「恋しきに26」

「豊浜へ帰る」(2)


初夏に秀子が出ていった時は、迎えに行くよう母に連日説得された。
男の沽券に関わるから、わざと何日かおいたのだった。
今回は、彼女の傷や痣がすっかり治るまで実家で静養させろ、治ったら淳之助から連絡があるはずだという。
医者の診たてがどうだったのかだけでも知りたいのだが、淳之助から何も言ってこない。


功喜はヤス子といると心が癒される。
考えてみれば夫への口答えの数では、秀子よりもヤス子の方がずっと多いのだが、ヤス子の言うことに怒りは感じない。
ヤス子といて悲しみを感じることはなく、疲れることもない。
ゆったりと流れる時をいつまでも楽しんでいられた。

「今日は泊まっていらっしゃるの?」
由子の夜泣きが無くなったと言って、ヤス子が外泊を促した。
「いや……」
「本妻さん、またご実家なのに?」
「うむ。身体がすっかり治るまでだ」
ヤス子はもう一度引き留めてみたが、やっぱり彼は帰ってしまった。

秀子がいたならば、外泊してもいい、本妻がいない時に妾宅にいるのは避けたかった。


何日か経つうちに、「できる限り早く秀子を迎えに行かなければならない」という気になってきた。
本妻がしばしば実家に帰る、
帰りすぎる、
けしからん。
淳之助からも連絡がない。
弟のくせに生意気なことも随分言っていた。

それよりも気になるのは「八重山」だ。
岡宮雅之以外の「男」が秀子にいたとは、夢にも思わなかった。
嫁に来た時は勿論無垢な乙女だった。
あまりの幼さに腹が立ったくらいだ。
それなら、どのような関係だったのか?
幼なじみの本郷とやらは学生だが、先日見たもう一人の男は工員風だった。
全く秀子には結びつかない、不似合いな若者だったが?

仕方なく、岡宮家に電話した。
淳之助が出ると
「秀子は何をしているんだ?」
と即座に聞いた。

「静養しています。快復したら、僕の方から連絡しますよ」
「それで、どうなんだ?」
「何事もありませんでした。ご心配なく」
「八重山とやらは今どこなんだ?」
「さあ?」
「一緒に来たじゃないか」
「本郷さんと示し合わせたんです」
「そいつは秀子とどういう関係だったんだ?」
「僕には分かりません。何せ、まだ子どもですから」
「そうか。今週末そっちへ行って、直接秀子に聞く。そう伝えておけ」
「まだ無理ですよ。義姉さんが怖がります」

淳之助は何とかその場を納めようとした。
兄も一応説得に応じたように思えた。


しばしば淳之助は間違えるのだが、説得に応じたからといって納得するわけではない。


淳之助は説得できたと言っていたのだが、やはり功喜は迎えに来た。
父は留守であり、秀子が応じるより無かった。

「具合は……」
「だいぶよくなりました」
「見せなさい」
「昼間から、ですか?」
夫が袖をたくし上げたが、やらせておいた。
お茶を持ってきた女中がうろたえている。
「そこに置いてください。あとはやりますから」
秀子は女中に下がっているように言いつけた。
功喜の方もそれ以上のことをする気はなかったらしい。
「その程度なら戻れるな」

婚家に戻るべきだろうとは思う。
そうなのだが、実家に帰ってきた直後よりむしろ疲れを感じている。

「親に戻るなと言われているのか?」
「いいえ」
「身体の傷を誰かに見せたのか?」
「いいえ。誰にも見られてませんわ」

彼はホッとした。
あの直後に妻の身体を親が見たら、さすがに激怒するだろう。

「まさか……八重山とやらいう男に会っているのか?」
「八重山さん?」
秀子は夫が何を言ったのか、一瞬分からなかった。
「いいえ。だってお互いに連絡先も知りませんもの。それほど親しかったわけではありません」
「親しくもない男が訪問したのか?」
「ええ。八重山さんはもともと本郷さんのお友達なんです。
本郷さん、この冬に結婚しますの。お相手は私の小間使いだった娘なので、私に報告しにいらしたんですわ」
「妾を囲うくらいのことで随分大袈裟だな」
「お妾さんじゃありません。
本郷さんは燿ちゃんだけがお好きなの。
ですから、他の女の人とは結婚することはありません。
家格の点でちょっと工夫が必要でしたけど、でも無事に婚礼の運びになってるんですよ。
あなただって、あの二人をご覧になれば、きっと微笑ましくお思いになってよ」

功喜は妻の奇妙な感心の仕方に呆れた。
「どうなさったの?」
「そういえば、おまえはまだ子どもであったな。
その本郷とやらの親も、子どものままごとに付き合って卑しい嫁を迎えるとは、相当変わり者だ。
とにかく帰ろう。支度をしてきなさい」
秀子はすっかり疲れ、帰りを急かす夫の態度に悲しくなった。
「ごめんなさい、あなた。もう少し休んでいたいの」
「働いてるわけではないだろう」
「でも、お義父様は完全に治るまでって仰ったでしょう?」

功喜はどうしても秀子を連れ帰らねばならないと思った。
娘時代に深い関係がなかったにせよ、目の届くところに置いておかなければ、八重山やらと間違いを犯しかねない。
不似合いな男だ。
だが、平民とはいえ裕福な家の幼なじみが小間使い上がりの娘を嫁に迎えるという、世間体の悪い話を祝福するような非常識な女のことだから、
似合い、不似合いも分からぬのではないか。

「自動車を父君が使っておられるなら、馬車を出すように言いなさい。折角迎えに来てやったのだ」
「馬車は出させますわ。迎えに来てくださったことに感謝もしています。でも……」


連絡を受けて、淳之助は岡宮の家から自転車を飛ばしてきた。
止まったところで汗が噴き出した。

お茶を出した女中が、自分が見たことを報告しつつ、応接間に案内した。
義姉があられもない姿にさせられていたらどうしよう?
淳之助は一瞬迷ったが、思い切って扉を開けた。
兄が義姉の手首を跡が付きそうなくらいきつく掴んでいた。

「兄上……僕から連絡すると……申し上げたはず……」

肩で息をしながら、淳之助が兄を非難した。
夫から解放された秀子は、淳之助の背後の女中に馬車を出すように言いつけ、そのまま応接間を出ていった。


「腕を見たが、秀子はもう何ともない」
「手足は……回復が早いだろうが……帯の下はまだ分からないでしょう?
……そもそも兄上が悪いのですから、兄上が義姉さんに無理強いするのは道理に反することです……」
「何だと」
「ご自分が殴った傷が癒える間くらい待ってやりなさいと言うことです。
……男にそのくらいの度量が無くて、どうするのですか。
まして、兄上は僕や義姉さんよりもずっと大人なんだから、大人らしい……懐の深さを見せて頂きたいものですね」
「おまえも理屈の多い男だな」

淳之助は口を開き、何かを言いかけたが、後ろを向いて水を所望した。

「とにかく兄上は東京へお帰りください。僕が連絡をするまで、行動を慎んでください」
「貴様、弟の分際で兄に命令するのか」

次の瞬間、淳之助は殴り倒されていた。
三嶋家の女中が慌てて二人を止めようとしたが、全く効果がない。
淳之助は鼻血を押さえながら反論した。

「僕を殴るのは構わない。僕ももう小さな子どもではないんだ。
でも、義姉さんは凄く華奢にできていて、立場も弱いじゃないか」
「貴様といい、秀子といい、目上の者に対してわきまえた口をきけ」
「目上が目下の人間をいたわれ。そっちが先だ」
それは兄弟の間で繰り返されたテーマなのだろう、しばらく口論が続いた。

女中頭が何度か間に入ろうとしたが、無駄だった。
一息ついたところで、もう一度女中頭が口を挟んだ。
「お嬢様が馬車に乗って行かれましたが、戻るまでお待ちになりますか?」
兄弟は我に返って「馬車に乗って?」と反復した。

「秀子殿はどこへ?」
「それは私どもにも分かりません。馬車が戻れば分かりましょう」
淳之助は立ち上がった。
「燿ちゃんのところかも知れない。あの子も養女になって、今はお嬢様だからね」
女中頭は時計を見ながら、
「もう三〇分ほどでつくでしょう。三園家に電話してみましょうか?」
と提案した。
「それなら僕は帰ります」
「そのままお帰りになってはお風邪を召します。外套をお貸ししましょう」
「ありがとう、助かります。では、兄上、失礼します」


淳之助はゆっくりと自転車をこぎ始めた。
汽笛を聞きながら思う。
秀子が行く先はもう一つ可能性がある、と。

燿は養女になったとはいえ、あくまでも三嶋家から紹介された娘ゆえの特例であって、
これが前例になっては困るというので、番頭以外の奉公人には知らされていない。
燿の性格からいって「お嬢様」面をするはずもなく、今も慎ましく女中として働いているはずだ。


淳之助の推察通り、秀子は上りの汽車の中にいた。
ほんの数日間、行方をくらませて、西条家に戻るつもりであった。


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