「妾」(1)


前日片山セリが現れ、重要な情報をもたらした。

セリに詳しい住所を聞き出すと、功喜はすぐ電話を掛けに行った。
セリが
「あんな人だとは思いませんでした。何とふしだらな」
などと、功喜に同情する様子を見せていたが、彼にはそれどころではなかった。
岡宮雅之が書生として住み込んでいる家に電話をして雅之を呼び出すと、セリには謝礼を包んで追い返した。


岡宮雅之になど相談を持ちかけるのもしゃくに障るが、他に思い当たる人物がなかった。
料亭に現れた岡宮も怪訝そうな顔をしていた。
酒肴を勧めながら、どう切り出そうか思案する。いずれにしても、時間がない。

「秀子のことだが」

率直に言うしかないだろう。

「八重山とやらいう男とどういう関係にあったんだ?」
「何もありやしません」
「表面的にはそうだろうが、……つまり、惚れ合っていたのか?」
岡宮は苦笑した。

「確かに僕たちは仲の良い友達でした。
僕と同じように、八重山君も秀子さんが好きだったし、秀子さんも八重山君を慕っていたと思う。
その頃僕らは中学生で、女の秀子さん相手に男同士のような、
……将来の夢とか、将来の国のこととか、……
そんなことしか話していませんでした……。
まさか、昔のそんな精神的な交友まで、咎めておられたのですか?
とても過ちとは言えないものです。保証します。
僕が信用ならないなら、淳之助君にでも、誰にでも、聞いてみてください。誰でも同じ事を言うはずですよ」

「いや」
功喜は少々慌てた。
「子どものやったことにまで目くじらを立てようという気はない」
「そうか……よかった……」
「雅之」
「はい?」
「おまえは秀子のどこに惚れたんだ?」

「それは……」
最初は言い淀んでいた岡宮だったが、
美しい秀子に憧れた豊中生は掃いて捨てるほどいたこと、大変に賢く、何かを教えるとたちどころに理解したこと、それでいてでしゃばらずあくまでも優しいこと、気品があること、清純であることなどをあげ始めた。

「本来はエリートに相応しい女というわけだ」
功喜は皮肉っぽく言ったが、
「あなたとてエリートじゃありませんか」
と大真面目な顔で返されてしまった。

士官学校を卒業する時、俺は二〇〇番だったことをどこかで漏れ聞いているであろうに、それは皮肉か?
それとも、官僚と違い、軍人は出自だけで出世が決まるとでも思っているのか?
……功喜は苦笑した。

「あなただって秀子さんの美しさや聡明さはお好きなのではありませんか?」
「さあな。秀子は家を守るべき立場にある。それだけのことだ。ただ……
庭球をする時のあいつは、すぐむきになるところが面白いとは思う」
「は? 庭球? 秀子さんが?」
「庭球が何か変なのか?」
「秀子さんは庭球は嫌いです」
「何?」
「相手を直接にうち負かすことしか考えない競技は嫌いだ、自分が全力を尽くせばそれで良いではないか、と言ってましたから。
いかにも女らしいと感心したものですよ」
「……楽しそうに見えたが……」
「それは、少しでもあなたに気に入って欲しかったからではありませんか?」
「浅はかな奴だ」

浅はかと断じたものの、功喜は動揺していた。

「秀子は八重山と一緒らしい」
「そんなバカな」
「雅之。恥を忍んで、おまえの知恵を借りたい。何とか八重山だけを罰する方法はないものだろうか?」
「八重山君だけ、ですか?
ちょっと待ってください。秀子さんは八重山君のところに世話になっているということですね?
秀子さんの方から行ったんですね?
どうしても八重山君を罪人にしたいなら、姦通罪ということになるが……」
「それは困る。秀子を罪人にしないでおく方法はないのか?」
「秀子さんは守りたいのか……」
岡宮は嬉しそうに微笑んだ。

功喜は面食らう。
こいつは人妻の秀子をまだ好いている。
自分のものにならなくても、亭主が秀子を守る気になればそれでいい、とでも言いたいのか。
聖人ぶりやがって。

「秀子の姦通は我が家の恥だ。表沙汰にはしたくない」
「それなら八重山君をどうにかしようとは思わないことです。どういう経緯であれ、彼女を保護していたのだから」
「保護だと? 冗談じゃない。他人のものを盗みおって。
そうだ、誘拐だということにしたら……」
「もし警官に踏み込まれたら、八重山君がそう主張するでしょうね。秀子さんに罪はない、と。
だが世論はそうは言いませんよ。この手の事件はこのところ世間の注目を集めていますからね。判事だって影響を受ける。
そうなったら恥の上塗りですよ」

結局雅之には、秀子を無罪放免にして、八重山を厳罰に処する手だてを考える気はなかった。
堅物である。
秀子が関わるのに、依怙贔屓せぬといった面持ちのままだった。

タンポポ

そこで、功喜には妙案がないまま、秀子を迎えに行った。
片山家を出たばかりで歩いている秀子をすぐに見つけた。
自動車を見て秀子は観念したようだ、立ち止まってしまった。
こわばった表情の秀子に「乗りなさい」と促すと、無言のまま従った。
功喜は前方を睨みつけたまま、秀子は俯いたまま、どちらも無言であった。

自動車を止めた場所は西条家ではなかった。
夫が「降りなさい」と言うので、不審に思いつつ従った。
小さな、何の変哲もない住宅に二人は入った。

「どこに、誰といたのか、聞かせてもらおうか」
「言えません」

頬に熱い衝撃が走った。
床に倒れた秀子は打たれた頬を押さえて、仁王立ちの夫を見上げた。
背中を柱にぶつけられたことはある。
腹や腰を蹴られたことすらあるのだが、今までは決して顔を傷つけることはなかった。

「八重山とか言ったな」
「知りません」
「男を庇うのか、この淫乱女め」
「………」
夫の手が細い首に掛かった。
「どこへも行けないように、首に縄をつけておきたい。
それとも、この額に焼き印をつけてやろうか」
やりかねない!
秀子は全身の力が抜けてしまった。

「俺が怖いのか?」
彼の声から怒りの色が消えていた。
声も出ないほど秀子は怯えていたので、微かに頷いた。
妻の返事に夫は息苦しさを覚えた。
「怖い、だけか?」
彼女はもう一度頷き、気を失った。

わかっていたはずだ。
俺はこいつに平手打ちを食わせた上で脅しつけたのだ。
お嬢様育ちのこんなに華奢にできた女を、どうして俺は殴ってしまったのだろう?
あの片山セリが何をやったとて腹が立つことはない。
ヤス子にも我を忘れるほど怒ったことはない。
こいつに限り、許せなくなる。
あの雅之が相手だから、許せぬのだと思ってきた。
だが、相手の男が誰であろうとやはり許せぬ。
俺を怖いとしか思えなくて当然ではないか。
それなのに、当然のことを認めるのが苦しい。


ヤス子が買い物から戻ってきた時、家の中では夫が本妻を抱きしめて号泣していた。
ぎょっとしたが、彼女は気を失っているだけだった。
ヤス子は夫の手に自分の手を重ねた。
夫は我に返ったようだった。
彼は素早く秀子の両手首と両足首を縄で結わえた。

「夜にまた来る。逃がすな」
「……あいよ」
ヤス子は出かける夫を見送ると、背中の由子を下ろした。

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