「予感」

夫は、親切な工員がかつて会ったことがある人物だと、気付いてないようだ。
もし八重山が自分に気付いたらどうしよう?
秀子はハラハラしていた。

それから、八重山はボンネットを開けて、何かを始めた。
確かに彼は工業学校の卒業生だし、最終学年の時に「機械電気科」という学科ができ、特に頼んでその学科の勉強をしたと聞いている。
しばらくして八重山はボンネットを閉めた。
功喜は彼に礼を言い、彼はそのまま行ってしまった。

何てこと!
一目なりともこちらを見ればいいのに。
秀子は腹立たしく思ったのだが、本当にそうなっても困ると思い直した。
豊子に気が付かれなかっただろうか?

夫は運転席に戻り
「自動車事業を始めたばかりの会社の見習技師だそうだ。こういうこともあるんだな」
すっかり機嫌を直していた。
「本当に良かったわ」
生気のない声で秀子が答えた。


舅姑に挨拶をして引き上げた時に、秀子は疲れ切っていた。
妾を家に入れずに済んだのは、一重に姑のおかげである。
舅姑もまた、思いの外迎えにやるのが遅くなって、と嫁に詫びた。
一日でもずれていたら品川駅で八重山に会うこともなかったはず。
秀子にはこの偶然を喜んでいいのか、悲しむべきなのか、分からない。

襖が一寸開いた時、彼女に動く元気はなかった。
「もうあなただってお疲れでしょうに」とは思ったが、殴られたくないので
「もう動けません」
と答えた。
襖を開けて夫が入ってきた。

あの人に会ってしまった。
気付いてももらえなかった。
きょうばかりはあなたに抱かれたくありません。
―――言えるはずのない言葉が頭の中を駆けめぐった。

夫は身をかがめると、彼女を抱き上げた。

不意に台風の日の思い出が甦った。
思えばあの時、荘一朗は躊躇せずに燿を抱き上げた。
あの頃から荘一朗は燿が好きだったのか、それとも秀子の気持ちを知っていてそうしたのか、今でも分からない。
八重山に抱きかかえられた秀子は、重いんじゃないかしらと、そればかりが気懸かりだった。
このような身の上になるなら、彼にもっと思いの丈をぶつけておけば良かった。

彼女が大人しく抱かれているので、夫は了解と判断したようだ。
彼女の頭の中からは少女の恋の思い出が消えない。

いけない、早く忘れなければ。
これから義務を果たさねばならぬのに。
それでなくとも苦痛を伴う義務なのに、幸せだった頃など思い出したら惨めになる。
―――焦るほどに鮮明に思い出し、果てには「あの人ならこんなに私を苦しめないのではないか」とけしからぬ考えが頭をかすめた。

その時、彼女の身体の真ん中当たりが熱を帯びてきた。
不思議と苦痛は消えていた。
夫が「入ってきている」というより、自分が「引き込んでいる」という奇妙な感覚があった。

「何てことを!」
彼女は自らを恥じた。
「引き込んでいる」その相手は、夫の姿を借りた「幻想」であったから。

彼女は咄嗟に顔を覆い「見ないでください」と言おうとしたのだが、
激しい息遣いと混合されて、泣いているような意味不明の音しか発することができなかった。

功喜は妻の両手を取り、顔から外させた。
切なげな声が漏れた。
何故妻が突然「大人」になったのかは分からない。
本人が驚くほどの嫉妬深い性質ゆえ、ヤス子の出産がキッカケになったのかも知れない。
あるいは実際に身体が大人になったのかも知れない。
長い年月の中で慣れ親しんだヤス子とは違うが、大人になった秀子もまた愛しい妻であった。


夫が出掛けた後、松から留守中の電話のことを聞いた。
平松永子からで、秀子が帰り次第連絡を乞うというものであった。
四人で庭球を楽しむ時は、誰にも見られず気兼ねなくできるので、西条邸の庭に作られたコートを利用していた。
雨天続きだった後に秀子の実家帰りがあったからしばらく打ち込んでいない。
そこで、平松家へ電話してみたが、プラージュに集まろうと言うだけだった。

「実はね、新橋様がおめでた。秘密のお祝いをしようということなの。
それにあなたの祝勝会もしなくちゃね」

新橋孝子は本当に嬉しそうだったし、平松永子や佐野節子も羨ましそうに祝福した。
「でもどうやら妾の子と同じ時期になりそうなの」
「まあ。負けられませんわね」
「当然!」
秀子はそんなやりとりをぼんやり聞いていた。

「西条様、大変だったんですってね」
新橋孝子が話を変えた。

「でも、私、この人偉いと思うわ。姑を味方に付けるなんて並大抵のことじゃないもの。
私などいつもつまらぬことで言い争ってます。
野菜の洗い方やむき方、……ああ、ばかばかしい、もううんざり!
あまりつまらぬことなので、ハイハイということ聞いてますけどね、何せもうこちらも癖になってますから、いつのまにか実家流になりますよね。
姑はそれが気に入らなくて、もううるさい、うるさい
……あの姑が私の味方になるなどありえぬことですね」

永子や節子も同調して話し始めた。
秀子には黙って聞いている他はない。
秀子がやる家庭的なことといったら、お茶を煎れるくらいである。
舅姑と絵の趣味は違うのだが、対立する気などない。
また、姑の趣味はかなりモダンなので、見立ててもらった着物に特に文句はない。
姑と争う場面を持たぬ自分は幸せな嫁なのかとも思う。

プラージュから帰る途中、バッタリと荘一朗に会った。
「やあ。やっと会えた」
荘一朗がニコッとした。
「ああ、高等商業の学生さんでしたものね。本郷さんたらこんなにお近くにいらしたなら、寄ってくださればいいのに」
「あらぬ誤解を招いても困る。僕の方は構わないが」
「そうね。幼なじみだと言っても誰も知らないんですもの」
「大人になるにつれ窮屈になりますね。でも、世界も広がりました」

大人になって世界が広がる……秀子にはあり得ない話だ。
秀子の生きる世界は狭くなる一方なのだから。

「折角東京にいるのだから、工場を見て回っています。外観ばかりですがね」
「本郷さんはいつでも未来を見てらっしゃるのね。どちらへ行かれるの?」
「このところ大井町とか入新井村とか」
「随分遠くまで……。でも、私も先日品川駅から自動車で帰ってきましたの」
「なんでわざわざ」
「さあ? 主人が最近運転に凝ってるんです。タクシーがなかなかつかまらないからって」
「運転手さんは?」
「ご自分で運転したい理由があるんです。でも、本郷さんにはおわかりにならないわね。あなたといい、あなたのお父様といい」
「いいな。品川線のどこかの駅まででいいから、乗せて欲しいな」
「頼んでみましょうか?」
「いいんですか?」


その夜、秀子は夫に頼んでみたのだが、意外なほど親切に工場まで送ろうと提案した。
遠くても構わないという。

日曜日に荘一朗がやってきた時、功喜がどこの工場へ行くのかと聞いた。
「不入斗」
「ああ、わかりますよ。先日そこの見習技師に助けられましてね」
「それは偶然ですね。僕の友人も見習技師なんです」
「保護自動貨車の会社として知っていただけですが、意外な縁です」
功喜は工場の前で二人をおろし、北へ向かった。

妻の幼なじみに親切な行いをした後、妾に会いに行く夫。
夫に送ってもらって、危険な予感の真偽を確かめに来た妻。
何という退廃的なことだろう。

「三……西条さん、友人のところで昼飯をご馳走になろうと思っているのですが」
荘一朗は何と言って打ち明けて良いものか困っているのだろう、と思った。
「やっぱり、おいたをするつもりなのね、そうちゃん?」
一〇年ぶりの呼び方で白状を促した。
「秀ちゃんが行くって言ったんだぜ? でも、なぜわかった?」
「主人が言ってたでしょ、見習技師に助けられたって」
「なんだ、もう会ってたのか」
「ううん。まだよ」
荘一朗は先に立って工場の脇を歩いていった。


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