「三園家の人々」

お盆を過ぎた頃、燿には新しい仕事が言いつけられた。
繭を計る方ではなく、繭賃を渡す役に変わるように、また、新しく入った一四歳の少年に秤の使い方を教えろということだった。

燿は人にものを教えたことなどない。
そもそも彼女から人に話しかけたことすら殆ど無い。
相手が彼女の正直で控えめな人柄に惹かれて交友が深まるのであり、どちらかというと年長者に可愛がられる性質と言えた。

燿は仕事の覚えも早く、よく働き、華奢な体つきからは想像できないほど丈夫な娘だ。
奉公人としては申し分ないだろう。
だが、嫁に行けば、すぐに人を使う立場に立たされるはずだ。
この夏、さすがの本郷家の奥方も音を上げ、桃子と二人で賄いきれる仕事量ではないことを認め、ついに寄宿舎の賄い女中を一人雇ったのである。
あの「目から鼻に抜ける」荘一朗が跡を継いだら、そんなものではすまないだろう。
真面目に一人で黙々と仕事をこなす性分は直らないにしても、訓練で「マシ」になるものもあるはずだ。

幸いなことに、燿の「弟子第一号」となる武彦は、素直で物怖じしない少年である。
燿の教え方が少々下手でも、教わる方がうまく教わるのではないか。

近いうちに本郷荘一朗の嫁になる娘なら、それに相応しいように三園商会で仕込んでやろう――
旦那方も奥方達も番頭も一致していたのである。

本郷の旦那を「さすがに三園商会で仕込まれた嫁だ」と唸らせねばならぬ。
なぜなら、耀が実家から嫁にいく家ではないからだ。
先方から燿の親代わりを頼まれるであろう。
勿論、快く引き受けるつもりだ。
それどころか、場合によっては彼女を養女分として三園家から嫁にだすことも考えていた。
三園商会から嫁ぐのであれば、耀が本郷の家に引け目を感じる必要はない。


初日は武彦の積極性に助けられた。
先ず、燿が手本をやって見せたのだが、武彦の方から
「黙ってみせられても、オレ、よく分からないんです。なんか、その、コツがあったら教えてください」
と要望を出してきた。
何人かは、燿一人で計量し、算盤をはじき、繭賃を渡した。
それから、武彦が分かったと言い、秤の前に行った。
「まずいところがあったら言ってください」
と言うのだが、武彦の物覚えはあまり良くなかった。

一日の仕事が終わったところで、案の定番頭に叱られた。
「あくまでも、おまえが師匠で武彦が弟子なんだ。おどおどするな」

燿には大変厳しい注文である。
布団の中で溜息を吐いていたら、ヨネが慰めてくれた。
「いいところにお嫁に行くってのも大変なんだね。でも、主将さんのために頑張るんだよ」
「……うん」

荘一朗にはまだ答えていない。
荘一朗の妻、本郷家の嫁として相応しい女になって、彼の申し出を受けたいと心の内では決めていた。
その決心は彼女の胸一つにしまってあり、まだ誰にも打ち明けていない。
それなのに、なぜ、三園商会の人たちは、主人の家族も奉公人も、季節雇いに至るまで、彼女の決心を知っているのだろう?


物覚えの悪い武彦だが、だんだんましになってきた。
燿は何度でも、全く同じ調子で、同じ注意を繰り返していた。
師匠が苛々していない様子なので、弟子も安心している。
緊張感がないので、上達も遅い。

たまに様子を見に来る番頭の方がイライラしたが、燿に任せることにしてある。
確かに効率は悪いが、あれが燿の精一杯だろうし、性に合うやり方なのだろう。
また、あれならば覚えは遅くても、忘れないのではないか。
確実に武彦が仕事をこなせるようになれば、それでいい。
「ついでにヨネにも炊事を教えてくれればいいんだが。いや、西洋料理を教えられても困る……」
番頭は独り言を言いながら、季節雇いに指示を出しに行った。


夏期休業中であっても、荘一朗はけっこう忙しい。
父に頼まれた英文献はすべて翻訳した。
父について営業活動もした。
漕艇部には一、二度顔を出しただろうか。
西条淳之介には恨まれたが、事情を話して、納得してもらった。
荘一朗とて隅田川を見に行くたびに血が騒ぐのだが、仕方のないこととして耐えているくらいだ。

燿に会いに行く時はおおっぴらである。

「私が気が付かないうちにお帰りになるなんて嫌です」
燿がそう言うのだから。
乾燥場での輪番は荘一朗にも知らされていた。
(荘一朗が帰郷した時は既に彼の部屋に書き付けが貼ってあった。)
そこで、彼女が当番に当たっていない日だけに限ったのだが、荘一朗の日程とはなかなかかみ合わず、滅多に会いに行けなかった。


最後に会った日、彼女は算盤をはじいて繭賃を渡していた。
少年が彼女の補助をしており、彼女よりも権限を持っているらしい奉公人は近くにいなかった。
すっかり任されている。
ここに奉公に来るまでは商売のことは一切知らなかったはずだから、どんなに苦労したことだろう。
胸が熱くなった。

繭を全て乾燥場に運んでしまうと、「行ってきなさい」と番頭や新吉に言われた。
妙に話ができている様子に、荘一朗も耀も戸惑った。
「何か言ってあるのか?」
「いいえ、私は何も言ってないんですけど……。どうして、みんな、本郷様がいらっしゃるとにやにやするのかしら?」

連れだって出て、ほど近いチンチン電車の駅周辺で屋台を冷やかして歩く。
あるいは水車のあたりで話し込むこともあり、縒掛屋の奉公人から不審そうな目で見られた。

夕刻、三園商会に戻る頃には、帳場から見えるギリギリのところまで手を重ねていくのだった。
「しばらく会えないけど、また手紙を書くから」
「はい……」
燿が頷いた。
本当に可愛いな、荘一朗は彼女の手を握ってみた。
「あの……本郷様……」
「うん? 何?」
「もっとお会いしたかったです……」
思ってもみなかった積極的な言葉に、荘一朗の方がどぎまぎした。
「あ……うん、俺もだ。冬には毎日会おうな」
「はい」

このところ燿は大奥様と若奥様に異口同音に言われている。
「まったく。もうちょっとどうにかならないもんかねえ。ヨネのようにとは言わないまでもさ。
美人ってのは顔の造作だけじゃないんだよ。愛想のないのは三日で飽きる美人だよ。
あんたのその態度じゃ、いっくらあの本郷さんとこの息子だって、しまいにゃお向かいさんに行っちまうよ」

不思議なことに、彼の妻になるのだと決めた時から、身体の奥底からいくらでも力が沸いてくるのだ。
しかし、同時にひどくやきもちやきになってしまった。
彼が誰か他の女の人を、たとえ秀子様でも、じっとみつめたりすると心が切られるように痛い。
まして、自分以外の女を抱くなどとは、考えただけでも気が狂いそうだ。
深い仲ではない娼妓相手であっても同じ事である。

一二歳まで、仕切るものとてない家で暮らしていた。
野焼の時、若いおにいさんとおねえさんが示し合わせてどこかに行ってしまう場面を、何度となく見た。
だから、処女ではあっても燿はある程度のことは知っていた。
そのおにいさんの家へお嫁に行ったおねえさんも、そうでないおねえさんもいたけれど、彼女の場合は全く違う仕方で「そのこと」に向かおうというのだった。

まだ抱かれる前から、私はあの人だけのもの。誰にも触らせないの。



秋口になって、本郷家から正式に三園家へ依頼があった。
三園家では、兼ねてから承知していたことであるので、花嫁の親代わりを即座に引き受けた。
親よりも先に本人同士で決めてしまったので、仲人がいない。
強いて言うなら西条秀子が仲人なのだが、彼女には無理があるだろう。
そこで、秀子の実父母に依頼することにした。

本郷家と三園家の縁組みの仲人を務めることに異存はないのだが、燿の実家と関わることは避けたい。
おそらく誰も同じ事を言うだろう。
三園家では彼女を形式上の養女にすることも予定していたので、話は早かった。
ただ、三園家の家業の都合で、養女の縁組みから婚礼までを冬の間に全てやらなければならない。
彼女の実の家族は婚礼に出席はするが、花嫁の関係者となる。


実は結婚はこれからである、と白状しなければならない。
燦に手紙を書きながら、燿は細かいことに気が付いた。
彼女の家族は、まだ一度も汽車に乗ったことがない。
汽車賃もない。
婚礼に出席できそうな晴れ着もない。
晴れ着どころか、見られる着物など一枚も持っていない。
燿よりもずっときつい仕事をしている燦に過大な負担を掛けたくなかった。

荘一朗に相談すると、彼が全て手配をするという。

彼が答えあぐねていると、どこかで伝え聞いたらしい、西条淳之助が妙案を考え出した。
どうせ風変わりな結婚なのだ、風変わりを貫き通してしまえ、困った事態は友情で解決しよう、と提案した。
淳之助が漕艇部の仲間に声を掛けてみるとその方面へ行く予定のあるものが見つかった。
日程を予め知らせて案内してきてもらえばいい。
少々早めについても、冬季の仕事が少ないのは麦束村でも同じだ。
部員の妹で、和裁の練習としてサクの着物を縫ってもいいという人もいた。
太助と春吉の衣装だが、淳之助にも一度も袖を通すことがないまま小さくなってしまった洋服がある。
着物や袴についても譲れそうなものがある。
燦の着物は、燿が秀子から譲られた着物を流用すればいいだろう。
母親の着物は三嶋家に頼んでみることにした。
秀子の母なら何でも持っていそうだ。
最後に、荘一朗が人数分の切符を手配して、後輩に託せば問題は全て解決だ。

「華族に一本取られた」
「確かに、僕にはこの方面の才能もあるようだ。本物の企業人から認められるとは嬉しいね」

淳之助は荘一朗が一目置いてくれたことが嬉しかった。
家柄が何であろうと、遠慮したり横柄な態度を取ったりしない自由人の荘一朗を、密かに尊敬していたからだ。



八重山はこれらの報告を受けて、秀子に手紙を送っていた。
特に三嶋家に依頼することには、秀子からの口添えも頼んだ。


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