「運命の」


家に戻った秀子は、父に自分専用の小間使いを雇って欲しいと懇願した。
「是非とも雇いたい女の子がいるのだ」とも打ち明けていた。
「気まぐれであろう」と父は無視していたが、毎日しつこく繰り返すので、四日目には遂に許可を与えた。

「ありがとうございます。お父様もきっとお気に召しますわ。
私、あの子をあそこに置いておきたくないんです。早速迎えに行きます」
秀子がいやに熱心だ。
だが、「また洋装で歩かれてもかなわない」と思った父は執事を差し向けると約束した。
年季の途中で奉公先を変えさせるのだから、説明や手続きが必要なはずだ。
本家のお嬢様の望みであっても、筋は通さねばならない。

話はすんなりと纏まった。
耀は有能な子守の少女だが、仲間の少女達からは煙たがられていた。
本家のお嬢様の機嫌を損ねてまで留め置きたい子でもなかった。

本家にお仕えするように申し渡された燿は、夢見心地で荷物をまとめた。
彼女の荷物など、風呂敷に包み自分で持てる程度の物であった。
彼女の給金は本家からこの地主宅に支払われた。
大奥様や若奥様、仲間達への挨拶もそこそこに、燿は迎えの馬車に乗せられた。
突然訪れた、思っても見なかった幸運である。
天女様のお近くでお仕えできるのだ。

長い汽車旅の末、ようやく三嶋家のある豊浜町へ辿り着いた。
駅からは迎えの馬車に乗った。彼女の身の上に相応しからぬ旅であった。
二等車に乗った場違いな少女は、遠慮のない好奇の視線を浴びた。
この三嶋家の馬車でも、前の御者席の方が自分には似合いだと思う。

勝手口から入り、他の使用人達を紹介された。
使用人は大人ばかりであるのに驚いた。
都市では、中学校や高等小学校に通わぬ者は、たいてい家の仕事をするか、徒弟か、あるいは工場で働いているのだという。
使用人達が詰めるのは、台所の横の小部屋で、縁のない畳が敷かれている。
その小部屋を見せてもらっている時に
「お嬢様がお帰りだ」
という声がした。燿は女中達に連れられてお迎えにでた。

「まあ、燿ちゃん。もう着いていたのね。嬉しいわ」
秀子は少女を認めて微笑んだ。
「お嬢様のお側でお仕えできるようになるなんて、思っても見なかった幸せです。ありがとうございます」
田舎の百姓娘風情がきちんとした口をきくので、一同は大いに驚いた。
そして、秀子がこの子を小間使いとして連れてこさせたことにも納得がいった。

「ところで、お嬢様はいつもどちらにおいでになるのでしょう?」
女中頭は時々ばあやに聞くのだが、「さてね」とはぐらかされていた。
ばあやはいつものように答えた後、
「明日からはお嬢様付きの小間使いがお供をするんだよ。もう私にはキツい仕事でね」
と燿に向かって言った。
「さあ、お嬢様について行きなさい」
「はい」

秀子の部屋は書物でいっぱいだ。
だが、目を引くのはサイドボードの上の二体の西洋人形であろう。
豊かな髪、大きな目、長い睫、そして人形の衣装の美しさは格別だ。
日本の生地ではないのでよく分からないのだが、おそらく地主の大奥様や若奥様ですらお持ちでなかったような上等の物であると思われた。
「私、特に西洋かぶれというわけではありませんのよ。でも、このお人形だけは別」
それから、サイドボードの横には見たことのない機械が置かれている。
「これがミシンです。そのうち教えてあげましょうね」

家庭用のミシンが普及し始めていた。
東京では、断髪の職業婦人達が洋服で歩き、洋服の女学生がいるという。
秀子は元禄袖の着物に葡萄茶の女袴姿で高女に入学したのだが、この夏から筒袖に変わった。
高女や実科高女ではミシンの扱いも勉強する。
この三嶋家でもミシンを扱えるのは秀子一人である。

「ああ、そうだわ。こちらにおいでなさい」
命じられるままに、ガラスの入った窓辺に寄った。
ガラス窓という物を見たのは、この三嶋家が初めてだが、良いものである。
家の中が大変に明るい。
秀子はそのガラス窓も開けた。
高台にあるこの屋敷から町の様子が見渡せるのであった。
「私が通う女学校はあの川の向こうの、あの建物よ。分かる?」
「はい」
「こちら側にあるのが中学。それから、ずっとむこうですけど、工業学校があるの」
何故か秀子の頬が桜色に染まった。
「あの川では漕艇部の学生さん達が夏休みでも練習してらっしゃるの。案外面白いのよ。明日は一緒に見に行きましょうね」


翌日から燿は大人達に混じって女中の仕事を始めた。
秀子の御用がある時はそちらが優先なのだが、そうでなければ他の使用人と同じに働くのであった。
以前の奉公先と違って農作業がない。また、水汲みもポンプの扱いを覚えれば以前より遙かに楽であった。
そういうわけで、燿にとってこの家での奉公は大変に楽しいものであった。

午後には秀子に付いて外出した。
秀子は堤防の上をどんどん川上に向かっていった。
「残念ね」
橋の欄干のところで秀子は息を吐いた。
「きょうはもう練習を終えてしまったのね。せっかく燿ちゃんに見せてあげようと思ったのに」
燿は自分自身の楽しみというより、お嬢様が自分に見せたいと仰ってくださったことが嬉しい。

秀子は心から残念そうに川面を見つめていた。
「三嶋さん、何かお探しですか?」
燿の後ろから制帽をかぶった三人の男子学生が現れた。
燿はさっと秀子の後ろに控えた。振り返った秀子の頬がみるみる赤くなった。
「きょうは目当ての応援がなかったので、気合いが入りませんでしたよ」
一番年長らしい学生が言った。
どうやらこの三人は漕艇部の生徒らしい。
「実科高女(隣接郡にある四年制の女学校)の応援団はいらしたのでしょう?」
「それは……そうですが……」
彼は大いに照れている。
「岡宮さんも八重山さんもそちらはまったく見てないんですよ。ひたすらこの橋を見上げている」
年少らしい生徒が話を引き取った。
年若い、とは言っても燿より一つ二つ年上だと思う。
「本郷君、いきなり何を……」
二人は口ごもっている。
「あの……」
最初に秀子に声を掛けた年長の生徒が顔を真っ赤にして提案した。
「練習も終わったことだし、三人で氷でも食べて帰ろうかと相談していたんです。三嶋さんもよろしかったら……」
秀子もまた頬を紅潮させた。
「そんな……だめですわ」
三嶋家の一人娘が中学生に同行するわけには行かない。
「岡宮さん、そんな無理を言ってはいけませんよ」
本郷が穏やかに言った。
最年長らしい人が岡宮、その横を歩いていた最年少らしい人が本郷、後ろの寡黙な人が八重山だと分かった。
制帽の校章から、岡宮と本郷は同じ学校の生徒で、八重山だけが違うらしい。
話題がとぎれたものの、この三人も秀子もまだ帰りたくないという雰囲気である。
と、今まで黙っていた八重山が
「そのお供の子は見かけない子ですね」と言った。
「ええ。昨日から私の小間使いになりましたの。燿ちゃんです」
秀子に紹介されて、燿は慌ててピョコンとお辞儀をした。
「野ウサギみたいだ」
と本郷がつぶやいたので、燿は真っ赤になった。
「本郷さん、からかわないであげてね。まだ田舎から出てきたばかりなの」
「どちらから?」
本郷が重ねて聞いてきた。
燿は生まれ育った麦束村の名前を言ったのだが、三人とも分からない様子だった。
そこで、秀子が別荘地をいい、その奥にあると説明した。
「小さいのに大変だね。親元を離れて寂しいだろう?」
本郷が同情的に言った。
「村の娘達は皆奉公にでます。私は他の人より遠くまで来ましたが、お嬢様にお仕えできるので、寂しくも苦しくもありません」
燿がきちんと答えたので、三人はこの少女を無視して話していたことに恥じ入った。
「随分大人びたことを言うんだね。よし、僕らも自己紹介をしようじゃないか。僕は岡宮雅之。豐中の五年生で、漕艇部の主将を務めている」
「僕は本郷荘一朗。豐中の三年生です。君と同い年の妹がいるので、君のしっかりしているのには驚きました」
「本郷君はよく成金呼ばわりされててね」
岡宮がちゃちゃをいれた。
「実直な事業の結果としていくばくかの資産ができたのだ。彼らに成金よばわりをされるいわれはない」
本郷が憮然として言い返した。
「八重山松吾です。豊浜工業学校本科の二年生です。強引に豊中の漕艇部に割り込んでいるんです」
「大変素晴らしい漕ぎ手なんだ。彼が競技会に出られないのは残念なことだよ」
岡宮が言い添えた。


九月になると秀子は学校に通うので、燿は日中殆ど通常の女中と変わらなくなった。
彼女一人が子どもということもあり、使用人達は皆親切であった。

その日の朝は曇りといった程度であったが、昼近くから雨が降り出し、ついには土砂降りとなった。
燿は秀子の傘と合羽を持ち、迎えに行くことになった。

空の黒い雲の流れが速い。
「嵐になる」
燿は不安と戦いながら歩を進めていた。
豊中の前を通った時、呼び止められた。本郷である。
「こんなひどい天候なのに、お使いなのかい?」
「お嬢様をお迎えに参ります」
「そうか。一緒に行ってあげよう。君、迷子になりそうだ」
「?」
「ここを通っているということは、少し遠回りをしているんだよ」
歩くに連れ、道のぬかるみが酷くなっていく。
高女まであといくらもないところだったが、道が川のようになっていた。
「こいつは酷い」
本郷はちょっとの間ためらったが、燿を抱き上げた。
「何をなさいます?」
「荷物と僕の傘をしっかり持っていてくれ」
本郷は膝まで水に浸かりながら、にわかにできた川を渡った。
もう傘は役に立たず、手に持つ他はなくなった。
高女の門の前で、八重山と彼の合羽を着た秀子に会った。
近在の軒を借りて、八重山に合羽を返し、四人で帰ることになった。
戻ってみると、にわかにできた川は今し方よりも更に水かさを増していた。
本郷は当然のように燿を抱き上げた。
「もうご婦人方には無理ですよ。三嶋さんもこうしていらっしゃい」
そう言って泥水の中に入っていった。たちまち腿の中程まで泥水に呑まれた。
秀子も八重山も戸惑って進もうとしないので
「早くしないと、帰れなくなりますよ!」
見かねた本郷が怒鳴った。
八重山は覚悟を決め、秀子を抱き上げた。
「しっかりつかまっていてください」
早口で彼女に告げ、泥の中に入っていった。

三嶋家の玄関に着いた頃は全身ずぶ濡れであった。
秀子と二人の学生はとりあえず身体を拭き、着替えを出してもらった。
燿は勝手口に回り、手早く着替えた。
「燿、恩人さん達に熱いお茶をお出ししなさい」
彼女が今朝掃除した応接間に二人がいた。
旦那様の着物を借りてソファに座っている。
お茶をお出しして
「ありがとうございました。本郷様と八重山様のお陰で、お嬢様も私も無事に帰り着けました」
膝をついてお礼を言った。
何故か頬が赤くなる。
実のところ、本郷の腕が触れていた背中や肩が熱く火照っているような気がする。
秀子も着替えて出てきた。
彼女に感謝されて二人とも照れている。
また秀子も濡れたひっつめ髪をほどいてしまったので、いつものお堅い印象が無く艶っぽくさえ見えるのだった。

風雨は激しさを増していた。
主人が戻り次第車で送ると申し出たのだが、二人とも夜が更ける前に辞去した。
本郷の住所を聞いて、燿ははじめて自分のために彼が正反対の方向の高女まで行ってくれたのだと分かった。


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