「豊浜へ帰る」(1)


秋が深まっても秀子からの返事はない。
燿の幸せを誰よりも喜んでくれるのが秀子だと思う。
手紙は届いているのだろうか?
あるいは何か秀子に連絡ができない事情があるのか?

八重山は思いきって秀子を訪ねることにした。
とはいえ、自分一人では秀子の名誉に関わるかも知れない。
そこで、荘一朗に、燿との打ち合わせなどのために使いたかったであろう一日をさいてもらうことにした。
どうせなら、ということで、淳之助が太助と春吉に譲る洋服を取りに帰る日に合わせた。

淳之助と友人達の突然の来訪はあまり歓迎されなかった。
「若奥様は具合が悪くて……」
豊子が困ったように言った。
「すみません、旦那様にお取り次ぎします」
そう言って立っていく豊子を、淳之助が追いかけた。

階段を上り、客人が見えなくなると
「淳之助様、私どももどうしたらいいのか……」
豊子の方から語り始めた。
「住み込みのメイド達が何度か旦那様の大声を聞いているんです」
「昔からじゃないか」
「ええ、まあ、確かに。
でも、若奥様がいらしてからなかったんですよ。旦那様も穏やかになられたと松様と話してましたのに。
それがこの夏頃から、もう三回目。ええ、昔に比べれば、ずっと少ないんですけど。ただ
……決まって若奥様が具合が悪くなってしまうんです」
「元に戻った?」
「そんなことはございません。お仕事でも、家の中でも、本当に穏やかになられているのですが……」
「夫婦喧嘩かな。義姉さんも気が強いところがあるし」
「たぶん、そんなところでしょうが、何となく気にかかります」
「まあ、いい。僕が行ってみよう」

淳之助は廊下に座り、声をかけた。
「おはようございます、兄上」
「淳之助か」
兄はすぐに顔を出した。
それから、弟の手首を掴むと、グイッと引っ張った。
「来てくれ、淳」
「い……いやですっ! いくら実の兄弟でも、ここには入れません!」
「いいから、来てくれ」
「勘弁してください!」

若夫婦の寝室を独身者が見てはいけないことくらい、中学生の淳之助も知っていた。
義姉は具合が悪いと言っていたから、もしかしたらまだ寝間着姿なのではないか?
義姉は上級生達の憧れの的だった、見てはいけない……
と、思いつつ、なぜか抵抗する力が入らない。
淳之助は中に引きずり込まれてしまった。

突然淳之助が入ってきたので、秀子は驚いて起きあがった。
やはり寝間着のままである。
「ごめんなさい」
淳之助は真っ赤になり、何とか逃れ出ようとした。
それなのに、兄が放してくれない。
「私、やっぱり着替えてきます」
そう言って襖の向こうへ行こうとした秀子の袖を功喜が引いた。
秀子の肩が露わになった。
肩や腕の黒い痣を、淳之介ははっきりと見てしまった。

「どういうこと……」
「俺が殴ったんだ」
淳之介はうまく舌が回らない。
兄は無表情に答えた。
「もう終わったことなのよ」
秀子はそう言って着替えに行ってしまった。

淳之助の頬を涙が伝った。
「殴ったって……どういうことなんですか」
兄は横を向いたまま黙っていた。
「なぜ……。せめて、あの人を大切にすることが、岡宮の兄さんや八重山さんに対する礼儀ってものじゃないか」
「あいつを豊浜に連れて帰ってくれ」
兄の声は低く機械的だった。
「言われなくても、そうするよ。父上には説明するからな。
……父上の耳が遠くなったのをいいことになんて酷いことを……。兄上はそれでも帝國軍人なのですか。
力も、立場も弱い、抵抗できない女を殴るなんて」
「医者にも診せてやって欲しい」
「今さら何だ、自分で殴ったくせに」

昔のように兄が逆上して殴るかも知れない、しかし言わずにはおかれなかった。
兄は弟の方を見ようともせず、腕組みをしたままだった。

「豊子さん、義姉さんの着替えを手伝ってやってよ。
それが終わったら、八重山さんと本郷さんを呼んで。
義姉さんを連れて待ってて欲しいって伝えてくれないか」
豊子は何度も頷き、秀子の部屋へ入っていった。

八重山と荘一朗がやってきた時、弟は唇を噛みしめ涙を流していた。
兄の方は安堵したような奇妙な表情をしていた。

二人で両脇から秀子を抱きかかえようとしたが、
「歩けます。ただ階段が困難なだけ。大したことはありません」
と辞退された。

「あなた、私に側にいて欲しくないの?」
秀子の声はあくまでも柔らかかった。
功喜は妻を見なかった。
「帰れ」
「わかりました。落ち着いたら迎えに来てくださいね」
それには誰も答えなかった。
淳之助は無表情な声で、秀子が当座必要としそうなものをまとめて欲しいと豊子に頼んだ。

階下では、松が客と秀子に紅茶を出していた。
「夏にお会いした時には思いも寄らぬ事でした……」
荘一朗がつぶやいた。
おそらく秀子にも思いも寄らぬ事、夫の側の一方的な事情だろうと思った。
「本当に。先週も平松様や佐野様がいらして、ラケットを振り回しておられましたね。
怒りが溜まった時の特効薬だと仰って。
旦那様がいらっしゃる時はよくご夫婦で打ち合っておられたんです。
その様子を見るたびに、平松様が『あの仲睦まじさは異常だ』とからかってらしたのに……」

「そんなこともあったわね。でも……。
ねえ、本郷さん、八重山さん。
………。
お二人の友情には心から感謝しているんですけど、こんなに大袈裟にされるとかえって困るわ。
私には本当に生意気なところがあって、でもそれが自分でも分かっていないものだから、主人を怒らせてしまうんです。
いつもは我慢してくださってるのだろうけど、一昨日は……きっと私が許せない何かを言ってしまったんだわ……
滅多にあることでもないし、豊浜の両親や友人にも心配を掛けたくないのよ……
主人が思い直してくれれば、私としては帰りたくないわ。淳之助さんにもよく説明しなくちゃね」

「そうやって誤魔化してらしたんですか」
荷造りを終えたらしい淳之助が降りてきた。
「紳士になったような演技には騙されました。その分、義姉さんには本性を晒していたって事なんだ……。
父上に話しました。うすうす何か勘付いておられたようですよ。
とにかく、その傷や痣がすっかり治るまで実家に帰っていなさいとのことです。
兄上が何と言おうと、義姉さんは帰らなければならない」
「お義父様のご命令なら従いますけど。
でも本当に誤解なさっているのよ。今回たまたま行き過ぎがあったというだけ。
それに……私の悲鳴なんかは誰も聞いてないはずよ」
「分からないな。義姉さんともあろう人が、どうして自分を傷つけたものを庇うのですか?」
「こういうことって世間ではよくあることじゃありません? ご主人に殴られるまで口答えし続けたご婦人の話はよく聞きますわ。
そんなに大袈裟に言われると戸惑います」
「とにかく」
荘一朗はこの際限もなく続きそうな口論を終わらせた。
「行きましょう。日のあるうちに帰り着きたいものですね」


強制的に連れ戻された秀子は何も言う気にならなかった。
淳之助が、彼の兄に代わって、秀子の父に謝罪しているところを、ぼんやりと眺めていた。
相手がまだ中学四年の少年では、父も大人らしい態度を崩すわけにはいかないらしい。
黙って謝罪を受けていた。

八重山と荘一朗は、秀子を送ると、そのまま東京に引き返していった。
ここまできたのに燿に会えない荘一朗を気の毒に思った。

夫が自分に助けを求めていたように思えてならない。
その求めに正しく応じてやれたという感覚もない。
黙っていれば誰にも分からなかったのに、義父母もメイド達も少々派手な夫婦喧嘩という説明で納得しそうであったのだから。
それなのに夫はわざわざ弟に知らせた。
一〇歳以上歳の離れた弟にまで助けを求めなければならないほど、何に追いつめられていたのだろう?

一人になった時、秀子は八重山からの手紙を開封した。
几帳面な性格をそのまま写したような楷書が好ましく思えた。
内容も淡々と燿と荘一朗のことが書かれていた。
万一、夫に取り上げられ、検閲された時のための配慮なのか、彼自身のことも夏の日の訪問のことも一行も書かれていなかった。


翌朝、淳之助が再訪し、病院に付き添うと申し出た。
学校は「自主休講」にしたという。
岡宮の家から自転車で来たので、新嘗祭も間近だというのに、汗をかいている。

「本当に大袈裟な人ね。一人でいけるわよ」
「自分でやっておきながら医者に連れてけって念押しされたのが気になるんです。兄はどんな酷いことをしたんですか?」
「そんなことを聞くの?」
「それは、ですね」
淳之助は赤面した。
「それは?」
秀子が微かに眉を上げた。
「いいですか、義姉さん。ここにいる間、義姉さんはご実家にいるものの、保護者は僕なんです。そのことをお忘れ無く」
秀子はクスクス笑った。
「分かりました。それなら言いましょう。
私のお腹に赤ちゃんがいるかも知れないから、万一のことがないか診てもらえというのでしょう。
それでも付き添っていらっしゃいます?」
「い……行きます。……でも……外で待っていて良いですか?」
「学校にいらっしゃればいいのにね。お茶でも如何? それからでましょう」

こんなに優しい女性を殴る兄の気が知れない。
同時に、そんなどうしようもない夫を庇おうとする彼女の考えていることも、よく分からない淳之助であった。


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