「再会」


西条功喜には何人か一度も会ったことのない異母弟妹がいる。
彼らは一度もこの家に足を踏み入れたことがない。
彼も異母弟妹達について何事かを考えたことはない。
おそらく本妻たる母も同様であろう。
関心を示したことはなかった。

秀子が妾に対して露骨に不快感を示すのは、彼女に子どもができないゆえだろうと思われた。
母が安心しきっていられたのは、最初に男児を産んだのが彼女だったという事情によるのではないか……。
早く妊娠させてしまえばよいのだが、思い通りにいかない。
結婚して一年以上経ったが、秀子が妊娠する気配はなかった。

最初の何ヶ月かは、専らと言っていいほどに秀子を抱いた。
怯えた秀子が面白かったのか、早く馴れさせてやりたかったのか、今となっては分からない。

彼女が庭球を始めてからというもの、そちらの方が余程面白くなった。
ボールを追って走る時の表情がいい。
打ち損ねた時のふくれっ面は何とも可愛らしいのだ。
ところが、夜になると一変、無表情な女になる。
怯えた様子はなくなったが、今はいかにも不快だという表情のまま抱かれている。
手も足も萎えてしまったかのように動かない。


端午の節句を過ぎた頃、妾宅で女児が生まれた。
女の子なら本妻さんも気にすまい、近くに住まわせて欲しい、と妾は頼み込んだ。

西条功喜の妾は名を粟本ヤス子という。
一官吏の娘で、功喜がまだ士官候補生だった頃知り合った。
立派な家柄の男なのに、しばしば「君とは相性がいい」と言った。
ヤス子は身体が弱く、女学校を二年でやめてしまった。
恥ずかしく思いながら白状すると「謙虚な君が好きだ」と答えてくれた。
軍人だというのが信じられないくらいヤス子には優しい男なのだ。
それから二人はずるずると肉体関係を持った。

功喜の手配で小さな家に住むようになった。
ヤス子が二五歳くらいの頃までは、親は嘆き、早く帰ってこいと催促していた。
そのうち親は何も言わなくなった。
ヤス子とて最初から一つ年下の西条功喜の妾になろうと思っていたわけではない。
華族の功喜といつまでも関係を持つのはバカバカしいと考えていたはずだった。
それが、明日こそ別れよう、明日こそ、と、ずるずる関係を持つうちにすっかり年月を経てしまったのである。

ヤス子は功喜の本妻を見たことがある。
地方の名士の娘を本妻に迎えると聞き、ヤス子の心はざわめいた。
その女を殺してやりたいとさえ考えた。
女を殺し、自分も死刑になれば全て終わるのだから。
とにかくどんな女か見てやろうと思い、毎日西条邸の近くに行き、物陰から覗いた。
最初にその女、少女と言うべきか、を見た時の衝撃は一年経った今でもヤス子の手足を震わせる。
あのように美しい娘を見たことはない。
翻って、自分自身は何も特徴がない凡庸な容姿なのだった。
もうあともどりのできない年齢になるまで、自分は何という無駄な時間を過ごしたのだろうと愕然とし、美女に対する殺意は消えていた。

ところが、結婚した後も彼はヤス子の元に通ってくるのだった。
最初は滅多に来なかったが、やがて以前と変わらぬようになってしまった。

「本妻さんに悪いわよ」
「まだ子どもでね。抱こうとすると怯えるんだ」
「変な女だ」
「お嬢様育ちなんだから仕方ない」
「本妻さんの味方をしては嫌です」
「おいおい、どっちなんだ?」
「イヤッ、嫌い!」

―――――あの美貌があるのに、ヤス子の切望するものを全て持っているのに、夫の心をつなぎ止められないあの本妻さんがいけないんだ。


女の子が生まれて一ヶ月経った時、功喜はその娘を自分と秀子の養女分にしたいと申し出た。
更に、ヤス子を乳母として雇いたい。

「功喜、それはあんまり酷と言うものだ。まだ一年しか経っていないし、秀子もこんなに若いのだから」
さすがに父が反対した。

彼とて妾や囲っている女はいる。
だが、妾にも、その子ども達にも、この家に一度も入らせなかったのがけじめだと思っている。
「勿論、嫡子を諦めたわけではありません。だが、僕にとっては最初の子だ。大切に育てたいと思ってるんです。育ての母が秀子なら申し分ないでしょう」
「私はその子を育てたくありません」
秀子は一言だけ答えた。

功喜は翌夕帰ってきて、また同じ事が繰り返された。
「そのかたと一緒にいられれば、私はどうでもいいんですね?」
秀子が舅姑の前で泣いたのは初めてだった。

怒りにまかせて、自室に引き込んでしまうと
「若奥様」
廊下で誰かが彼女を呼んだ。メイドの豊子であった。

「お供致します。松様はお立場上できませんので、私が行きます。
おひとりよりは、メイドなりともお供していれば、ご実家でも少しは安心してくださいますもの」

秀子は特に実家に帰ろうとしていたわけではないのだが、松も豊子も気が早いのだろうか。
「松様が運転手に自動車を出すように命じましたから」
「ありがとう」
「なに。私どもみんな若奥様の味方です」

深夜の豊浜停車場に迎えの人力車が来ていた。
父も母も起きていて、秀子を迎えた。
「西条の奥方から電話があってな」
父が種明かしをした。
「秀子に落ち度は何一つない。必ず息子に言い聞かせ、迎えにやるから、と言っておられた。
……秀子、何故、何も言ってくれなかったんだ?」


実家に戻った若奥様に付いてきた豊子は、三嶋家の女中頭と情報交換につとめた。

「メイドの仕事の内容を心得違いした者が何人かいたのですが、若奥様がいらしてから次々と首になりましてね。
何故かは分かりませんけど、若奥様が大奥様を動かしなすったんでしょう。
そういうわけでメイド一同若奥様の味方です」
「一安心です。私達の秀子様のことですから、きっと大丈夫だろうと信じて参りましたが、やはり婚家の方から伺うと安心感もひとしおです」
「特に今度のことはあんまり酷い話なのですよ。たとえメイドとしてとはいえ、妾を家に入れようなんて、とんでもございません」

この二人はすっかり仲良くなり、翌日にはこんな話にもなった。

「ご主人は明日辺りは迎えに来てくださるのかしら?」
「本当にこんな事になるなんて。こんな事なら、ご長男は廃嫡にして、淳之助様が跡を継がれるべきよ。
あの方は変わってますけど、心優しいんだから。それにお年も淳様の方が近いんだし」
「豊中のあのモダンな貴公子ですね。年下じゃありませんか。
まあ、でも、秀子様のあの落ち着きぶりと来たら、一八にはみえませんものね。年下くらいでちょうどいいかも知れない」

女中達の無邪気な言い分をよそに、秀子は夫の迎えを待っていた。
このまま縁が切れてしまえば、「出戻り」と嗤われるのは彼女であり、恥をかくのは父である。
夫と妾の関係が長く深いことは聞いているが、いくら何でもあの申し出は取り下げるだろうと思う。
二日も三日も、何を迷うことがあるのだろうか?
毎日西条家と電話で連絡を取り合っているためか、父が短気を起こさないのが救いだった。

舅姑が説得してくれるはずだ。
秀子は妾とその子を家に入れたくないだけなのだから。
夫が妾を愛そうとも、妾の家に入り浸ろうと、妾に来られるよりはずっとマシだ。


一週間近く経った日、父の態度がいつもと違った。
明日夫が来るのだ、と秀子は推察した。

どう迎えよう?
冷静に?
それとも、感情的に?

少なくとも、一見感情的であった方が良い。
「子ども」はいけないが、「未熟」は案外好まれる。

では、拗ねるのか?
甘えるのか?
……どちらにしても秀子がやると子どもっぽくなるだろう。


早朝、彼女は橋のたもとまで歩いていった。
気を落ち着けたかった。

川面を見つめているうちに、人の気配がした。
振り返ると軍服の男、夫が立っていた。

「ここだろうと聞いたんだ」
夫は照れくさそうだ。秀子は夫の胸に頬を押しつけた。
「秀子?」
「私を迎えに来てくださったのね」
「戻るか?」
「はい」
「なんだ、いやに素直だな」
夫はいかにも「拍子抜けした」といった様子である。
「……心細かったんです」
秀子は頭の中に、荘一朗の前で恥じらっている燿の姿を思い浮かべた。
「俺を待っていたとでも言うのか?」
彼女は何も言わずに頷いた。

夫と共に帰ってきた秀子の様子を見て、三嶋家の当主は怒りを呑み込んだ。
落ち度がないと分かっている娘を叱り、彼女をその夫に引き渡した。

帰京する道すがら
「そんなに嫌がるほどのことなのか? おまえがここまで嫉妬深いとは思わなかった」
夫が残念そうに言うのだが、彼女は無視していた。


品川駅で降り、自動車に乗った。
運転手が急に迎えに来られなくなり、功喜自らが運転するというのだが、彼が運転に凝っていることを秀子は知っていた。
秀子は大人しく後部座席に座った。

だが、どうしたことか、一向に動かない。
夫が苛々し始めると、秀子は神仏に祈るばかりである。
夫がこれ以上不機嫌になる前にお助けください、と。

夫が舌打ちして一旦車から降りた時、彼女の祈りは届いた。
功喜が降りたところへ、通り過ぎかけた工員風の若い男が近付いてきた。
その若者を、まさか、まさかと思いながら見ていた秀子であったが、彼が近付き
「お困りのようですね」
と声をかけたところで、悲鳴を上げそうになった。

なぜ、八重山がこんなところにいるのか?


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