「旧い怨み」


秀子以外の女は知らない。

娼婦も含めて、人間的には勿論、肉体のみの関わりもなかった。
比較対照がないはずなのに、秀子は不思議な女だと思う。
長い間松吾の憧れの女性だった。
今でも、まともに考えれば、松吾の妻になるはずがない女であるのに、
一つにつながっている時は彼女を「秀子」と呼び捨てにしている。
まるで、彼女に対して、生殺与奪の権を自分が握っているかのような幻想を抱いてしまうのだ。
確かに彼女をかくまっているのだが、彼女の立場の弱さにつけ込もうと思ったことなど無いというのに。

彼女の気が済むまで置いてやるが、こじれる前に実家に帰るよう説得する、はずだった。
それが、子どもっぽい独占欲に負けて彼女を引き留め、彼女もそれを受け入れた。
秀子さんが欲しい、一度なりともこの腕に抱きたい……
彼は焦れて幾晩も過ごしていた。
その時は本気で「唯の一度でいい」と思っていたはずだったが、彼の気持ちを彼自身が裏切った。

秀子が「女」であることを見せつけたあの夜以来、
一日か二日は決心を守ることができるものの、その辺りで忍耐が切れてしまう。
松吾は秀子を抱きすくめて「欲しい」と熱っぽく訴えるのだった。
彼女が断ったのは「月の障り」の時だけで、それ以外の時はさんざん彼をじらして了解した。
日中は同郷の同居人、彼が焦れると「天女と漁師」、それから「主人と女奴隷」、そして「女王様と下僕」へと、
性交を挟む立場の完全な逆転を二人とも楽しんでいた。

このままでは秀子が妊娠してしまう。
わかっているはずなのに、歯止めがかからない。

本郷夫妻は代々幡町の新居に移って間もなく、秀子の荷物を抱えて訪問した。
秀子の着物や帯、必要な小物等だった。
三嶋氏には秀子と連絡が取れることだけを知らせておいた。
氏の方も詳しいことは聞かず、荷物だけを託した。
この時、松吾は正真正銘「西洋かぶれ」の荘一朗に「キス」のことを聞いてみた。
荘一朗は、「親愛の情の表現で、性行為として行われることがある、云々」と解説した後、
燿を抱き寄せて実演して見せた。
突然唇を吸われた燿は驚いて荘一朗の腕を逃れた。
両手で口元を覆い、大きく目を見開いている。
一方の松吾は「おや」というように眉を上げただけだったので、
荘一朗は彼に向かって親指を突きだしてみせた。

「八重山さんがどうして西洋の習俗なんか知っているのかと思ったら、実地体験済みでしたか」
「いや、そこまで大胆ではなかったのですが、
……さっきの燿ちゃんと心情的には同じですよ、何をされたのかと驚きました」
松吾がうっかりと「秘密を暴露した」事に腹を立て、その夜の秀子はしつこく焦らし続けた。


片山セリは一七歳で西条家のメイドになり、二〇歳を越えた頃嫡男功喜に愛された。
家に戻ったとてろくな縁談の来る家柄で無し、このまま功喜の妾になっても良いと思い始めた矢先、
その功喜が正妻を迎えた。
地方都市育ちのくせに田舎臭さのない美少女だった。
年輩のメイド達は「良いお嫁様がいらした」と喜んでいたが、
セリなどは子どものくせに主人面するその女―秀子のやることなすこと気に入らなかった。
秀子の上品ぶりには反吐が出ると思った。

セリともう一人の同僚は不服従のゆえを以て解雇された。
その同僚とは功喜の寵を競っていた。
家に戻ったセリは、西条功喜の寵愛については口をぬぐって結婚した。
やはり大した家ではなかったが、気は楽だった。

嫁入りして二年、突然義姉が子どものうち女の子達だけを連れて出戻ってきた。
舅姑は出戻りの娘と孫娘達を優しく出迎えた。
子ども達は洋服を好んだが、この家に置きっぱなしのミシンを踏める者はいなかった。
この高価な機械の持ち主は「芸術家」だという訳の分からない男と
駆け落ちしてしまったからだ。
もしセリに洋裁ができたとしても、
出戻りのくせに遠慮一つしない義姉の子の服など縫ってやるのはまっぴらごめんだ。
そこで舅姑に
「長屋をお持ちなのだから、その中に洋裁ができる者があるかも知れない。
店子なんだから、手間賃も安く叩けるでしょうよ」
と言ってやった。
そんな洒落た技術を持つ者があの長屋にいるわけがない、と高をくくってのことだった。

そこで、大家の妻は長屋の方へやってきた。
洗濯をしているのか、下らないお喋りをしているのか分からない女連中を見つけ、
「誰か洋裁のできるものを知らないか?子どもの普段着で良いのだけれど」
と口をかけてみた。
すると、見知らぬ若い娘が
「私ができます」
と言うではないか。
周囲の女連中は八重山松吾の妻だと紹介した。
おおかた駆け落ちか、あるいは男の後を追って家出してきた不品行な娘だろう。
上品そうな顔をして、人は見かけに寄らぬものだと思いながら、仕事を持ちかけてみた。
若い女は
「主人に聞いてからお返事します」
と言い、翌日に返事をもらうことになった。
他でも声をかけてみたが、洋裁ができるというのは八重山の妻一人であった。


秀子の「仕事」の話を聞いて、松吾はムッとした顔をした。
内容に文句はないし、大家宅に通うくらいどうということなく思われた。
だが、その「手間賃」が一般的な女工のそれと同じというのが気に入らない。
金額の多寡に云々したくはないが、女エリートになり得た人を雇うにしては、随分バカにしている。
松吾は、早く一人前になれるように頑張るし、週一回の晩酌もいらないから、はした金で秀子の時間を売るなと反対した。
「そう? あなたがそう仰るなら、お断りしますわ。でも……
さしあたり、私にしかできないことがあって、それが人様のお役に立つならと思ったのですけど」
秀子はおっとりとした笑顔を向けた。
こういう時は松吾をやんわりと説得するのだ。
彼がどのように言ってみても、結局は秀子の口に負けるのだった。
「……参りました。秀子さんが良いと思うようにしてください」


秀子は子供服の仕立てを引き受け、そのまま大家宅についていった。
彼女が子ども達の寸法を測り、新聞紙に直線や曲線を引いていくのを、大家も女中も物珍しげに見ていた。
セリが顔を出した時、秀子は布の上に型紙を置いてまち針で止め付けているところだった。

セリが秀子の顔を忘れるわけがない。
セリの目に映った秀子は、少々大人びてはいたが相変わらず瑞々しい美少女であった。
憎き西条秀子が「八重山」などと名乗っていることに思い当たった。
この女はセリから甘美な夢を取り上げておいて、一方では夫をも裏切ったのだ。
上品そうな顔をして何という奔放、何という性悪な女だろう。

日当であったが、秀子にはわざと作業を遅くして契約よりは多めに払わせることなど思いも寄らなかった。
子どもの夏服などはどんどん仕立ててやった。
秀子自身、女学校に戻ったようで楽しかったのだ。

「余程のことがない限り、子供服の仕立ては今日で終わり」という朝、松吾は秀子の身体が熱いことに気が付いた。
連日全裸で眠りに落ちていたため、風邪をひかせてしまったらしい。
迂闊であった。
秀子は大変やわにできているのだから、もっと気を遣うべきだった。

秀子が起きあがった時、松吾が台所にいた。
「おはようございます。ごめんなさい、寝過ごしたわ」
「いいから、まだ休んでいてください」
「でも……」
「大丈夫。もうじき終わります。ああ、粥を炊いた方が良かったかな」
「ごめんなさい、ごめんなさい。私、致します。男の人に炊事をやらせるなんて、何という失態」
松吾は立ち上がった秀子をもう一度座らせに来た。
「一緒に暮らしているんだから、苦しい時はお互い様」
男の面子より君が大事だとまでは言えなかったが、伝わっただろうか?
「……はい」
秀子は顔を赤らめた。
かつて自分は一度でもこのような優しい気遣いをしたことがあっただろうか、と考えながら。

発熱はしていたものの気が張っていたからか、秀子は体調の悪さをさほど気にしなかった。
午前中で仕立て上がったので、その日の日当は半額だった。
帰ろうとする秀子に、この家の嫁が昼食を出すから待つように呼び止めた。
昼食とは言っても、出てくるものはいつも握り飯が二つにタクアンの切れっ端なのだが、
わざわざ引き留めるのだから謝礼でも兼ねているのだろうか。
無下にするのも躊躇われ、結局相手の申し出通り子ども達の相手をしながら待つことにした。

引き留めに成功したセリはホッとした。
秀子の正確な居場所は分からないが、ここに現れることはわかっていると、西条功喜に教えてやった。
セリは謝礼を貰い、その代わり昼の休憩時に自動車を飛ばしてくる功喜に必ず秀子を引き渡すと約束した。

HOME小説トップ「恋しきに」1次へ

inserted by FC2 system