「恋しきに29」

「男の口論」


奉公人達が次々と休暇を取って帰っていく。
燿は全員を見送った。
奉公人がいない間、彼女は晴れて主家の娘として過ごす。
嫁入りしたところで種明かしをすることになっていた。

何もかもが順調で、叫び出したいほど怖い。

私がこんなに幸せでいいわけがない……

胸の奥で小鬼が囁く。

違う、
違う!
私は物心ついた時から窮乏の中で苦しんできた、
もう取り返しても良いはずだ。


御用納めの日の翌日、荘一朗が帰ってくるので、燿は豊浜の停車場まで出迎えに行った。
秀子からもらった着物に袖を通すのは初めてだった。
いただいた時に身体にあててみたが、あまりにもそぐわなかった。
それなのに、三園家の娘になった途端、不思議なほど似合うのだった。

昼近くになって荘一朗が帰ってきた。
燿の出迎えは嬉しい驚きだったらしい。
彼は内ポケットから小さな包みを取り出して、彼女の前で広げた。
中から出てきた小振りな髪飾りを、彼の手で彼女の髪にさしてやった。
普通の殿方がなさらないこんな行動はきっと西洋の影響なのだろう。

「至急西条君に会いたいのだが、一緒に行くかい?」
「お嬢様の……」
行方が分かったのですか、と言いかけた燿の唇に、荘一朗は人差し指をあてた。
馬車を頼み、岡宮家に向かうことにした。


岡宮家は停車場から反対方向にある。
山に向かって田園風景が広がり、寺が見える。
その寺の奥だという。

岡宮家でも正月の準備に忙しかった。

大晦日の日に帰京する予定の淳之助だけは暇だ。
秀子がいない西条家の想像をするだけで気が重くなるので、元旦だけ顔を出せばいいと思っている。

岡宮雅之は前日帰宅したらしい。
馬車が着いた時に雅之が外にいたので、荘一朗と彼は二年ぶりに再会した。
昔と変わらない笑顔を見せた彼はどこまで知っているのだろうか?
さすがに、秀子が困難な状況に置かれていることは誰も言えなかったに違いない。

外の様子に気が付いたのか、淳之助も出てきた。
「おー、燿ちゃんだ、可愛いなあ。それに本当に綺麗になったね」
初めて会った時のように、淳之助が無邪気な感想を言った。
「結婚するそうだね。自撰結婚なんだって? おめでとう」
「ありがとうございます」
「きょうはどうしたんだ? 年の瀬に突然の来訪とは本郷君らしくもない」

荘一朗は躊躇した。
彼が愛した女の困難を教えて良いものか。
知らされたからと言って彼に何ができるだろうか?

「義姉さんのこと?」
淳之助がそれを口にした。
荘一朗は黙って頷いた。

「君は彼女がどこにいるかを知っているのか?」
「いや、詳しくは……」
「そうか。ここには彼女に手を貸しそうな家はいくらでもあるからな。
だが、本郷君、もし君が彼女に伝える手段を知っているなら、早くご主人の元に戻るべきだと言ってやれ」
「岡宮さん? そこまでご存じなら、なぜ彼女が逃げ出したかもご存じでしょう?
あんな華奢な秀ちゃんを殴り、立場の弱さにつけ込んで誇りを踏みにじった男の元へ返すのですか?」
「一度定まった夫婦だ。婦人は家庭を治めるのが当然の義務なのに、彼女は放棄してしまった。
西条功喜氏は立派な軍人だよ。
もし、彼が君の言うように残酷であったなら、職場や他の家族や妾宅でも何か問題が起きるはずだ。
やはり彼女にも何か反省すべき点があるのではないか」
「それは……違う。
職場のような、理性が強く働く場所と、家は違う。家では問題があっても隠すだろう。
一番年少で弱い彼女にしわ寄せされても不思議なことではない」
「では、君は彼女に名誉を犠牲にするよう勧めるのか?
ご主人の名誉だけじゃない、彼女自身の名誉も、だ。
こんな事件が起こると、大抵は、本当は彼女が浮気者で、情人と逃げたのだと噂されるだろう。
よしんば、君の言うように、彼女に特に被害が大きかったとしても、夫に従順に仕えるのが婦人の天分というものなのだ。
彼女にむやみに生意気な態度を取らせるようにけしかけるのは止めなさい。却って可哀相じゃないか。
このままでは、帰るに帰れなくなる」

「あなたはエリート呆けです、岡宮さん」
「不思議な造語だね」
「ひとりの女が不当な暴力の犠牲になっているという重大なことと、世間体を取り繕うという些少なことを同列に並べて、問題の本質を誤魔化そうとしておられる。
そんな修辞法に引っかかる僕だとお思いですか?」
「君は僕を侮辱しに来たのか?」
「とんでもない、その反対です。
実は、あなたは何も聞かされてないと思っていた。
あなたも自撰結婚を望んでいたし、秀子さんの進学の希望を認めていたんだし、
……それなのに、無理矢理奪われた。だから、むしろ積極的に逃がしてやろうとするはずだ。
あなたが何ら行動を起こさなかったのは、何も聞かされてないからだと思いました」
「短絡的だよ。逃げおおせるわけがないじゃないか。
彼女はどこ? よかったら、僕が説得に行くから教えてくれ」
「知りません。幼なじみとして、助けたいとは思っているが。
岡宮さんこそ、彼女のご主人に伝えて頂けませんか?
とにかく、彼女に二度と手を上げるな、どこに行ったかを決して聞くな、その保証がなければ彼女は帰らない」
「夫婦間の問題に他人が口を挟むべきじゃないよ。
そんな約束をさせれば、彼女は嫁としての立場を失う。妾よりも情けない行動しか取れない本妻なんて、それこそ彼女の誇りを傷つけるじゃないか。
君だって、殴りこそしないものの、彼女を困難な状況に追いやっていることに変わりはない」

二年前は仲がよい友人同士、互いに尊敬し合っていたはずの二人の口論が続く。
燿は淳之助の方を伺った。

私には何が何やら分からない。止めてください。怖い!

「あの……。無意味です。結局義姉さんの居所は分からないんだし」
淳之助が仕方なく調停に入った。
「ああ、そうだね。失礼した」
「こちらこそ」
険悪な雰囲気を残したままだが、収まった。

「本郷さんは馬車で来てたんでしょ? 今、思い出したんだけど、僕、学校に忘れ物をしました。もう閉まってるだろうが、最後の望みをかけて。一緒に乗せてって」
「どうぞ」


淳之助がうまく出てくれたので、三人で待たせていた馬車に乗った。
「岡宮様は変わってしまったの? あまりのことで、私、怖くて」
「怖いって?」
「だって、大きな声を出すんですもの」
「?」

荘一朗は勿論怒鳴ってないし、声を荒げた覚えもない。
声の大きさは若干増したかも知れないが。

「そう? 岡宮の兄さんは逃げ腰だったな。本郷さんも凄く冷静だったと思うけど?」
「……ごめんなさい、変なこと言って」
燿はそこで黙ってしまったが、情けない気分だった。

言い争いは怖い。
今に喧嘩が始まりそうな雰囲気が怖い。
他の人が殴られても、私が痛いような気がする。
私の感じ方が間違っているのでしょうか?

結局、荘一朗の部屋で作戦会議となった。淳之助は、
「最後の手段はあるが、裏目に出る危険もある」
と言った。
「いずれにせよ、僕も大至急帰京して兄を見張ります。八重山さんのお宅はどちらですか?」
そこで、荘一朗は鉄道院の大森停車場からの経路と京浜電鉄の路線を描き入れた地図を描いた。
淳之助はしばらく見て、
「覚えました。誰かに見られてもいけないから、持っていきません」
と荘一朗に返した。

「僕が兄から長男の権利と妻を奪い取るということです。
陸軍の出世は、士官学校の成績や陸大に行ったかどうかが、大きく影響するんですよ。
僕が軍人になると言えば、父は動揺するはずだ。
ついでながら、もし義姉さんが戻って妊ったとしても、兄なら胎児を殺しかねない、嫡子を失っても良いのですか、と揺さぶっておきます」
淳之助が恐ろしいことを淡々と言うので、燿は震えた。

秀子様をご主人から奪って、淳之介様の奥様にして、頃合いを見て八重山様に譲り渡す?
そんな……、生きている女をお人形のように扱うのですか?
お優しくて、頭の良い方々なのに、どうして秀子様の悲しみに考えが及ばないのでしょうか?
それとも、女の悲しみなど、どうでもよいことなのでしょうか?


正月休みの間、荘一朗が毎日燿を迎えに来る。
三園家でも「行っておいで」と出してくれたり、雪の日などは中で休むように言ってくれる。
会っている間はとても楽しい。
荘一朗や淳之助までもが「怖い」男性だと感じたあの気持ちは思い違いであった、と考えたかった。

荘一朗も、燿の表情の暗さが気になった。母などは
「何がどう心配というのではないが、嫁入りの直前は不安になるものだ」
と言っていた。
二二、三にもなれば落ち着くのだろうが、まだ一六歳でしかない燿は特に不安を感じるのだろうと思った。


三日の朝、荘一朗と雅之は停車場の前で出会った。
見送りに来ていた燿は無意識的に荘一朗の背後に隠れた。
荘一朗は彼女が一度だけ「怖い」と言ったことを思い出した。
その後、燿は黙ってしまったので、気にも留めていなかったが、やはり「怖い」は正直な気持ちだったのだ。
荘一朗は軽く会釈し、雅之も返礼した。
「君は考えを変えないんだね」
雅之は苦笑した。
「僕らの結論は違いますが、彼女に幸せであって欲しいのは同じですね」
荘一朗が穏やかに答え、雅之も頷いた。


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