「恋しきに30」

「高砂」


いつもより早めに淳之助は帰宅した。
秀子を失った西条家の雰囲気は予想していたとおりだった。

美貌の才媛は息子を裏切った……

嫁入りしてきた当初は、美しく上品な良い嫁だと思った。
幼くはあるが、数年もすれば大人になるだろう。
そうすれば、しょぼくれた女とはすっぱり縁を切るだろう、と考えていた。
ところが、夫婦仲は思った程良くない。
しかも、あの女は家の恥を表沙汰にしてしまった。

……秀子は被害者なのに、両親がそのようなお門違いの怒りを持っていることは確かだった。

兄は怒り狂っていた。
世間一般では、夫婦喧嘩などで出ていくのは、嫁の辛抱が足りないからだと言われる。
夫に反省が求められることはないので、兄は自分が原因を作ったことなど取るに足らないと信じているようだった。

淳之助はウンザリしているのだが、いつもより歓迎されている。
なるほど、淳之助の帰宅は「変化」には違いない。空疎に新年を祝った。

「そろそろ、儂も隠居を、と考えておる。秀子は諦めて、しかるべき妻女を娶ってはどうだ?」
「いや、秀子を待ちますよ。必ず見つけだしてみせる」

不思議な兄だと思う。
そんなに執着する妻なら大事にしてやればいいのに。

「僭越ながら、僕も父上に賛成です。既に子をなしているではありませんか、妾殿と」
母が淳之助に黙るように言った。淳之助は了解したが、
「でも、もう一言だけ。兄上は妾殿との御子は大事にしてやれる。丈夫に育つでしょう。
だが、義姉上が戻って、たとえ妊っても、無事に育つでしょうかね?
せっかく才媛を迎えたのに、あまり意味がない。いっそ僕に譲ってみては如何ですか?」

「数学者になりたいなんぞという軟弱者にか?」
「それについては考えを変えました。やはり西条の家に生まれたからには、士官として生きるべきだと思い直しました。
来年の五月にはこちらで受験しますよ」

「本気か?」
父が即座に確認した。
淳之介は一風変わって軟派だが、とにかく頭が良い。
今度中学の漕艇部の主将を務めるというのだから、体力面の心配もいらない。
正直、西条家の総領息子が「無天」で終わりそうなのは、残念至極というものだった。
むしろ淳之助の方が、陸大に進み、そこで好成績を収めることが可能と思われる。

「それはいいことだが、なぜ秀子をおまえに譲らねばならんのだ?」
「勿論、僕は本気です。義姉さんとの子ならさぞや優秀であろうと思うんですよ。興味深いでしょう?」

「あんなだらしない女」
母がつぶやいた。
「私だって何度お父さんに殴られたことか。一所懸命耐えてきたのに、あの女はなんて我が儘な」
「母上がそんなに悲しむなんて……ごめんなさい。
聞いておられなかったのですか?
義姉さんはここにいると言われたが、僕が無理矢理豊浜まで引っ張っていったのです」
「黙りなさい、淳之助。口が過ぎます。どうしておまえは秀子を庇って兄に楯突くのですか」
「どうして、って? 庇っちゃいません。僕は事実だけを述べているのです。
だから、人から聞いたことは何も言ってないじゃありませんか。
兄上が激昂して、大きな物音が聞こえても、父上も母上も寝たふりをしていたなんて、聞いてはいますが申し上げなかったでしょう?
兄上も、義姉さんがまだご実家で静養しているのに、無理矢理連れ帰ろうとしたんですよね?
でも、僕は最初からその場にいたわけではないので、それを言い立てるつもりはありません」
「……まったくバカなことを……。あなた、なんとか仰って」
父は淳之助の将来のことを考えていたので、母の依頼を無視した。

淳之助の提案はバカバカしい、通常ならだ。
確かに長男の妻が次男と再婚するのはよくあることだが、それは長男が亡くなった時である。

淳之助はそれ以上言わなかった。
父は黙ったままだ。
莫迦らしい、と功喜は思ったが、何とも息苦しいどす黒い不安を感じた。

秀子と淳之助なら話が合うだろう。
軟弱者同士で話題には事欠かないのだろう。
俺には「生意気」と感じられる態度も、年下の淳之助には気にならないかも知れない。


鶴水引

花嫁衣装が届いた。

大正の御代になってから、豊浜町では、旅館や料亭で一日で婚礼を済ませてしまうのが主流になった。
泉町でもだんだん「三日三晩の祝言」はなくなってきた。
何かと忙しい商家のこと、簡略化は世の流れというものであろう。
本郷家と三園家の祝言も、一日で終わる予定だ。
従って、燿の衣装も白無垢のうちかけと色つきの振袖だけである。

自分自身の花嫁衣装を、燿はチラと見たきりである。
気になって仕方ないのだが、我慢して家事に勤しんでいた。
養父母と兄夫婦の着物は縫い上げたし、本郷桃子には
「お嫁に来たら、一年生の制服を縫って。それ以外はいらない」
と公言されていた。

ヨネの方は日に何度か覗きに行った。
若い娘が花嫁衣装を覗きたいのは仕方のないことと見なされがちであったし、何より本人ではないのだから、気恥ずかしさはない。

結婚式の前日、燿の実の家族が豊浜に着いた。
迎えに行った燿と荘一朗は、一緒に来てくれた豊中生にお礼を言い、一家を出迎えた。

懐かしい家族の方に駆け寄った燿は、途中でぎょっとして立ち止まった。
燿は自分が悲鳴を上げて倒れるのではないかと思った。
弟妹達は相変わらず小さく痩せこけていて、特に変化したところはなかった。
母は明らかに下腹が出て、それを支える為にやや体を反らしていた。
荘一朗が追いつくと、太助が進み出た。

「本郷様、ねえちゃん、この度はおめでとうございます。
それと、ねえちゃんとは縁が切れた僕たちなのに、本郷様のお計らいで呼んでくださって、ありがとうございます」

小学五年生の少年が長男としての務めを果たそうとするのだった。
荘一朗も少年に丁寧に礼をした。

「こちらこそ、お越し頂いて大変感謝しています。
大切な姉君との縁を切らせて、むごいことを致しましたが、血縁の情の絶えるものではありません。……ゆったり過ごしてください。
何も気にせず、姉さんを祝ってやってください」

彼らの姿では、旅館が宿泊を拒否するだろうと思われた。
着替えは本郷家に用意してある。

本郷家の人々は燿の母親の容貌に驚いていた。
荘一朗も燿の両親に最初にあった時には、祖父母だと思ったのだ。
燿が一番上の子なのだから、年齢は本郷夫妻と殆ど変わらないはずだ。
だが、髪は真っ白で、顔といい首といい深く皺が刻まれている。
妊娠しているらしいが、燿の父親が亡くなったのは一昨年の暮れだった。
再婚したという話も聞かない。

燿を三園家の養女にさせた三嶋の旦那の思慮の深さには、今さらながら感服した。

全員を着替えさせると、旅館まで送っていった。
手続きなどは荘一朗がやったのだが、彼は太助を傍らにいさせた。
燿はその間に案内された部屋へ同行した。仲居が引き上げるなり
「どういうことなの?」
と母に詰め寄った。

「だってぇ、アキはとっくに嫁こさ行ったと思ってたんだぁ。おめに恥かかすつもりはなかったよ」
「そうじゃないでしょ。お父っつあんが死んだのはもう一年以上前じゃない、どういうことか説明して」
「春吉やサクの前でか?」
「………」
「アキの旦那様のお父っつあんやおっ母さん、小姑も優しそうでよかった。
おらたち見て、嫁こいらねて言われたらどうしようかと、心配でぇ心配でぇ」
「それはないわ。要らぬ心配よ。だから養女にしてもらったんじゃないの」
燿は両手で顔を覆った。

「ごめんなさい。ねえちゃんに恥かかせて」
燦が申し訳なさそうにしていた。
「母屋?」
「うん」

燦は工場の寄宿舎にいるのだからどうしようもできなかった。
おそらく子ども達が寝付いた頃に母屋の主人がやってきたのだろう。
母には可哀相だが、むしろ燦がいなくて良かった、まだ一四歳の処女に同じむごい運命が降りかからなくて良かった――と、
燿は気を取り直した。

「おっ母さん、ごめんなさい、辛かったでしょ」
燿は母の手を取って頬をすり寄せた。
それから燦の方を向いた。
「燦、明日ね、ヨネさんっていうお姉さんが迎えに来てくれるから、必ず言うことを聞いてね」

自分はいつも燦に頼み事をしている。
とても燦の手には負えないのに、燦はまるで全責任をかぶったように右往左往する。
自分は仕送りで、金で、何事かをなしたような気になっていて、燦の千分の一も家族のための苦労をしていないのだと思う。

荘一朗と太助が入ってきた。
「おっ母さん、終わったよ」
淳之助からもらった洋服を着て大人びて見える太助が報告した。
「明日、お目にかかります」
太助は確かに年齢よりも大人びているのだが、痛々しいほどの「長男らしさ」を見せている。
姉に安心して嫁いでもらおうと、精一杯しっかりしたところを見せているのだった。

旅館を出て、燿は溜息を吐いた。
「燿ちゃん、また悩んでいるのだろう?」
「はい」
「明日、儀式が全部終わってしまったら相談しよう。君一人で抱え込むんじゃないぞ。
二人の方が良い知恵が出るものだよ」
「……ごめんなさい……こんなことちっとも考えやしませんでした」
「サクちゃんがあんなに小さいんだ。五、六歳にしか見えない。お母さんのお腹が大きくたって誰も気にしないさ。
明日のことより、今後のことなんだろう? それは明日一緒に考えよう。
今は三園の父君や母君のことを考えなさい。本当の親のように喜んでくれてるじゃないか」
燿は言葉もなく頷いた。

その通りだと思う。
三園商会の旦那はご長男の仙太郎様。
二男、三男、四男はそれぞれ奉公に出ていて、暖簾分けしてもらうまでは、結婚式と葬式以外で帰ってきてはいけないのだった。
特に大奥様は女の子がいないことを寂しく思っていたらしい。
燿を養女にという依頼が現実のものになった時は戸惑ったが、
嫁入りの準備を進めるうちに「思いがけなく娘を授かった」と喜んでくれるようになった。生家のことで泣いていては、養父母に申し訳ない。

燿が三園家に帰ったとき、乾燥場を間借りしている商店主達が大騒ぎしていた。
射的屋の主人が燿を見て駆け寄ってきた。
「お嬢さん。あんた、お嬢さんだったのかね? なんだ、どうして言ってくれなかった?
親代わりと本当の親ではえらい違いだ。おかげでこっちはご祝儀の包み直しだよ」
他の商店主も笑顔なのだが、口々に恨み言を言った。
「申し訳ございません。先例のないことゆえ、今まで秘密にしておりました」
勿論、養親の付き合いなのだが、冬の期間顔を合わせていただけの人々が温かく祝ってくれることが嬉しくて、燿は涙を流した。
商店主達も頷き、口にする言葉も「おめでとう」に変わっていた。
買い物や遊技に来ていた仲士達も大至急仲間に真実を知らせねばなるまいと帰っていく。
「おめでとう、お嬢さん。わしらも今夜は使い走りで忙しいことになりそうだ」
奉公人達も「奉公人仲間のアキちゃん」ではなく「燿お嬢様」がお嫁に行くのだと知って困ったのだが、
「お嬢様だって急によそよそしくされたかないだろうさ。取り繕わず自然に送り出してやろうや。
あの子に、お嬢様ぶった態度が一つもなかったから、わしらもうまく騙された。仲間として祝ってほしいんじゃないかね」
と新吉が結論づけた。


夢のような一日が始まった。
養父母に心から感謝し、白無垢の花嫁衣装のようにその心から全てを消し去った。
外へ出ると泉町の商店街の人々が見送りに来ていた。

仲人の三嶋氏は立派に「高砂」を謡える人物であったので、披露宴は格式高く始まった。
本郷家と三園家の縁組みであるので、豊浜や泉の旦那衆、豊浜中の校長や恩師、あるいははるばる信州から駆けつけた製糸屋なども顔を出していた。
この雰囲気に圧倒されて、燿の実親や弟妹は大変小さくなっていた。

宴会が始まると新郎は酌をしに立ってしまうので、新婦も綿ぼうしと白無垢の姿からもう少し動ける姿に替わるのだった。
仲人夫人に促されて燿が爪先を立てた時、仲士達のご祝儀酒樽が披露された。

振袖姿の新婦は最初座ったままだったが、袖を押さえてお酌に回ることにした。

さりげなく実の親弟妹の方に近付くと、案の定小声で言い争っていた。
父は酒が入ると、歌い、騒ぎ、怒り、感情過多になったものだが、母にはそれはないようだった。
ただ酒をあおる速さが尋常ではない。
一点を見つめてひたすら飲み続けていた。

彼女は振袖の花嫁を見ると、上機嫌になり、この美しい花嫁は本当は自分の娘なのだと叫んだ。
幸い彼女が何を言ったのかは周囲の出席者にも三園家の人々にも分からなかった。
燦はずっと「大人しく目立たないようにしろ」「図々しく酒をねだるな」と言い続けていた。
燦の訴えはほとんど効果がなかったばかりか、「ウチの子どもはみんな親に逆らう」という古い怒りを思い出させてしまった。

何かわめきながら母は手を上げた。
その手が燦の頬に炸裂するより早く、荘一朗の掌に受け止められた。
「実の親でも燿を傷つける者は許さない」
荘一朗の声は低く、誰にも聞き取れなかった。
母は真っ青になり、きちんと正座し直した。

下座で新郎新婦が交差した。
二人とも出席者全員への挨拶を無事に果たした。

翌日は三嶋家へ挨拶に行き、翌々日は四月から住む新居を見に行くので、東京まで一緒に行こう。
燿は母や弟妹を誘ってみたのだが、すぐに帰りたいと母から断られてしまった。

「昔は三日三晩、うちの座敷で……、よくやったと思うなあ」
本郷の旦那が一息ついて言った。
「大変でしたねえ。今の人はいいわね。でも、花嫁衣装が二組では寂しかったかな」
燿は慌てて首を振った。
「素敵な衣装だものね。さすが三園商会さんが呉服屋さんに圧力を掛けただけのことはある。
これで三園さんとも親戚関係なのだし、桃子の時にはお願いしましょうかね」
「まだまだ先ですよ」
「燿ちゃんはあんたと同い年でしょうに」
「私はお兄ちゃん達みたいに早い結婚はしません。花嫁さん綺麗でしたけど、それはそれ、これはこれ」

桃子の言い分に全員が頷いてしまった。
桃子のように頭の回転が速く活発な娘は、早く結婚させたり、女学校を出るなり花嫁修業をさせたりするのは無理がある。
無理は性に合わないことである。
どだい、性に合わぬ事は不幸である、と本郷家では承知していた。

二人きりになった時、きちんとした挨拶をする余力はなかった。
布団の中で「今後のこと」を話した。
自分たちについては決まっている。
家を借りる約束はできているのだから、三月末に引っ越せばよいだけだ。
もうひとつの「今後」は母屋の主人との子どもができた母のことだ。
「僕の考えはさっき決まったよ」
「私もです」
それでも、親戚の家に厄介になって遠慮させておいた方がまだましだろう。
独立させたら、燦の仕送りなどあっという間に飲み尽くしてしまうに違いない。


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