「波及」


耀にとって、東京は故郷に帰る時に乗り換える場所だった。
ここで暮らすなどと想像したこともなかった。
新居はもう決めてあるというのが却って幸いであった。
意見を求められたところで、耀としては言えることはない。
荘一朗の後を付いて必死に歩くしかなかった。
新居を見てから、荘一朗は「他に寄りたいところがある」と打ち明けた。

「品川駅」を降り、八ツ山橋を渡った。
「京浜電鉄は海岸線を走っていくんだよ。ここの車窓風景が好きでね。どんどん変わっていくんだ。
ただ、この乗り換えが面倒だな。早く品川駅に乗り入れればいいのに。大抵、鉄道院の大森停車場から歩くのだが、今日は付き合ってくれ」
「はい。よくいらしたんですか?」
「うん。工場を見て回っていた」

古い良い日本のものがあることも認めるが、荘一朗は力強く変容していく工業地帯が好きだ。
長い伝統で培われてきた、本人の努力が及ばない「支配・被支配」の構造は、正直息苦しいから。
工業はこの伝統を台無しにする。
今は併存しているが、いずれは屈従と忍耐が必要な美徳までも破壊してしまう力を持っていると思う。

「電車なんだよ。一両しかないのが悲しいけどね」
「電車? 電気で動いているって事ですか?」
「珍しいだろ?」
「ええ。まあ」

新しいものが大好きな荘一朗にどこまでついていけるかしら、と燿は不安になる。
理解したいとは思う。
だが、基本的な教養が違いすぎる。

「ああ、そうか」
耀が思ったような反応を示さなかったので、荘一朗は車輌の見た目の問題かと思いついた。
「さっきの車両が随分立派だったからね。鉄道院の方も対抗策を講じたんだ。
こっちはたったの一両だし、印象がかすんでしまったかな」
「ううん。あなたのお話を聞いているのが楽しいわ」
耀は焦りながら言い添えた。
嘘ではない。

大森海岸の停車場を降りて少し歩き、長屋が連なる場所に来た。
尚も荘一朗がスタスタ歩いていく。
燿も慌てて後を追った。
彼は振り返り、手をさしのべた。

日中公然と手をつなぐ?
燿は首を横に振った。
荘一朗は悪戯っ子のように微笑むと新妻の手を取った。
「気安いところだから、大丈夫だよ」

燿の手を引いたまま、この長屋の住人と思われるおばさん達に
「こんにちは、おひさしぶり!」
等と挨拶している。
「もう帰ってきたかな? うまくするともの凄く珍しい昼食にありつける」
荘一朗はにやにやして、ある家の玄関前に行った。

通ってきた時に幾度も見たような長屋の前で2人は止まった。
「ごめんください」
荘一朗が耀の様子楽しそうに窺い、声を掛けた。
「はい」
女の声が答える。
聞いた声だ。
まさか?
まさか。

秀子と燿は一年以上会っていなかった。
燿の方は秀子が行方不明と聞いたままだったので、口元を覆ったまま立っていた。
秀子が燿の手を握った。
「燿ちゃんに会えて嬉しい。本郷さんの奥様になったんでしょう? 聞いてるわ」
燿は頷くだけで何も言えず、涙を流した。
淳之助が「心配要らない」と言っていたのは、安全な場所で生活しているということだったらしい。

「君はいつも突然ですね」
後ろから声がした。
勤務を終えてきた松吾だった。
荘一朗の方は、確信犯のくせにもっともらしく答えた。
「新居を見に来たので。今日しか日が取れなかったんです。明日の日曜はゆっくりしたかったし」

秀子と松吾は「同居」とはいうものの、実質「同棲」しているようだった。
近所には「押し掛け女房」と説明したので、随分大人しい押し掛け女房だと不思議がられているらしい。

「秀ちゃん、料理上手になってきたなあ」
荘一朗が感心した。
「見直した?」
「うん。何でもやればできるものだと言うけど、愛の力?」

この2人の会話は尽きない。
松吾などは、食事中に話したりするときつく叱られたせいか、どうしてもだめなのだ。
たまに「珍しく上手にできた」時、秀子が
「今日は良くできたと思うんだけど。ね、美味しい? 気に入ってくれた?……だめ?」
なんぞと聞いてくる。
可愛い人だと思う。
やっとのことで
「旨いです」
と答えるのだが、我ながら「他の科白はないのか?」と思う。
秀子も荘一朗と話している方が会話がつながって楽しそうだ。
二人とも自分の意思を表明することには子どもの頃から慣れているし、西洋かぶれだし、要は会話上手なのだろう。


結婚したばかりの荘一朗と燿が訪ねてきたこの夜、二人とも寝そびれてしまった。

松吾と秀子が同じ布団で寝はじめたのは、つい最近のことである。
松吾に寒さは気にならなかったが、やわにできている秀子には粗末な布団が堪えていたらしい。
秀子はそのまま眠ってしまうので、彼女が眠るのを確認して彼も眠るのが常になっていた。
いつもならば。
しかし、この夜は考えることが多すぎた。

燿は、新居に移ったところで、お針子として働くという。
決定されるまでの紆余曲折を荘一朗は面白可笑しく語った。

荘一朗はさんざん反対したのだが、「実家」の三園商会出入りの製糸屋を通じて決めてしまった。
「あなたには大目標があります。本当に学業を成して頂かねばなりません。この際、見栄などお捨てなさい」
と、荘一朗の母そっくりの口調でやられ、さすがの彼もたじたじになった。
「お裁縫は全然苦になりませんもの。私を救ってくださったあなたにご恩返しをしたいの」
「君ね、鶴じゃないんだから……」
賛成はしていないが、折れたのだから、それ以上は言わない。その代わり
「燿が働くのだから、俺が家事を担当しよう」
と荘一朗が提案した。これには燿が大反対した。そこで、
「通いで働くのは初めてだろう? そんなに何もかも引き受けると体をこわすよ。君こそ見栄を棄てなさい」
と言い返した。

実際にどのような分担をしていくのかは、生活が始まってから決めていくが、「同じ時刻に寝る」を目安にするという。
どこまでも変わった夫婦だ。
昔から「髪結いの亭主」はいたが、それとも違う。
やはり風変わりを貫いていくのだろう。

秀子も自分が働くことを考えていた。
特別な才能や技術はない。
勉強することが苦にならなかったというだけ、一通りのことはできるが趣味の域を出ない、自分はごく普通の女だと思う。
女の職業として考えられる事務員や交換手は若いうちしか雇ってもらえないし、
一生の仕事である看護婦や助産婦、小学校教師は資格が必要だが、秀子にそれはない。

生まれ落ちた家がたまたま「上流」と言われる家だったが、
秀子自身は女としてはごく平凡に「家庭婦人」になると思っていたし、
周囲もそのように考えていて、「良妻賢母」たるべく育ってきた。
自分自身が信頼を寄せる相手の妻になれれば幸せだろうが、そのようなことはまず聞かない。

「ね、松吾さん、私も何か仕事ができないかしら」
「仕事?」
「そう。燿ちゃんみたいに」
「俺は反対です」

そう言ってしまってから、松吾は慌てて理由を捜した。
秀子は彼の庇護下にあるが、彼の妻ではない。
闇の中で、二つの瞳が彼を不思議そうに見つめているに違いない。
彼は彼女の身体をきつく抱きしめ、その瞳から逃れた。

「あなたは目立つんだ。気品があって、卑しからぬ素性が誰にも分かるんだよ。わざわざ人目に立つ必要は無いじゃないか。
生活は不自由だが、危険を冒すよりマシでしょう」

屁理屈だと松吾は思う。
生まれてから一度も木綿の着物を着たことのない女が、化粧もせず、女中のような毎日を送っているのだ。
自分さえ稼ぎが良ければ……。

「苦しい。……ね、松吾さん、痛いの」
彼女が小さな声で抵抗した。
「あ……ごめん……」
力を緩めると、秀子は一つ息を吐いた。
「そんなに目立つなんて考えたことがありませんでした。そうね、先に主人に見つかりたくありませんもの。
……でも、主人にはきちんとお話しをして、離婚してもらって、堂々と外を歩けるようにならなくちゃね」

離婚が成立したら、彼女は三嶋家へ戻る。
まだ一九歳でしかない彼女に再婚話はあるだろう。
再婚とはいっても、それなりの家柄の男達に限られるのだから、松吾が対象となることはあり得ない。
松吾が秀子を腕に抱いていられるのは今だけ、彼女がかりそめの隠れ家にいる間だけだ。

松吾の胸に置かれた秀子の手が移動して、彼の頬を包んだ。
彼女はそのまま彼の唇の上に自分の唇を一瞬触れさせた。
「おやすみなさい」
彼女がくるりと背を向けたので、
「何の悪戯ですか?」
後ろから抱きしめた。
「おやすみのキスです」
「おやすみができるわけないじゃないか。何をされても文句は言えないんだよ」

バカなことを言ったと思った。
処女にしか見えない人だが、彼女はれっきとした人妻だった。
ご存知ないわけがない。

「文句なんか言いません。一つ屋根の下です。
その気になれば、私が何をしても、しなくてもできることを、あなたは三ヶ月もなさらなかった。
私が知っているのはそれだけです」

君が何をしても、しなくても、だって?
君が泣いて拒んでも、自分の欲求を優先するのは犯罪というものだ。
君が義務感から応じたとしても、そんな不毛な行為は虚しい。
だから、きっかけを待っていたんだ。

松吾は秀子を抱きしめたまま思いの丈を打ち明けた。

堕ちる!

秀子は罪に堕ちる悦楽におののいた。

HOME小説トップ「恋しきに」1次へ

inserted by FC2 system