「恋しきに28」

「決意」


本郷荘一朗は元々大変真面目な学生であったが、真面目な連中とも不真面目な連中とも交流があった。
特に、不真面目組の方は彼の完璧なノートをあてにしていた。

年末年始は学生達が郷里に引き上げてしまうため、寄宿舎は一時的に閉鎖される。
案の定、どんづまりになって荘一朗に「ノートを写させてくれ」と懇願してきた輩が二人いた。

「ところで」
一人が突然疑問に思ったらしい。
「君は何故そうあくせく勉強するのか?
以前は漕艇をやっていたそうじゃないか。なぜ参加しないんだ?」

「実は来年の二月末に結婚する。婚約者のためにも頑張らねばと思うのだ」
荘一朗は事実のみを述べた。
悪友共は目を丸くする。
「もう結婚するのか? 随分早いな。後悔するぞ」
「後悔しないさ。僕が望んだ女だ」
「随分自信たっぷりだな」

「それより急げよ。金融論も写すんだろう?」
そこで悪友どもはしばらく黙った。
「しかし、本郷君、君ほどのクソ真面目な男だから心配するのだ。君はあのことを知っているのか?」
「あのこととは?」
「男女のあれさ」
「知らん」
「お互いに初心者では具合が悪いだろう。
よし、後学のためだ、今晩行こう。特に君は急を要す。
それぞれの郷里には明日帰ればいい」

何と言って断るべきか?
家訓に背くから断る、
大学生ならともかく我々のような若造の行いとしては恥ずかしい、
この御用納めの日にうまくいくものか、
……何を言ってもややこしいと思った。

「せっかくの誘いだが先約がある」
そう言って断り、八重山のところに本当に顔を出そうと考えた。

悪友どもと共に寄宿舎を出されたせいか、品川駅で乗り換えた時にはもうすっかり暗くなっていた。
男二人のわびしい年末だが、少しだけ羽目を外そうと考え、手土産を持参した。

大森停車場から八重山の家に向かう途中で、ちょうど両手いっぱいに荷物を抱えた本人に会った。
そこで、八重山にざっと説明して、訪ねていいか問うた。

「構いませんよ。家訓を守った君を歓迎します」
「家訓というよりは……。
八重山さん、我々の表現は随分貧弱だと思いませんか?
燿にも娼妓にも同じようにしかできないのだから、僕はやめておきます」
「ふーん。もし、君の流儀に従うとあぶれる男は星の数ほどだろうなあ」

二人で歩いていくうちに、だんだん八重山の表情が険しくなった。
帰宅するのにこの緊張感は何だろう?
荘一朗は不思議に思っていた。

やがて全ての家に灯りのともった長屋が見え、彼の表情は明るく優しくなった。
「すまん、本郷さん、玄関を開けてくれないか」
「いいけど……鍵は?」
「開いてるから」

随分不用心だと思いながら玄関を開けると、八重山が「ただいま」なんぞと言う。
狭い家の中に女がいて、三つ指をつき「お帰りなさいまし」と出迎えてくれた。
こんなところにはあまりにも不似合いな育ちの良い女だと思ったが、彼女が顔を上げた時は声も出ないほど驚いた。

「どうぞ、あがってください」
八重山に促されて靴を脱いだ。
秀子が座布団を勧めてくれた。
「八重山さんを頼って逃げてきたんだね」
「ええ」

彼女は「家出人」の筈である。
荘一朗は何かを聞いてもいいものかどうか迷った。
秀子も黙って俯いている。
沈黙が続いたので、八重山が事実だけを説明した。
そうすると秀子が覚悟を決めたように口を開いた。
「本郷さんがいらしたので、決心が付きました。
お帰りになる時に私も連れて行ってください。
主人に見つけられる前に自分で帰らなければなりません。
このままでは八重山さんに大変なご迷惑がかかりますもの」
「僕は構わないが……」
荘一朗は松吾の方を見つめた。
「僕だったら、いつまでいてくれても構わないが……。
確かに西条さんの言うとおり、ご主人に見つかってはいけない。
まずはお父上の保護を求めるのが良いのでしょう」
「………。本当にお世話になりました。ありがとうございました」
秀子が深々と頭を下げた。
胡座をかいていた松吾も慌てて姿勢を正した。
「僕の方こそ、君に慣れぬ事ばかりやらせて……」

今まで家事など実地でやったことのない秀子が、近所のおばさん達に教わりながら、炊事も洗濯もしてきたのだった。
秀子に自分の物を洗濯してもらうのが恥ずかしく、松吾は何度か「君は休んでいていいんだよ」と言った。
そのたびに秀子は「休んでいては押し掛け女房らしくないでしょ」と言って取り合わなかった。

数日の筈が、一週間経ち、二週間経ち、とうとう一ヶ月を超えてしまった。

同棲を始めて、たちまち秀子の手足の皮膚が荒れた。
元々やわにできているためか、血が滲むこともあった。
それを見るたび、松吾は大変辛く思ったが、秀子は平気だと言っていた。

そして、いつのまにか、灯りのついた家に帰るのが当たり前になってしまった。
その灯りは、彼女が出ていったり連れ戻されたりしていないという証だから。

秀子が崩れ落ちると松吾は布団を敷き、彼女を横たえた。
「寝付きのいい人でね、電球の真下でも隣の赤ん坊が大泣きしても、この通りなんだ。
毎日慣れない家事で疲れているんだろうな。
これでは、逃げてきても、また別の苦労を背負い込んだだけだ。
俺のところにいるような人じゃないんだから」
松吾は荷物の中から軟膏を取りだし、秀子の手に擦りこんだ。
「俺のところに置いとくわけにはいかないと、思うよ。
………。
本郷さん、来てくれてありがとう。秀子さんをよろしくお願いします」

「正月の支度、無駄になってしまうんですね」
「ああ、この荷物? なに、いつも世話になってる近所のおばさん達へのお礼が半分ですから、大したことはありませんよ」
痛々しい、と思った。
だが、やはりそうする以外にはないのだろう。
「……餓死寸前なのに、お預けを守る忠犬」
「は?」
「いや……、秀ちゃんも罪作りな女だと思ってさ」
「安心しきって、無邪気な顔で寝ているからなあ。信頼を裏切るわけにもいかんだろう」

夜早い分、朝も早いらしい。
荘一朗は秀子が動き回る物音で目を覚ました。
ずっとこのままでいさせてやりたいと思う。
大人達は「ままごと遊び」と言うのだろうか。

汽車の時間は分かっている。
言いたいことはあるだろうに、秀子も松吾もなにも言えなくなってしまった。
いよいよになって荘一朗が立ち上がった。
靴を履き、振り返った。
秀子も頷き、立ち上がった。松吾も。

秀子の後ろ姿に、松吾はじっと目を当てていた。
膝を折って、袖を押さえて、草履を引き寄せる仕草も、何もかも、瞼に焼き付けておこうと思った。
秀子はこちらを振り返らない。
微かに肩が揺れた。

彼女は一瞬躊躇い、それでも荘一朗について踏み出しかけた。
「秀子さん」
やはり、振り返らない。
「秀子さん」
荘一朗が歩を止め、振り返った。

「秀子さん」
松吾が後ろから抱きすくめた。
「行くな」
秀子は彼の手に触れた。
振りほどく、筈なのに、少しも力が入らない。
「行かないでくれ」
「………はい」
勝手に涙が流れた。

「秀ちゃん、八重山さん……昨日必死で考えたんだが。
秀ちゃんがここにいることは西条淳之助君にも知らせておくよ。
彼の兄上の説得を試みてみようと思うんだ」


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