「恋しきに27」

「押し掛け女房」


この休日、八重山は溜まったものを片付けるのと気分転換とに充てた。
気分転換のために、とりあえず銭湯に行こうと思い立った。
ところが、玄関を出てすぐに、人とぶつかりそうになった。
まったく予期できぬ人物だった。

「西条さん」

なぜ秀子がそこにいるのか、いつからいるのかわからない。
八重山の顔を見た時、彼女の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
八重山は何も言えず、秀子の肩を抱き、自分の家に入れた。

「八重山さん、あの……ご迷惑は分かっているの……でも、
……数日でいいんです、私をかくまってください」
「迷惑だなんて事があるものか。とりあえずあがってください。
こんなに冷えて……、すぐに玄関を開けてくれれば良かったのに」

何があったのか分からないが、彼女の夫が知らない場所といえばここしかないだろう。

秀子がやや落ち着きを取り戻したところで、銭湯に誘ってみた。
「お湯屋さん? 行ってみるのは初めてです」
彼女はそう言ってはしゃいでみせた。
やはり可愛いと思う。
近所にはどう説明しよう?

女の風呂は長いからとゆったり出てきたところ、秀子を待たせていた。
初顔のためジロジロ見られてしまい、長い髪で身体を隠すようにしていたという。

銭湯からの帰り道、やはり近所のおばさん達に見つかり、誰かと聞かれた。

妹?
半年違いの妹はあり得ない。
それに、こんなに綺麗な妹が俺にいるはずがない。
同様の理由で、従妹もダメだ。
単なる同郷の友人が男の家に泊まるわけがない。

困った。

「誰だと思いますか?」
開き直って聞いてみた。
「うーん? 似てないねえ」
「真面目一方の八重山さんに、こんな綺麗な人が惚れるとも思えないしねえ」
「上等な着物だもん、それはあり得ない」
「誘拐してきたんじゃないかい?」
「それにしちゃ、落ち着いてるしねえ」
おばさん達も首を捻った。

「押し掛け女房です」
秀子はにっこり微笑んだ。
「は?」
八重山は口をあんぐりと開けた。
「実は私は没落した旧家の娘なのです。この着物は辛うじて残った物なんですよ。でも、私は売られるところでした」
「え? お嬢さんを売る?」
「ええ、もう五〇近い方のお妾さんとして……。
その方は何人もお妾さんがいるのですけど、若い妾が欲しいと言っているらしいのです」
「まあ。何ていやらしい、狒狒爺」
「そうなんですよ。私、その方に見られるだけでぞっとします。本当に目つきからしていやらしいの」
「そうでしょうねえ」
「だから逃げ出してきました」
「八重山さんを頼って?」
「はい。……女学校に行っていた頃から憧れていたんです」
「八重山さんにー?」
「ええ」

秀子は頬を赤らめた。
それにしても、次から次へとよくも嘘が出るものだ。

「男らしくて、優しくて、大きな夢をお持ちの素敵な方なんですもの」
「誰が?」
「いつだったかしら、新しい時代に貢献したいって仰ってたわ」
「そんなこと……あったかなあ?」
「覚えてらっしゃらないの? 酷いわ。女の私に自分の夢を語ってくださった殿方は初めてでしたのよ。
大抵の殿方は、少し親しくなると、誘い文句とか見え透いたお世辞とか……そんなことばかり」
「でもねえ、野暮ったいよ、この人は」
「粋でなくてもいいの。野暮ったくても、私は真面目な人が好き。それなのに、私を棄ててこちらにおいでになったのよ」

「安心なさいよ、お嬢さん。このお人に女の影なんかこれっぽっちもありゃしない。
そんな風変わりな女なんかお宅様くらいだよ」
「いいの、嬉しいわ。………。八重山さん、私を置いてくださいね。
帰ってご隠居の妾になれだなんて仰らないでね」
おばさん達は八重山の背中や腰をバンバン叩いて、
「人は見かけに依らないねえ」
「しっかりおやりよ」
「これだけあんたに惚れてる女を守ってやらなきゃ」
などと勝手なことを言っている。

あんな出任せを信じる人間もないだろうが、とりあえずそうしておこう………。

その日は近所のおばさん達が「差し入れ」と称して秀子を見に来た。
新しい玩具だと思っているらしい。

疲れたらしく、崩れ落ちるように眠ってしまった秀子を、布団に横たえた。
無防備な人だ。
傷つき続けてきたはずなのに、なぜ、まだ人を信じられるのだろう?
自分だけでもこの人を傷つけてはいけないと思う。
彼女が元気を取り戻して、彼女の出自に相応しいところへかえっていけるように……
八重山は布団を部屋の隅に押しやり、自分はその反対側に横になった。

眠れるわけがないではないか。
仕方なく、松吾は外へ出た。
冴え冴えとした月を眺めながら、秀子の言った「数日」の間、自分が「人間」でいられるように願った。


秋が深まった頃、燿は若奥様、いや義姉の染子に頼んで、格安で反物を手に入れた。
秋蚕が終わってしまうと「家事手伝い」ということになる。
その合間を見て、養父母と義兄夫婦のために着物を縫おうと決めていたからだ。
燿が縫っていると、いつのまにかヨネが覗き込んでいた。

「一六歳のお嫁さんかあ。大忙しの花嫁修業だったね」
「そうね。…… だから、実用的なことばかりだったの」
「玉の輿だ、羨ましい、と思ったけど、帳簿のお稽古覗いていたら震え上がっちゃった」

養女の縁組みの直後から簿記も教わっている。
家の中のことは、女中を置くとしてもどうせ一人か二人なのだから、
いざというときに夫の手助けができる方がよいだろう、というのが義兄の考えである。

「うん。最難関かな」
「はははは……。アキちゃんの最難関は愛嬌だってよ」
「愛嬌?」
「奥様がいうにはね、実業の難しいことは主将さんがこの辺でも一番の専門家になりなさるのだから、アキちゃんは簡単なところまででいいんだって。
それよりも、お付き合いが広がるだろうから、町屋の女将さんらしくならなきゃね」

たしかに、簿記どころではない難関である。
燿の裁縫の手が思わず止まっていた。

夕刻、三嶋家から電話があった時は息が止まるほど驚いた。
その直後、西条淳之助からの電話があって、秀子は行方不明になるだろうが心配はいらないと言われた。
それ以上のことは教えてもらえなかったので、そのままを養父に報告した。
三嶋家の当主の将棋友達である養父の方がよく知っているらしく、すぐに納得した。

「是非に、と望まれて嫁がせたはずの娘なのだが、亭主殿が妾狂いで、悩んでいたそうだ。
今度は少々の口答えで酷い折檻をされたらしい。
確かに生意気なところはあるが、聡明で、強情なところのない娘であるのに、と首を捻っておられた。
……癇癪持ちの亭主殿だな」

養女になってから、勿論「給金」はなくなった。
そのかわり「お小遣い」と称するものを義兄からもらうようになった。
「妹になったおまえをいつまでも女中部屋に寝かせておいて申し訳ない」
と言ってくれるのだった。

名目が変わっただけなので、燿は安心して太助に送金していたのだが、義姉から注意された。
「残酷なことを言うようだけど、燿もお嫁に行くのだから、生家のことは弟さんに任せるようにして行きなさい」

太助はもう一年余で尋常小学校を卒業する。
姉たちの労苦を最も身近に見てきた彼は年齢よりも大人びた子に育っていた。
太助より一年下の春吉はやや軽率なところがあり、とても兄を支えてはいけないだろう。
義姉のいうことは正しいのだが、太助の負担を考えると胸が苦しくなる。


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