「妾」(2)


秀子の顔が腫れていたので、ヤス子は手拭いを濡らして充ててやった。

あの寛大な西条功喜が、まるで発作のように本妻を殴ってしまうのだと悩んでいた。
とても信じられないが、本当のことだった。


秀子はうっすらと目を開けた。
体を起こそうとして縛られているのに気が付いた。

「ごめんなさいね。あなたを逃がすなと言われてますので」
「そうですか。……あの、申し遅れました、私、西条秀子と申します」
「存じてますよ。私は粟本ヤス子、ご主人の妾です」
「あなたが……?」

目の前の女は「妖艶」とはほど遠い。
寧ろ「うらさびしい」という形容がピッタリの女だ。

ヤス子は小さく笑った。
「みなさん、そうお思いになるんですよ。私だって不思議に思ってますもの。
こんなオタフクのどこがいいんだろうねえ、西条の旦那は」
そう言いながら、手拭いを取り替えた。
「随分熱いわねえ」
「ええ。今朝から熱っぽかったんです。こんなことになるのなら、でかけなければよかったわ」
ヤス子の手が秀子の額を確かめた。
「あら、やだ。まあ、どうして気が付かなかったのかしら?
あの人もニブチンよねえ……。こんな身体で逃げられるわけがない」
ヤス子が立っていった。

再び戻ってきたヤス子の手には包丁が握られていた。
秀子は息が止まるほど驚いたのだが、観念して目を閉じた。
この人にしてみれば、長い付き合いの恋人を奪った憎い女なのだろう。
夫は、両手首両足首をぎっちりと縛っていったのだから、秀子の命をヤス子に委ねたということだ。

ふくらはぎに冷たい金属を感じた。
ついで、手足を固定していたロープが外れた。
ヤス子はまた立っていき、包丁を戻して帰ってきた。
自由になった秀子は立ち上がった。
「逃げませんから」
そう言って廊下に出た。

秀子が用を足して元の場所に戻ってきた時、ヤス子は目尻に涙を浮かべて笑っていた。
「そりゃそうですよね。本妻さんだって生身の人間ですもの」
秀子に気付いたヤス子だが、尚もげらげらと笑っている。
「何のことです?」
「お宅様がお手洗いに行きなさるなんて。
本当にまあ、花のかんばせ。頭のてっぺんから脚の爪先まで一分の隙もなく、声だってまるで観音様のよう。
とっても想像できませんでしたよ」
「私、そんな完璧なものではありませんわ。少なくとも、まだ観音様のお声を聞いたことはありませんもの」
秀子は憮然として言った。

ヤス子はまだ笑い続けていた。
笑いすぎて喉が渇いたらしく、ヤス子は急須に茶葉を突っ込んだ。
お湯を入れ、急須を揺すり始めたのを見て、
「私が致します」
と秀子が申し出た。
「それならお願いします。お宅様から見れば、私など無教養な詰まらぬ女でしょうね」
「今日初めてお会いした方です。何も申し上げられませんわ。
でも、主人が惹かれている方なのだから、魅力がおありなのでしょう」
「魅力? まさか。まあ、皮肉で仰るんでしょうけど、そのお声で聞くと、本当に何か私に魅力があるように錯覚しますよ」

秀子は湯呑みを差し出しながら、謙遜をしているのか自覚をしているのかよく分からないヤス子の真意を探ろうとした。
「主人はあなたを決して手放しませんわ。そんなに熱く愛しているのだから、あなたを奥様に迎えれば良かったのに」
「ご冗談を」
「私、ずっとそう思ってました。
あなたをここに置いて、一生寄り添うおつもりならば、あなたを正式の奥様として西条の家に迎えれば良いんです。
あなたのためと思えば、ご両親を説得できぬ訳がありません」
「呆れた。お宅様の子供っぽさったら。私のことをそんな風に見ておられたの?」
「ええ。そんなに子どもじみているのでしょうか? 私には分かりません。
でも、ずっと後からやってきた女が恋人の妻になったのに、どうして平気でいらっしゃるの? こんな残酷な仕打ちってないと思います」
「愛し合う者同士の結婚こそ幸せ、ですか?」
ヤス子はまた笑い転げた。
「本当にまあ、とんでもないインテリ女だ。
私にはお宅様の言うことなんざ、これっぽっちも分かりませんよ。
身分が釣り合わぬから妾。それのどこが悪いってんです?
本妻だろうが、妾だろうが、夫に対してすることは同じじゃないのさ。
それとも、舅姑に仕える分だけ、本妻の方が偉いって言うんですか?」
「あなたは平気なのですか?
……私は辛いわ。形だけの、愛されぬ妻だなんて、本当に辛いものです」
「本妻の立場が、ですか?」
「ええ」
「それならご心配なく。お宅様が西条家にお戻りになることはありません。
ご主人が、近いうちにあなた様の家も見つけてくださいますよ」

何も知らない秀子に、ヤス子が話して聞かせた。
淳之助の提案のこと、舅がその提案を退けかねて迷っていること、
つまり功喜が秀子を連れ帰ったら淳之介に彼女を取られる恐れがあること。

「主人はあなたには何でもお話しするのね」
「長い付き合いですからね」

由子がお昼寝から覚めて愚図った。
ヤス子は赤ん坊を抱いて連れてきた。
どちらかというと、夫に似ているだろうか?

「しばらくは一緒に暮らしますからね、子どもは嫌いでも慣れといてくださいよ」
子どもを嫌った覚えはない。
一年前に養女を断ったことをまだ恨んでいるのだろうか。
しかし、それより秀子が功喜とヤス子しか知らない家に監禁される方が問題である。

「ここにいたくありません。困ります」
「困ると言ったって、ご主人が決めたんですよ」
「でも……」

松吾は秀子を探し回るだろう。
最初は大家宅に行って、ついで西条家へ押し入ろうとするに違いない。
どちらにも秀子はいないというのに。

「お願い、見逃してください。私を松吾さんの元に返して」
「ダメですよ。逃がすなと言われています」
「力ずくで逃げたと仰ってくださいまし。
松吾さんにお話しして、今の家から引っ越します。そうしたら、私、もう二度と外へは出ませんわ。それなら見つからないでしょう?
そのうち主人も諦めるでしょう。その方があなたにも良くない?
ね、そうしましょう?」
「あの人が、やっと見つけたあなた様をもう一度失う……?
だめです、そんなことしたら……。
それにね、そんなに腫れたお顔を見せたら、松吾さんとやらも逆上しますよ」
「止めますわ、必ず」

ヤス子も秀子の真剣な様子に困っていた。
本当にこの人の恋人が罪を犯すようなことがあったら、彼女も生きてはいないだろうと思われた。
それはそれで厄介だ。

「こうしましょう。
松吾さんが心当たりがあるのは、西条家のお屋敷だけでしょう?
本妻さんは忘れておられるようだけど、川辺セリって女は、ご主人の御手付きの女中だったんですよ。
その女とて、婚家に過去のことを知られたくないでしょうから、松吾さんが騒ぐ前にそっと教えるはずです。
私がお宅様の居所を教えてきて差し上げる。西条家の前で見張っていれば会えるでしょうよ。
その間に女三人の御夕飯こさえといてくださいな。家出前ならともかく、今なら炊事もできるでしょ?」

秀子はしばし思案したが、
「よろしくお願いします」
ヤス子に頼ることにした。


工員風の若い男を見かけるたびにどきりとしたが、日が暮れて辺りが暗くなり始めた頃、その男が走ってやってきた。
弾む息を整えながら、様子を窺おうとしている。
間違いない。

「あの、もし。八重山松吾さん?」
後ろから声を掛けた。

男は弾かれたように向き直り、ヤス子を抱え込んで短刀を見せた。
「誰だ?」
この殺気はますます間違いないと思った。
「先刻まで西条秀子さんといましたんでね、彼女の居所を教えに来て差し上げたんですよ」
男は不審げに眉を寄せた。
「私を信用するもしないもお宅様のご自由に。押し入っても秀子さんはいらっしゃらないよ、確かめてみるかい?」
「とりあえず話を聞かせてくれ。あなた様は?」
「私は粟本ヤス子と言って、ここの旦那の妾です。
旦那はお宅じゃなくて、妾宅に正妻さんを連れてきなすったんです。
正直私も困りましてね。だって、ねえ? 本妻さんの前じゃ仲良くもできませんしねえ。
かといって旦那様からきつく言われてますから、逃がすわけにも行かない。
その上お宅様が犯罪者にでもなっちまったら、自害しかねない勢いでね、物騒だったらありゃしないんですよ。
どう、信じます?」
松吾は短刀を納めた。
「はい、けっこう。じゃ、ご案内してあげましょう。ついてらっしゃいな、急いでね」


ヤス子の目の前で抱き合うことはできない。
若い恋人達は早口で今後の計画を話した。
どうやら功喜に知られた家から移る算段であるらしい。

急ぎ松吾を帰した。
一部始終は見ていても、由子はまだ片言しか喋らなかったから、夫に知られることはあるまい。


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