の東京行きとは全然違うじゃないか。
君の方は、戻ったら最後、あの徳川時代が続く村から一歩も外にでてこられなくなるんだ。
………君はそれでいいのか? 今日は真意を聞くよ」
「ああ!」
燿はその場に伏してしまった。

自分でも、このどうにもならない状況を誤魔化そうとしているのはわかっている。
彼に会える機会を作っておきたくて太助の進学資金にかこつけたのである。
三園商会にもまだ何も話していない。
最後の最後まで、何かの奇跡が起こってここに戻ってこられるのを信じたいのだ。

だが、現実には村に帰ったら、もうここへは戻れないだろう。
自分と燦の二人共が懸命に働かなければ、小作地は荒れ放題になるのではないか。
二人で働いて、太助を進学させるとして、姉妹がその役割を終えるのはずっと先のことである。
その頃には二人共間違いなく「適齢期」は過ぎていて、余所で生きていくことはできないだろう。
さもなければ、将来の可能性など全く潰して、太助も春吉も旧態依然とした小作を続けて、自作地を取り戻すことなど諦めるしかない。

決して戻ってこられないのだ。
三園商会には退職の旨を伝え、荘一朗にも何も告げずに帰るべきだ。

そんなことができるほど、燿の心は強くなかった。
「燿ちゃん、迷惑だったのか?」
「どうしても言わなくてはならないのでしょうか?」
「もし、嫌だというのなら、このまま出ていっても十分返事にはなる。……僕の望まない返事ならね」
「できることなら、このままでいたいんです。あなたをお見かけできる場所で生きていたい。私、それ以上のことは望みません。怖いんです」
「それなら、僕の妻になると言ってくれ」
「言えません。そんな……そんなこと……。私、あなたに相応しくないんですもの」
「燿ちゃん、前にも言ったと思うけど……」
「素性が卑しくて、だから、心まで卑しくなってしまったんです。
私、ただ、あなたをお見かけできればいい。あなたに相応しい女の人をお嫁にもらっても、私は妬いたりなんかしません。そんな資格なんかないって知ってるんです。だから……」
「いいから、聞けよ!」

荘一朗が大きな声を出したので、燿は身を縮めて黙った。
席を外したはずの三人が顔を出した。
「荘一朗、そんなに怒鳴らなくても」
両親がとりなそうとしたので、荘一朗は微苦笑した。
「聞いておられたのでしょう?」
「まあな」
桃子は「女は女の味方」とばかりに兄を責めた。
「お兄ちゃんたら、それじゃ口説いてるんだか、苛めてるんだか分からないよ」
それから、呆然としている耀の方に向き直って、微笑みかけた。
「……ね、燿ちゃん、そんなに怖がらないで。うちが豊かになったのって、この五年くらいのことなんだから」

「うちは旧家じゃない。父祖の財産はないから、実直に働いてきたんだ。
豊かになっても、父も母も昔と同じさ。
自分たちが贅沢をする代わりに、工員の賃金に一銭でも二銭でも上乗せしたんだ。それで、自然に優秀な工員が集まるようになった。
うちの旋盤を工業学校に納めて、卒業生がくるようになったんだよ。
僕は工場を大きくして、株式会社として再編するつもりだが、僕の実力以外に頼るものなんかないんだ。
だが、側にいて欲しい人ができた。燿ちゃん、一緒にやってくれないか? 秀子さんのような奥様にはしてやれないけど、君以外の人を妻にするなんて考えられないんだよ。
うちでは妾も娼妓に溺れるのも御法度さ。何せ家訓が『夫婦仲が良いのが一番』って言うんだ」
「酒・煙草は程々にっていうのと、芝居見物は夫婦一緒にってのもあるんだよ。
ね、お兄ちゃん、燿ちゃんがお嫁に来てくれたら、一人で新劇見に行けなくなるんだね〜」
「桃子、いい加減にしなさい」
母親が桃子を引きずっていき、父親も一緒に引っ込んでしまった。
「何しに来たんだ?」

何をしに来たのかはわからないが、呆気にとられて燿の涙が止まっていた。
荘一朗は燿を抱き寄せ、頭を撫でた。
「返事、聞かせてくれるか?」
燿は首を微かに横に振った。
「怖くて決心が付きません。……でも、私、きっとお返事します」
「そうか。待つよ」
しばらくこのままでいたのだが、いつまでも抱き合っているわけにはいかない。
「そろそろいかなければならないんだろう? 一緒に行くよ。君はあの村に縛られず、ここに戻る。それでいいんだね?」
「はい」
耀は、小さな声ではあったが、今度ははっきりと頷いた。


HOME小説トップ「恋しきに」1次へ

inserted by FC2 system